目 次

奥州合戦

義経を棟梁に頼朝と戦えという藤原秀衝の遺言を実行できなかった子の泰衝は頼朝の圧力に負けて義経を誅殺。頼朝は謀反人義経を庇った泰衝を許さず、奥州征伐を成し遂げます。

奥州合戦

和暦 西暦 天皇/将軍/執権 日付 鎌倉の動向
文治5年 1189年 後鳥羽 6月24日 頼朝は、奥州出陣に備え御旗を作るよう千葉常胤に命じた。夜になり奥州追討の儀は猶予するよう朝廷からの使者が献じられようとしているという知らせが一条能保から届いた。
6月25日 頼朝は奥州追討の宣旨を再度朝廷に催促した。
6月26日 奥州で兵乱あり。藤原泰衝が義経に味方した弟の忠衝を誅殺した。朝廷の宣下に従ったものだという。
6月27日 頼朝は奥州征伐の準備に余念がなく、鎌倉にはすでに千人もの兵が集まっていた。武蔵、下野は奥州への経路にあたるため準備の上、進軍時に合流するよう命じた。
6月28日 奥州合戦、泰衝征伐にあわせ鶴岡八幡宮の放生会は来月1日に行うこととなった。
6月29日 頼朝は崇敬する愛染王像を武蔵の慈光山(現埼玉県比企郡ときがわ町)におくり、これを本尊として奥州征伐の祈祷に専念するよう命じた。この寺は頼朝が伊豆配流中より帰依していた。
6月30日 頼朝が未だ勅許がない奥州征伐について古老、大庭景能に相談。景能は軍陣中は天子ではなく将軍の命を聞く。それに泰衝は代々源氏の家人であり征伐に問題はないと答えた。頼朝は感心したという。
7月5日 頼朝は富士御領の帝尺院に奥州征伐の祈祷のため田地を寄附した。
7月8日 千葉常胤が新調した御旗を頼朝に献上した。源頼義が前九年の役において使用した物と同じ寸法であった。頼朝挙兵後、常胤が参向してから諸国が帰服した吉例にならって命じたという。
7月10日 伊勢国沼田御厨の住民らが吉見頼綱が住民の財産を差し押さえるなどの不義をしているとの訴状を受け、速やかに狼藉を停止するように下知された。奥州征伐のため特に速やかな裁許であった。
7月12日 京都に飛脚を遣わし、泰衝追討の宣旨を再度の催促。この飛脚によって頂戴したいと強い催促であった。
7月14日 奥州征伐の頼朝の御供を命じられた波多野義景に命じた。命を受けた義景は戦場に向かえば帰るつもりはないと所領を幼い息子に譲った。これを聞いた頼朝はたいそう感心したという。

