畠山重忠

(はたけやま しげただ 1164-1205)

頼朝が最も頼りとした知勇兼備の名将

 畠山重能の子。母は三浦義明の娘。三浦、上総、千葉の各氏と同様、源頼信に始まる源氏の家人となった坂東平氏のひとつ。武蔵武士団の首領。頼朝が最も頼りとした忠義と知勇を兼ね備えた伝説的名将。多くの武士団同様、父重能は源義朝が平治の乱に敗死した後は平氏に従っていた。頼朝挙兵の時、父重能は大番役として京都にいたことから、17歳だった重忠は平氏方として出兵。三浦氏の居城衣笠城を攻め母方の祖父であった三浦義明を討ち取る。頼朝が安房国で再起すると先祖の平武綱が源義家より与えられた源氏の白旗を持って頼朝の元へと帰参した。頼朝はこれを受け入れ重忠は鎌倉入りの先陣を務めた。以後、木曽義仲追討、平氏追討、奥州合戦などにおいて悉く大功を挙げ、2度の頼朝上洛では先陣を命じられるという名誉に浴している。義仲との宇治川の戦いでは、真っ先に宇治川を押し渡り馬を射られ徒歩となり、流されてつかまって来た大串重親を対岸に投げ飛ばし、重親は一番乗りとなったという怪力伝説が『平家物語』に語られる。実朝の代となった1205年(元久2年)、子の重保が北条時政の後妻牧の方の娘婿である平賀朝雅と酒席において争った。重忠の支配する武蔵国の実権を得たい北条氏は将軍実朝に重忠謀反を訴え追討の命を得る。北条義時率いる大軍と武蔵国二俣川において少数の手勢をもって戦い自害した。頼朝の遺言「大名、公家に惑わされず、畠山重忠をもって日本国を鎮護すべし」を守れなかった実朝もまた陰謀に沈むこととなる。

歌川国芳の描いた畠山重忠。鵯越えで馬を背負っているところ。

歌川国芳の描いた畠山重忠。鵯越えで馬を背負っているところ。

関連史跡:畠山重忠邸跡畠山城址瀧不動堂永福寺跡

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