天津神明宮

目 次

天津神明宮

(あまつしんめいぐう)

源頼朝と神との約束が果たされたお宮様

石橋山合戦に敗れ安房国に上陸した源頼朝は、再起の途上源氏再興を伊勢の神々に祈願。成就しつつあった元暦元年(1184年)、この地に勧請しました。

天津神明宮の御正殿。左右には紅山桜が植えられています。別名は大山桜、蝦夷山桜。東北や北海道に自生している桜です。まだ鎌倉のソメイヨシノは咲いていませんでしたが、もう咲いていました。

天津神明宮の御正殿。左右には紅山桜が植えられています。別名は大山桜、蝦夷山桜。東北や北海道に自生している桜です。まだ鎌倉のソメイヨシノは咲いていませんでしたが、もう咲いていました。

エリア千葉
住 所千葉県鴨川市天津2950
祭 神天照皇大神(あまてらすおおみかみ)、豊受大神(とようけおおかみ)、八重事代主神(ことしろぬしのかみ)、大山祇命(おおやまつみのみこと)、他七柱の神
創 建古代は不明/1184年(寿永3年)は源頼朝
アクセスJR外房線「安房小湊駅」より、鴨川日東バス(天津駅・鴨川駅方面)に乗車、「神明神社前」下車。もしくは同駅からタクシーにて約5分
公式HPhttp://www.shinmei.or.jp/ja/

概要

天津神明宮という名前はいかにも美しく、惹かれます。豊かな房総半島外房、千葉県鴨川市天津、昔の安房国長狭郡にあり、古代、神の御代から、もうけ明神(=事代主神=えびす様)として敬われていました。その後、中世になり源頼朝が厳しい情勢であった挙兵初期に源氏再興を伊勢神宮に祈願し、成就の暁には御厨を納めると誓願しました。その後、祈願成就した頼朝によりお伊勢様が勧請され、現在の形となりました。

天津神明宮は、神代より「もうけ明神」として仰がれていたこと、源頼朝が源氏再興を祈願・成就し伊勢の神々を勧請したことの他に、もう一つ、鎌倉仏教の巨人・日蓮ゆかりのお宮様でもあります。

天津神明宮という名前はいかにも美しく、惹かれます。そして、所在地の鴨川市は眼前には外房に広がる広大な海、背後には日蓮が修行した清澄山や嶺岡山系などの豊かな山々を備え、天皇家の大新嘗祭にも献上された長狭米を生産するなど、農業生産にも恵まれた豊かな土地です。有名な鴨川シーワールドもあり、同宮への参詣を兼ねて家族旅行というのもよいと思います。

千葉、鴨川の水田と山々。長狭米の産地です。

千葉、鴨川の水田と山々。長狭米の産地です。

天津神明宮の背後に広がる鴨川の山々。

天津神明宮の背後に広がる鴨川の山々。

千葉、鴨川の海と山。山麓あたりに、日蓮生誕地に創建された誕生寺の堂宇がみえます。

千葉、鴨川の海と山。山麓あたりに、日蓮生誕地に創建された誕生寺の堂宇がみえます。

神代より「もうけ明神」として仰がれる

神代に天皇守護の8神である事代主神が国譲りの後、海路この地を訪れ東方鎮護の神として鎮座されたため、人々は社を建て「もうけ明神(えびす様)と尊称した」と伝わり、これが由緒の始まりです。

事代主神は、天津神(天孫降臨以前から国土を治めていたとされる土着の神)の代表的存在であり、国譲りの神としても有名な大国主(おおくにぬし)の子です。国譲りの神話において、釣りをしていたことから、海のイメージがある恵比寿神と同一視されることがあり、天津神明宮の場合もまさにこれです。

このように、源頼朝との関わりまでは、もうけ明神(=事代主神=えびす様)として地元の人々に信仰される社であったということでしょう。

源頼朝が源氏再興を祈願・成就し伊勢の神々を勧請

これから、いよいよ源頼朝が登場します。
伊豆配流の身であった頼朝は、以仁王による平氏追討の令旨を受け治承4年(1180年)8月17日、挙兵。伊豆国目代の山木兼隆を討ち取り、現在の神奈川県小田原市石橋にある石橋山に布陣、大庭景親率いる平氏方と合戦に及ぶも敗れ、湯河原・箱根辺りの山中に忍び、真鶴町岩海岸から海路を逃走、天津神明宮のある房総半島南部の安房国(千葉県)平北郡猟島に上陸しました。現在の千葉県安房郡鋸南町竜島です。船出した岩の海岸は「源頼朝船出の浜」として、上陸した地は「源頼朝上陸の地」として石碑が建立されており、昔を偲ばせるに充分な風情を残しています。