奥州へ向け、頼朝出陣

和暦 西暦 天皇/将軍/執権 日付 鎌倉の動向
文治5年 1189年 後鳥羽 7月16日 京都に遣わした飛脚が戻った。泰衝追討の宣旨についてはやはり今年中は思いとどまられるようにとの宣旨が下された。頼朝は鬱憤を抱き、多くの軍勢が集まった今必ず出兵を行うといった。
7月17日 奥州征伐の審議。軍を三手に分け、東海道を千葉常胤・八田知家、北陸道を比企能員・宇佐美実政、中路より大手軍を頼朝が率い先陣は畠山重忠となった。留守の鎌倉は三善康信が任された。
7月18日 伊豆山の僧専光房に命じて、御所の後ろの山に自ら仏堂を創建し年来頼朝が本尊としている正観音像を安置するよう、また、奥州征伐のための祈祷も命じた。
7月19日 頼朝、奥州遠征へと出発。梶原景時の進言により囚人であった城長茂も許され御供に加わった。
7月25日 頼朝軍は下野国古多橋(現宇都宮市)の駅に到着。宇津宮社に奉幣し祈願した。
7月26日 古多橋を出発した頼朝軍に、常陸から参じた佐竹秀義が加わった。頼朝と同じ白旗だったため月の出を描いた扇をおくり、それを旗の上につけるよう命じた。
7月28日 新渡戸(現栃木県那須郡)の駅に到着。軍勢を掌握するため手勢を報告させると、城長茂の郎従は200人を超えており頼朝は驚いたという。
7月29日 白河関(現福島県白河市)を越える。関明神に奉幣した。
8月7日 国見の駅(現福島県伊達郡国見町)到着。夜半、頼朝は明朝泰衝の先陣を攻撃すると命じた。畠山重忠はその夜の内に人夫80人を引き連れ堀を塞いだ。頼朝は重忠の思慮は神に通ずると感嘆した。
8月8日 数千騎を率いて阿津賀志山(現厚樫山)の前に陣取った金剛秀綱に対し頼朝軍は攻撃を仕掛けこれを破った。
8月9日 夜半、明朝の阿津賀志山を越えて攻め入ることが決められた。夜半になり三浦義村、葛西清重らが夜のうち密かに山を越え奥六郡第一の豪腕、伴藤八らを討ち取った。
8月10日 頼朝は阿津賀志山を越え木戸口に攻め寄せ国衝の守る砦を撃破、和田義盛、畠山重忠らの追撃により国衝は討ち取られた。根無藤と四方坂の中間でも激戦があったが頼朝軍が勝利した。
8月11日 頼朝は船迫宿(現宮城県柴田郡柴田町船迫)に逗留した。
8月12日 9日の阿津賀志山の合戦において若年ながら河村千鶴丸の活躍を耳にした頼朝は御前において急遽元服することとなり、河村四郎秀清と名乗った。
8月13日 北陸道軍の比企能員、宇佐美平次が出羽国に討ち入った。泰衝の郎従である田河行文、秋田三郎らを討ち取った。頼朝は多賀の国府に入って休息した。
8月14日 泰衝の居所について2つの情報があり、玉造郡(現宮城県)と中山の上の物見岡であった。頼朝は玉造郡へと向かい物見岡には別働隊を派遣した。物見岡にいた形跡があり泰衝はすでに逃亡していた。
8月20日 頼朝は玉造郡に到着し泰衝の多加波々城を囲んだ。泰衝はすでに逃亡しており残った兵は投降した。頼朝は平泉に向かった。物見岡の別働隊には無理をせずそのまま敵を追撃するよう命じた。
8月21日 頼朝は泰衝を追って平泉に向かった。各地で泰衝方が防戦したが頼朝軍はこれを撃破した。泰衝は逃亡前には火を放っており貴重な品々は焼失した。
8月22日 頼朝、奥州藤原氏の本拠地平泉を陥落させる。泰衝は館や蔵などに火を放って逃亡したため頼朝は泰衝を追って北上。
8月23日 頼朝は京都に飛脚を遣わし、平泉に入りさらに泰衝を追走している旨報告した。
9月2日 平泉を出た頼朝は泰衝の逃亡先を探索するため厨河に赴いた。源頼義が前九年の駅において安倍貞任を討ち取った場所である。その吉例にならったものだった。
9月3日 逃げ回る泰衝は数代の郎従である河田次郎を頼って肥内郡贄柵(現秋田県大館市)に着いた。ところが河田次郎は裏切り泰衝の首を穫って頼朝の元へと向かった。
9月4日 頼朝は陣岡の蜂杜に陣を敷いた。北陸道の比企能員・宇佐美実政が出羽国の敵を討ち滅ぼし合流した。軍勢は29万4千騎となったという。
9月6日 河田次郎が泰衝の首を陣岡の頼朝の元へと持参した。前九年の役において頼義は安倍貞任の首を横山経兼が承った故事に則り、経兼の曽孫時広に命じて同じようにさせた。
9月7日 泰衝の郎従、由利維衝を生け捕った。
9月8日 朝廷に飛脚をおくり、奥州征伐について消息を伝えた。
9月9日 一条能保の使者が7月19日付け奥州追討の宣旨(口宣)及び院宣を持参し頼朝のいる陣岡に到着した。
9月10日 中尊寺の大法師心蓮が頼朝の元を訪れこれまでどおりの庇護を訴え認められた。
9月11日 頼朝は陣岡を出発した。藤原清衝の時代に勅願円満の祈祷料所とされた寺社は頼朝より今後も相違ないという下文を受けた。
