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頼朝、征夷大将軍となる

最後まで頼朝の征夷大将軍に反対していた後白河法皇が死去し、すぐに頼朝は征夷大将軍となります。曾我兄弟による仇討ちも歴史に名高い事件です。

後白河法皇崩御

和暦 西暦 天皇/将軍/執権 日付 鎌倉の動向
建久2年 1191年 後鳥羽 閏12月小27日 後白河法皇が病気となった。頼朝は酒肉、淫欲を断ち沐浴して身を清め(潔斎)、法華経を読誦した。
建久3年 1192年 後鳥羽/源頼朝 1月19日 重源上人が鎌倉に訴えた。周防国において東大寺の柱を引いていると大内弘成が妨害したので糾明して欲しいという。頼朝は関東が管轄しない者なので早く朝廷に奏聞するよう言った。
1月21日 頼朝が造営中の御堂(永福寺)を視察。怪しい男がおり捕らえると平忠光であった。頼朝を殺害するため鎌倉を徘徊していたという。
2月5日 頼朝の父義朝の乳母が参上した。すでに92歳と高齢であり余命の最後と思って拝謁にきたという。頼朝は大いに憐れまれ望みを聞き、知行地の課役の免除という望みをすぐに叶えた。
2月13日 鶴岡八幡宮別当の法眼円暁が園城寺入堂のため上洛するに際して、頼朝は餞別と旅路の兵士8人を遣わした。
3月2日 大江広元は検非違使の職に関して朝廷に辞表を提出した。(朝廷との距離を上手く保っているため)頼朝の御心に叶っていたという。
3月13日 後白河法皇死去(67歳)。平清盛、木曽義仲、そして源頼朝などと渡り合った治世は40年を超えるものだった。頼朝の悲観は深かったという。
3月23日 頼朝は岩殿観音堂(岩殿寺)に参拝した。
4月2日 政子の着帯(懐妊5か月目に岩田帯を締める儀式)があった。武蔵守平賀義信の妻が帯を持参し、頼朝がこれを結んだ。
4月11日 7歳になる貞暁の乳母について、政子の嫉妬深さが原因で皆が固辞したため最終的に大江景国に命じた。来月貞暁を連れて上洛することとなった。
5月8日 後白河法皇の四十九日仏事が南御堂(勝長寿院)で行われた。
5月19日 貞暁が仁和寺に入室するため上洛した。常陸平四郎の由比の家から出発した。頼朝はひそかに御剣を与えた。
5月26日 多賀重行が北条義時の息子、金剛(後の泰時)に非礼を働いた。重行を庇う金剛に幼いながら仁恵の心ありと頼朝は御剣を与えた。その剣は後に承久の乱の折に泰時が携えたという。
6月13日 頼朝は永福寺の造営地に出かけた。畠山重忠、佐貫広綱、城長茂、工藤行光、下河辺政義らが梁や棟を引いた。彼等は一人で力士数十人分もの仕事をこなし周囲を驚かせ頼朝も感心した。