真鶴岬を船出した頼朝が上陸した猟島の海岸。現在の千葉県安房郡鋸南町竜島。房総半島の南にあります。

真鶴岬を船出した頼朝が上陸した猟島の海岸。現在の千葉県安房郡鋸南町竜島。房総半島の南にあります。

治承4年(1180年)8月29日、安房国に上陸した頼朝は、平北郡猟島から上総広常の元を目指して出発。千葉常胤、上総広常ら有力者に使者を派遣しつつ、洲崎神社(千葉県館山市洲崎1344)に参拝するなどして内房沿いを北上、習志野あたりに着く頃には陣容が整っていました。

北上する頼朝は、伊勢神宮に源氏再興を祈願され、もし大願成就したなら御厨を寄進すると神に誓いました。その後、鎌倉入りを果し、治承・寿永の乱の最有力者となりつつあった源頼朝は、都落ちし西海へと逃れた平氏を追討するため、弟・源範頼を大将する鎌倉の大軍を出陣させようとする直前の元暦元年(1184年)、「もうけ明神」として信仰されていた同宮に伊勢の神々(天照皇大神、豊受大神)を勧請しました。これにより同宮は「房州伊勢の宮」と仰がれるようになり、現在のように天津神明宮となりました。

『吾妻鏡』該当部分、要約

一応、天津神明宮の記述を探して『吾妻鏡』、元暦元年(1184年)の項をみてみたのですが、次のものしか見つけられませんでした。見落としていたらすみません。
◎『吾妻鏡』1184年(元暦元年)5月3日
〈平氏の大軍を一の谷に破り、源範頼を大将とする平氏追討軍が西海へと向かって出陣する直前の時期です。〉

源頼朝は二つの村を二所大神宮(伊勢の皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮))に寄進奉られた。去る永暦元年(1160年)2月に伊豆配流となり京を出られた時、霊夢をみられてからというもの当宮への信仰は他の社とは異なる特別なものであった。
こういうことであったから、平氏の党類らが伊勢国にいるという噂が伝えられると、「軍師派遣の際には、たとえ凶賊がいる場所であっても、伊勢神宮の祠官に無断で神が鎮座される地にむやみに乱入してはならない。」と幾度も命じられていた。
内宮の御分は武蔵国飯倉御厨で、内宮の一禰宜(いちのねぎ)であり、る荒木田成長神主の管轄とし、外宮の御分は安房国東条御厨(安房国長狭郡=現在の千葉県鴨川市東部)で、会賀次郎大夫光倫の管理とした。
一品房が奉行を務め二通の御寄進状が遣わされた。東条御厨の事については、先立って御寄進状が出されており、昨年11月に伊勢神宮の禰宜たちが請文(上位者に対する報告あるいは、上申文書)を提出していたという。しかし、寄進状と請文の内容が異なっており、お困りになられていた。頼朝はためらわれたが、御心中の祈願が成就したのは、全く尊神のお助けであると、ますます御信心を起こされた。
ちょうどその時、光輪が鎌倉に参上したので心願の趣旨を書かれ、御書を光輪に賜った。光輪は衣冠を正して御所に上がり、これをいただいた。

日蓮とのゆかり

天津神明宮の最寄駅はJR外房線「安房小湊駅」。安房小湊は鎌倉仏教の巨人・日蓮の生まれた場所です。

日蓮は貞応元年(1222年)、阿波国長狭郡東条郷片海(千葉県鴨川市小湊)で生まれました。『本尊問答抄』で「海人が子なり」と語っています。天福元年(1233年)、同じ鴨川市の清澄山にある清澄寺に入門、暦仁元年(1238年)に出家し、寛元3年(1245年)から比叡山、高野山、三井寺などにて修行、建長5年(1253年)に清澄寺に戻り、同年、清澄寺にて悟りを開き、立教開宗しました。