9月13日 今回の騒乱により混乱した庶民に対し、頼朝は元の住所を安堵するようよくよく伝えたという。また由利維衝は勇敢の誉れがあり御赦免となった。
9月14日 陸奥、出羽の地図などの行政関連書類が焼失したため、故実に明るい清原実俊と弟の橘藤五実昌を召し出し詳細を問うとほぼ誤りなく記憶しており頼朝も大いに感心し、召し使うことにしたという。
9月15日 樋爪俊衝と弟の季衝が降伏し厨河に参上。頼朝は老体の俊衝を憐れみ八田知家に預けると俊衝は法華経を読誦する他は一言も発さないという。翌日これを聞いた頼朝は旧領を安堵した。
9月17日 奥州藤原氏3代が造立した寺社について報告があると、頼朝は寺領は全て寄附し祈祷に励むようにと命じた。
9月18日 厨河柵において藤原秀衝の四男高衝が降人となった。熊野別当も捕らえ残党もことごとく捕らえ終えた。源頼義による前九年の役の吉例の通りであった。京都に報告の飛脚を送った。
9月19日 頼朝は厨河柵を発ち、平泉に向かった。
9月20日 勲功を調べてそれぞれに褒賞が行われた。
9月21日 伊沢郡、鎮守府において八幡宮に奉幣した。坂上田村麿将軍が勧請した霊廟であった。将軍が用いた弓矢や鞭が今も宝蔵にあるという。頼朝は喜び今後は源氏の御願として神事を行うよう命じた。
9月22日 陸奥国の御家人のことについては葛西清重が奉行するよう頼朝の命があった。幕府に仕える者は何事も清重を通して事情を伝えるようにとのことだった。
9月23日 頼朝は平泉において無量光院を参拝した。
9月24日 頼朝は葛西清重に対して平泉郡内の検非違所を管轄し、濫行を停止し罪科を糾断するようにと命じた。清重の今回の勲功は誠に抜きん出ており、これら重職の他数カ所の領地を拝領した。
9月27日 頼朝は衣河の遺跡を巡った。安倍頼時の遺跡である。
9月28日 鎌倉への帰路に着いた。囚人は多く赦免され、残ったものは30数人であった。
10月1日 多賀の国府において郡郷庄園について国郡に負担をかけたり住民を煩わすことのないよう地頭らに申し付けた。また様々なことは秀衝、泰衝時代の先例にならうようにと命じた。
10月17日 政子が鶴岡八幡宮甘縄神明社に参詣した。奥州合戦勝利の御礼としてであった。
10月19日 頼朝は帰路、下野国の宇都宮社に奉幣した。去る7月25日、奥州征伐成就の際には捕虜一人を神職としますと祈願されたとおり樋爪俊衝法師の一族をその任とした。
10月22日 祈願成就のため慈光山に米と長絹百疋を衆徒らに送った。
10月24日 鎌倉に到着。大江広元を召し、藤原泰衝を追討し捕虜をともない鎌倉に帰着した旨の飛脚を中納言藤原経房と一条能保に送った。
10月25日 鶴岡八幡宮の別当法眼が御所に召された。奥州追討祈願の勲功として砂金などが与えられた。
10月28日 梶原景時が安芸の大名葉山宗頼の処罰をすすめた。奥州征伐に参じるため鎌倉に向かったが駿河付近においてすでに頼朝進発を聞き帰国したという。所領の没収などが命じられた。
11月3日 朝廷からの使者。迅速な泰衝征伐を讃え、降人は関東で計らうように、また朝廷からの褒賞について検討するため功のあったものを注申するよう伝えられた。
11月7日 大江広元が使者として上洛することとなった。頼朝及び御家人への褒賞についてはその名を注申することもあわせて辞退することとなった。
11月8日 奥州支配のため陸奥国に留まっている葛西清重に対して、今回の合戦や不作などにより住民が苦慮していることに対する救済措置、残る泰衝郎従の捕縛などについて頼朝の指示があった。
11月23日 大倉観音堂(現杉本寺)が火事により焼失した。別当の浄台房は本尊を救出しようと焔の中に入った。人々はみな命はないものと思ったが、衣がわずかに焦げた程度で仏像を助けだしたという。
12月6日 朝廷より泰衝征伐の恩賞はやはり行われるべきであると院宣があったが、頼朝は重ねて辞退した。ただし、奥州、羽州の土地支配については来春にも沙汰されるよう返答した。
12月9日 永福寺造営の事始が行われた。数万の怨霊をなぐさめ、この世の苦しみを救うための建立であった。奥州の大長寿院を模し別称を二階堂とした。
12月23日 奥州からの飛脚が到着。義経や義仲、秀衝の子息などと名乗るもの達が鎌倉に向けて出陣するなどの噂があるという。頼朝は越後・信濃などの御家人に出陣の用意を命じた。
12月24日 陸奥国が騒然となっているとの報を受け、工藤行光、由利維平、宮六国平らが奥州に向けて出陣した。
12月25日 朝廷より伊豆・相模両国を永代にわたり知行するよう命じられ頼朝は了承した。また上洛するよう命があり、翌年上洛すると返事を送った。

