仏行寺

目 次

仏行寺

(ぶつぎょうじ)

梶原源太景季の菩提寺

仏行寺は、名将 梶原景時の嫡男、梶原景季ゆかりの寺院であり、笛田の静かな住宅地にあります。

エリア深沢
住 所鎌倉市笛田3-29-22
開 山仏性院日秀
創 建1495年(明応4年)
本 尊十界互具曼荼羅
アクセス「鎌倉駅」より京急バス「笛田」もしくは「常盤口」バス停下車、徒歩10分

仏行寺境内。背後が山ですから、無粋な近代建築や電線がありません。

仏行寺境内。背後が山ですから、無粋な近代建築や電線がありません。

名将梶原景時の子、景季ゆかりの寺院にして躑躅の名所

仏行寺のある深沢地域一帯は、名将として鎌倉幕府の創成と基盤整備に多大な貢献を果たした梶原景時を始めとする梶原氏ゆかりの地域であり、梶原氏ゆかりの梶原郷はいまも「梶原」という地名として残っています。
仏行寺は子の梶原景季ゆかりの寺院。梶原景時は源頼朝亡き後、有力御家人たちに敵対視され、滅ぼされてしまいます。景季も父に従い鎌倉を去った後再起を狙いますが駿河において討ち取られます。これをきいた景季の妻、信夫(しのぶ)はこの地において自害。その悲しみは癒やされることなく、いつまでも悲しい泣き声が聞こえてきたといいます。村人たちは信夫の霊を慰めるため1495年(明応4年)、仏性院日秀に供養を依頼し、この地に庵を結んだのが仏行寺の始まりといわれています。

鎌倉の西側、鎌倉中央公園と笛田公園に挟まれたあたり、鎌倉駅から市役所前の通りを藤沢方面に3kmほどいったところに梶原という地名があります。 梶原景時はこの地を得たことから梶原を名乗ったといわれています。

梶原氏の系譜

梶原氏の系譜は諸説があります。代表的なものは桓武平氏良文流である鎌倉氏の支流であるという説です。本家である鎌倉氏には相武国造の子孫であるという説もあり、そうなると梶原氏もその系譜ということになります。
国造(くにのみやつこ)とは7世紀頃に成立した古代日本の地方を治めた役人のことです。相武国造(さがむのくにのみやつこ)は相模国東部(相模川流域、現在の神奈川県中央部)を支配していました。

梶原景季

源頼朝の信頼厚い有力御家人

梶原景季は1162年(応保2年)に生まれ、1200年(正治2年)に亡くなりました。別名は源太塚でわかるように源太です。源頼朝は鎌倉入りすると寝所の警備に信頼できる者11名を選び、この中に景季が入っていることから、父景時とともに主君頼朝にとってとても信頼できる家臣であったことがわかります。そのことが記された『吾妻鏡』の箇所です。

1181年(治承5年/養和元年)4月7日
御家人等の中、殊に弓箭に達するの者、また御隔心無きの輩を選び、毎夜御寝所の近辺に候すべきの由定めらると。

江間の四郎(北条義時)下河邊庄司行平結城の七郎朝光、和田の次郎義茂、梶原源太景季、宇佐美の平次實政、榛谷の四郎重朝、葛西の三郎清重、三浦の十郎義連、千葉の太郎胤正、八田の太郎知重

宇治川の先陣争い

武勇に優れた梶原景季は木曽義仲と戦った宇治川の戦いにおいて佐々木高綱と伝説的な先陣争いをおこない、いまに語り継がれています。
1183年(寿永2年)7月25日、平氏は木曽義仲に攻められ都落ちします。都を制圧した義仲は徐々に朝廷と対立し、後白河法皇は源頼朝に義仲追討を命じます。これに先立って後白河法皇より東海道、東山道(東国)の支配権を得た頼朝は、弟範頼義経を大将とする義仲追討軍を派遣します。
義仲追討軍に加わった梶原景季と佐々木高綱は源頼朝が持つ名馬、生食(いけづき)を所望します。最初は景季が頼朝の元へと参じますが生食を得ることはできず、かわりに磨墨(するすみ)を下されます。
その後に高綱が頼朝から生食を下されたことを知った景季は、高綱を討ち自害しようとするが、これを察知した高綱は景季に「生食は盗んだもの」と伝えたため、景季は思いとどまります。
1184年(元暦元年)1月20日、宇治川を挟んで義仲軍と頼朝軍は対峙します。名馬を得て先陣を狙う景季と高綱。川底には渡河防止の縄が張り巡らされていました。縄を切りながら先に進む景季に対して、高綱は馬の腹帯が緩んでいると声を掛け、その隙に高綱は景季を抜き去り先陣をとりました。戦は頼朝方の勝利となり義仲は討ち取られました。

判官贔屓の割りを食った父、梶原景時

梶原景季の父、梶原景時は源頼朝の最も重用した側近の一人です。平氏討伐軍では源義経の軍に奉行(目付役)として加わり義経の勝手な振る舞いを頼朝に報告したことから、「義経を貶めた悪役」として格好の標的となり、源頼朝とともに判官贔屓などという安易な見方の犠牲になっている感があります。さらに、讒言をもって結城朝光を貶めようとして幕府の有力御家人66人により糾弾され、追放・追討されたと鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』に記録
されており、日本を代表する悪役といった役割になってしまっています。同書にはさらに「2代にわたる将軍の寵愛をかさに傍若無人な振る舞いをし、多年の悪行が遂に身を滅ぼした」というような記述もあります。
しかし、『吾妻鏡』は北条執権政治の時代につくられたものです。九条兼実の日記『玉葉』をみると、景時が追放された原因は、将軍源頼家に対して、実朝を担ごうとする陰謀があると報告したためと書かれています。この数年後には北条氏自身が頼家を追放し実朝を将軍にたてるわけですから、『吾妻鏡』の記述を鵜呑みにはできません。
さらに、源義経は源頼朝のグランドデザインを理解できずに、朝廷に取り込まれるという「鎌倉」創成にあたって最もやってはいけないことをしていますから、一方的に景時が悪役というのは安易すぎます。そもそも、源頼朝による鎌倉創成に景時の果たした役割は大変大きいことは事実であり、義経の美化された物語の方がよほど眉唾です。

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