清澄寺。日蓮が入門、出家し、立教開宗した寺院。

清澄寺。日蓮が入門、出家し、立教開宗した寺院。

日蓮が生まれ育った小湊から天津神明宮はとても近く、距離にして約4.5km、歩いても小一時間といったところです。また、小湊から清澄寺に行く道の途中にあり、「修行地清澄へのお通りがかりには必ず参拝されたと言われます。」と社伝にあります。誕生地(小湊)も清澄寺もいってみましたが、まさに通り道でした。

また、社伝には日蓮遺文にて同宮を「昔は日本第二の御厨。今は日本第一なり。辺国なれども、日本国の中心のごとし」とあるとしており、日蓮が立教開宗の後、妙法弘通(法華経を広く世に知らしめること)を天津神明宮に記念し、その時に納めたという「川向の御本尊(川向の御曼荼羅)」が神社の宝物として伝えられています。

境内

神社は、目前に外房の大海原、背後に清澄山を控えた静かな森の中にあり、心静かに参拝するにはとても良い環境。境内には一ノ鳥居、二ノ鳥居、三ノ鳥居と入っていきます。御正殿を中心に、孫釣大明神、なぎなみ神社、春日社、長神社、札所などが配されており、県指定天然記念物の「まるばちしゃの木」もあります。また、境内奥には御神水があり、甘露のような水を求めて多くの参拝者が訪れるということです。

孫釣大明神祠は、斉藤定七翁という漁業の発展に貢献した翁が祀られています。新事業を興すにあたって御利益多大であると言われています。

天津神明宮の一ノ鳥居。背後は山々、写真手の方向が海です。

天津神明宮の一ノ鳥居。背後は山々、写真手の方向が海です。

天津神明宮の参道とニノ鳥居。この鳥居と三ノ鳥居は、二十年に一度、伊勢神宮の式年遷宮にならって建て替えられます。

天津神明宮の参道とニノ鳥居。この鳥居と三ノ鳥居は、二十年に一度、伊勢神宮の式年遷宮にならって建て替えられます。

天津神明宮の三ノ鳥居と御正殿。境内は森々としています。

天津神明宮の三ノ鳥居と御正殿。境内は森々としています。

天津神明宮の三ノ鳥居。鳥居をくぐると神々がいらっしゃる聖域です。

天津神明宮の三ノ鳥居。鳥居をくぐると神々がいらっしゃる聖域です。

天津神明宮の境内。正面に御正殿、右に舞台、春日社が見えています。

天津神明宮の境内。正面に御正殿、右に舞台、春日社が見えています。

市の天然記念物にも指定されている神明神社の林。山頂にはなぎなみ様がいらっしゃいます。

市の天然記念物にも指定されている神明神社の林。山頂にはなぎなみ様がいらっしゃいます。

天津神明宮の境内、孫釣大明神祠。

天津神明宮の境内、孫釣大明神祠。

天津神明宮の御神水。地下40mの岩盤からくみ上げた霊水。

天津神明宮の御神水。地下40mの岩盤からくみ上げた霊水。

「まるばちしゃの木」は、県の天然記念物に指定されている大きな木です。沖縄や吸収などの海岸山地に稀に自生する木であり、「この木がその北限である可能性が高い」と説明板にあります。

天津神明宮の「まるばちしゃの木」。

天津神明宮の「まるばちしゃの木」。

神社の東側には、なぎなみ山があり、頂には国産み・神産みにおいて多数の子を産み日本列島を次々と産み出したんだ天照皇大神の親神、伊邪那岐(いざなぎ)と伊邪那美(いざなみ)がお祀りされています。縁結び、海上安全、産業繁栄に御利益ありといわれます。山は4月上旬の山開きの時だけ開かれます。

市の天然記念物にも指定されている神明神社の林。山頂にはなぎなみ様がいらっしゃいます。

市の天然記念物にも指定されている神明神社の林。山頂にはなぎなみ様がいらっしゃいます。

市の天然記念物にも指定されている神明神社の林。山頂にはなぎなみ様がいらっしゃいます。

市の天然記念物にも指定されている神明神社の林。山頂にはなぎなみ様がいらっしゃいます。

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