目 次

執権政治の始まりと承久の乱

頼朝後の鎌倉を支配したのは執権北条義時でした。京の後鳥羽上皇は義経追討の院宣を発し兵を挙げますが鎌倉の大軍に破れ配流されます。日本の歴史が動いた日といえるでしょう。

北条義時が実権を握る

和暦 西暦 天皇/将軍/執権 日付 鎌倉の動向
健保元年 1213年 順徳/源実朝 5月2日 和田合戦。和田義盛と一族が北条氏打倒の兵を挙げる。従兄弟である三浦義村の裏切りにより義盛は破れ、翌日敗死した。67歳だった。
5月21日 鎌倉大地震。音を立てて家屋は倒壊し、山は崩れ地が裂けたという。近年にこのような大地震はなく、陰陽道によると兵乱の兆しであるという。翌年2月7日にも大地震。
健保2年 1214年 順徳/源実朝 2月4日 栄西が実朝に茶をすすめる。深酒による二日酔いに苦しむ実朝に栄西が茶をすすめ、茶の徳を誉める所の書を献上した。
健保4年 1216年 順徳/源実朝 9月18日 北条義時は大江広元を招いて相談した。「実朝の昇進は早すぎ御家人も過分な官職についている。頼朝は官位の宣下は必ず固辞された。短慮の私では難しくあなたから言っていただけないか」。
9月20日 大江広元が北条義時の使者と称して御所に参り、昇進について諌めた。実朝は諫言には感心したものの、源氏の正統は自分の代で途絶えるからあくまで官職によって家名をあげたいと言った。
11月24日 東大寺大仏を造った宋人陳和卿は6月に実朝に謁見し実朝は医王山長老の生まれ変わりと言った。そこで実朝は宋の医王山参詣のため陳和卿に唐船の建造を命じる。

源実朝殺害

和暦 西暦 天皇/将軍/執権 日付 鎌倉の動向
承久元年 1219年 順徳/源実朝 1月27日 源実朝殺害される。鶴岡八幡宮における右大臣拝賀が行われたたあと、公暁(頼家の次男)は実朝を殺害した。公暁はその後北条義時によって討たれた。頼朝の源氏はここに断絶した。
2月13日 政子の使者として二階堂行光が上洛し、雅成親王か頼仁親王のいずれかに関東の将軍として下向されるよう依頼した。
7月19日 親王の下向はならず、摂関家(左大臣藤原道家の子)から三寅が関東に下向した。
12月24日 大倉御所が焼失した。政子は三寅(頼経)の邸に移った。

承久の乱

和暦 西暦 天皇/将軍/執権 日付 鎌倉の動向
承久3年 1221年 仲恭/義時 5月19日 後鳥羽上皇が北条義時追討の宣旨を下す。後鳥羽上皇が妾、亀菊に所領を与えたいがために当地の地頭職を停止するよう宣旨を下し、御家人を守これを義時が拒否したことが直接の原因だという。
5月21日 天下の重大事に評議を重ねる中、大江広元は上洛を決めてから日が経つのは誤りであり日を重ねれば次第に考えが変わる。今夜中に北条泰時ひとりでも急行すれば皆従うでしょうと諫言した。
5月22日 小雨が降るなか、北条泰時が京都に向けて出発した。従うものは18騎。追って続々と御家人たちが追い、北条朝時が北陸軍の大将軍として出発した。
5月25日 22日から本日夕方までにしかるべき東国武士は悉く上洛した。その数19万騎。それぞれ東海、東山、北陸の三軍にわかれた。
5月26日 北条泰時が手越駅(現静岡県静岡市)に着いた。関東の武士が上洛の途上であり、その軍は雲霞のごとき大軍ですという報告を受けた院中は慌てふためいた。
5月28日 北条泰時は遠江国天龍河に到る。連日の洪水でありながら河には水がなく兵は歩いて渡った。
5月29日 北条泰時、時房が大軍を率いて上洛したことを聞いた後鳥羽上皇は恐れおののいた。
6月3日 関東の大将軍が遠江国の国府に着いたという飛脚が京都に着くと、公卿詮議が行われ防戦のため官軍を方々に差し遣わした。
6月5日 鎌倉の上洛軍は尾張国一宮に到着し、評議がなされた。各々の道にわかれて進軍することとなった。晩になり東山道の武田信光が官軍の大内惟信以下を打ち破り官軍は逃亡した。
6月6日 明け方になり北条時氏、有時らの率いる軍が摩免戸を渡った。官軍は矢を放つこともなく敗走した。他にも株河、洲俣、市脇など要害は全て鎌倉方に落ちた。
6月13日 北条泰時率いる軍勢は宇治川を挟んで官軍と対峙した。雨により水量の増した河に苦労するも官軍を破った。毛利季光・三浦義村は淀や芋洗を破り、北条時房は勢多橋で合戦に及んだ。
6月15日 鎌倉方が京に迫り後鳥羽上皇は、泰時に使者を送り「この度の合戦は謀臣らが勝手に行ったもので自分の意志ではない」と伝えるも鎌倉方は入京。
6月16日 北条泰時、北条時房は六波羅の館に入った。疑わしい者の刑を軽くするとして四面の包囲網のうち三面を解いたため世の賞賛を得た。合戦の終了を知らせる使者が鎌倉に向けて発った。
6月18日 鎌倉に使者を遣わし、勲功を挙げた者や負傷者についてとりまとめて知らせた。
6月23日 合戦の報告が鎌倉についた。公私の喜びは喩えようもなかった。源行家義経の反乱を誅した際の先例にならい、公卿・殿上人の罪名や洛中のことを定めた。
6月25日 合戦の首謀者の公卿らが六波羅に移された。
7月1日 合戦の首謀者で公卿以下については断罪せよと宣下された、泰時は速やかに関東に連行するよう預かり人らに命じた。
7月8日 守貞親王が治世することとなった。摂政藤原道家を止め前関白藤原家実が摂政となった。後鳥羽上皇は出家した。
7月9日 践祚(皇位継承)が行われた。 仲恭天皇が退位し、後堀河天皇が即位した。
7月13日 後鳥羽上皇が隠岐国に配流された。
7月20日 順徳が佐渡国に配流された。
7月24日 雅成親王が但馬国に配流された。
7月25日 頼仁親王が備前国に配流された。
8月7日 今回反逆した公卿や殿上人、武士の所領は3000か所余あり政子が勇敢勲功によって配分した。北条義時がこれを執行したが自身には与えず、美談となったという。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です