阿仏尼邸跡

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阿仏尼邸跡

(あぶつにていあと)

十六夜日記の作者、阿仏尼が住んだ場所です。相続争いにおける息子の正当を訴えるため、京都から鎌倉へとやってきた阿仏尼の屋敷がここ、月影ヶ谷にありました。

エリア長谷・腰越
住 所鎌倉市極楽寺3-12

江ノ電線路脇、潮風香る地にあります。隣に立つ歌碑は、戸川稲村のもの。

江ノ電線路脇、潮風香る地にあります。隣に立つ歌碑は、戸川稲村のもの。

江ノ電の極楽寺駅と稲村ケ崎駅の間の線路沿いにあります。月影ヶ谷という洒落た名前の場所です。

阿仏尼(1222?-1283)は、所領紛争解決のための京都から鎌倉への道中と滞在を記した十六夜日記の作者。藤原定家(1162-1241)の子、正二位・権大納言(権は仮のという意味)藤原為家(1198-1275)の側室です。阿仏尼の子は冷泉家の祖となった冷泉為相(1263-1328)。

阿仏尼は、1277年~1280年頃、実子・藤原(冷泉)為相と異母兄である藤原為氏との間に起きた所領紛争を鎌倉幕府に訴えるために京都から鎌倉へと訪れ、鎌倉に滞在。この地で没しました。その道中と鎌倉滞在を十六夜日記に記しました。当時の訴訟を当事者の筆によって知る貴重な資料でもあります。

十六夜日記には月影ヶ谷についてはこのように記されています。
「あずまにてすむ所は、月かげのやつとぞいふなる。浦近き山もとにて、風いとあらし。山寺のかたはらなれば、のどかにすごく浪の音松のかぜたえず。」

子の冷泉為相も度々鎌倉へと訪れ幕府に訴え、勝訴を得ます。その際には鎌倉における歌壇を指導し「藤ヶ谷式目」を作るなど鎌倉連歌の発展に貢献しました。晩年は鎌倉に住み、将軍を補佐したといわれています。鎌倉に没しました。墓は浄光明寺にあります。

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