大河兼任の乱

和暦 西暦 天皇/将軍/執権 日付 鎌倉の動向
建久元年 1190年 後鳥羽 1月6日 誅殺された藤原泰衝の家臣であった大河兼任らが義経や義高(木曽義仲の嫡子)と称して反乱を起こし鎌倉に向かって出陣した。
1月8日 大河兼任らの反乱を鎮めるため軍を派遣。東海道の大将軍は千葉常胤、東山道は比企能員。さらに上野、信濃などの御家人にも出陣を命じた。
1月15日 宿老千葉常胤の孫であり千葉胤政の子、成胤は奥州合戦に軍功あり頼朝は感心して御書を遣わした。軍功を褒め讃えるとともに今後は先陣を慎み身を大事にするよう記された。
1月18日 奥州反乱について使者が着き、小鹿島公成らが討死、由利維平は城を捨てて逐電したと伝えた。これを聞いた頼朝は普段見ているに、これは間違いで維平が討死し公成が逐電したのだろうといった。
1月19日 追って知らせが着き、頼朝の指摘どおり由利維平が討死し小鹿島公成が逐電したことを伝え、人々は舌を鳴らして感嘆したという。
1月20日 頼朝は伊豆山から戻る途中、石橋山合戦において討死した佐奈田与一・豊三の墳墓に寄り、かつての忠臣を思い涙を流した。
1月29日 由利維平討死の件について、手柄を焦って行動せず一丸となって当たるように指示し小鹿島公正のように一端逐電することも賢明だという使いを奥州へと送った。
2月12日 千葉常胤、比企能員、足利義兼らの討伐軍が大河兼任らの反乱軍を鎮圧。
2月23日 奥州合戦について鎮圧を報告する使者が鎌倉に到着。
3月10日 頼朝軍に敗れ逃亡していた大河兼任は住民らによって殺された。
4月11日 頼家が初の小笠懸を行い3度の弓を射たという。頼家の弓の師である下河辺行平は剣を賜った。
4月20日 一条能保の室が去る13日、難産によって死去したとの飛脚が着く。頼朝はたいそう悲しんだという。
5月3日 南御堂(勝長寿院)において一条能保室の追善供養。
5月10日 頼朝は一条能保室の四十九日の仏事を行うよう京都の佐々木定綱に命じた。
6月14日 頼朝は小山朝政の家に出かけ、白拍子らの芸を見ながらの酒宴となった。この日は丑の刻に月蝕となるためそのまま泊まることとなった。
7月27日 京都における頼朝の御所地について何度も後白河法皇に伺っていたがいまだ決定されない。今年上洛する予定があり造営の奉行については予め上洛させると伝えた。
8月9日 朝廷から返書がある。頼朝の宿所については藤原邦綱の東山の家を使うよう院の指示があった。近辺も頼朝の領地であるとのこと。

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