頼朝、征夷大将軍となる

和暦 西暦 天皇/将軍/執権 日付 鎌倉の動向
建久3年 1192年 後鳥羽/源頼朝 7月12日 頼朝、征夷大将軍に任じられる。
7月20日 頼朝、征夷大将軍に任じられたという知らせた鎌倉に到着。
7月26日 朝廷より勅使が下向。鶴岡若宮において頼朝の使、三浦義澄に征夷大将軍の除書(任官目録)を渡す。義澄はこの上ない面目であった。頼朝挙兵時に命を捧げた亡父義明の勲功に報いた。
8月5日 征夷大将軍就任後の政所始。下文を賜った千葉常胤は以前と違い政所花押のみで頼朝の花押がないことを抗議し、家司(政所)ではなく頼朝の花押のものを求め頼朝は望み通りにした。
8月9日 実朝生まれる。上総全成の室阿波局が乳付をした。幼名は千万と名付けられた。
8月22日 雑色の成里が他界した。長年の功があり頼朝も覚えめでたく御家人と優劣なく扱われていた者だった。頼朝は子孫を尋ね、越中にいる子の成沢が参上し直に憐憫の言葉をかけられた。
8月24日 造営成中の永福寺に池が掘られた。頼朝自身が監督した。
9月11日 永福寺の池に石が立てられた。頼朝は昨日から藤原行政の家に泊まりこれを見分していた。石は1丈(約3メートル)程あったが、畠山重忠が一人で持ち上げたという。
9月25日 北条義時は比企朝宗の息女で幕府の官女を務めていた姫の前に想いを寄せていたがなかなか実らず、頼朝が差配し今夜初めて義時の邸宅に渡り結婚した。
9月29日 永福寺の扉と仏像後壁の絵画が完成。藤原季長が描いた。絵画は藤原秀衝が建立した毛越寺の金堂を模したものであった。
11月20日 永福寺の造営が完成。政子が参った。
11月25日 永福寺創建。永福寺の供養が行われた。奥州を平定した頼朝が治承・寿永の乱から奥州合戦に至る多くの戦死者の冥福を弔うため平泉の大長寿院を模した大寺院であった。
12月23日 万寿(頼家)が疱瘡にかかった。疱瘡は日本中で流行しており数多くの人が苦しんだという。
建久4年 1193年 後鳥羽/源頼朝 1月1日 鶴岡八幡宮に参り、千葉常胤の差配により垸飯が行われた。
2月9日 武蔵の丹党と児玉党が争い合戦寸前であるということで畠山重忠に鎮めるよう命じた。
2月25日 北条時定死去(49歳)。北条時政の腹心であり代官として在京し多くの勲功を重ねた。
2月27日 鶴岡八幡宮の舞殿を新造。二階堂行政が奉行し頼朝自ら監督した。
2月28日 頼朝より、京都を守護している御家人らに対する恩賞は関東よりとも厚くするよう命があった。
3月4日 13日の後白河法皇一周忌に当たっては以下の寺に参上するよう命じた。鶴岡八幡宮勝長寿院永福寺、伊豆山、箱根山、高麗寺、大山寺、観音寺(現光明寺/神奈川県平塚市)。
3月13日 後白河法皇一周忌の仏事が行われた。
3月14日 遅れている東大寺修造のため、頼朝は文覚上人に播磨国を知行して奉行するよう命じた。
3月15日 近く那須野において狩りを行うため藍沢(現静岡県沼津市の富士山麓)にあった屋形などを解体し下野国に運んだ。
3月21日 後白河法皇一周忌を終え、頼朝は下野国那須野、信濃国三原などの狩倉を見るため出発した。弓馬に優れ隔心のない22人に弓を持たせた。
3月25日 武蔵国入間野において追鳥狩が行われた。藤沢清親が百発百中の芸を見せ雉5羽、鶴25羽を穫った。感心した頼朝は自分の馬を与えた。源頼義の故事に倣ったものであった。
4月2日 頼朝は那須野を見分し昨日夜半以降、勢子を入れた。
4月28日 新田義重(新田氏の祖)の館において遊覧していた頼朝はこの日上野国から鎌倉に出発した。
5月1日 常陸の鹿島社は20年に一度遷宮を行っており去年その年を迎えていたが、社領を知行している多気義幹などによる造営が遅れており、頼朝は八田知家を遣わして工事を進めるよう命じた。
5月8日 頼朝は富士野・藍澤の夏狩りを見るため駿河に赴いた。射手として集まった者は数えきれなかったという。
5月15日 藍澤で狩が行われた。狩りが終わり富士野の旅館に入った。殺生を禁じる斎日にあたり終日酒宴となった。近所の遊女が多数集まり列をなしたため里見義成に遊君別当を命じた。
5月16日 富士野の狩において頼家が初めて鹿を仕留めた。頼朝はたいそう喜んだという。
5月27日 勢子らを動員して終日狩が行われた。
5月28日 曾我兄弟の仇討ち。伊東祐親の孫、曾我十朗祐成・五郎時致は、頼朝が泊まる神野の旅館に討ち入り工藤祐経を殺害した。時致は頼朝の御前に向かったため頼朝は剣をとったが五郎丸が搦めとった。
5月29日 頼朝は曾我五郎時致を召し、狩野宗茂らを通じて夜討ちの宿意を訪ねると時致は最後の所存は直接申すと述べた。宿意を述べ頼朝に向かったのは拝謁の上自害するためだったと答えた。
5月30日 曾我十朗時致は最後に書状を母に送った。そこには幼少からの敵討ちの思いが綴られており、頼朝は涙しながらこれを見て永く納めるように命じたという。
6月3日 常陸の国久慈の者たちは曾我兄弟の討ち入りの際、恐れて逃亡したため所領を没収された。
6月7日 頼朝は駿河から鎌倉に向かった。道中、曾我祐信に暇を与え曾我兄弟の菩提を弔うよう命じ曾我庄の年貢も免除した。兄弟の勇敢に感じ入ったためであった。
6月25日 東大寺造営のために播磨国の知行を任せていた文覚上人が国領を弟子や檀那などに分け与えているとの噂あり、頼朝は梶原朝景、安達清恒を京都に遣わした。
7月10日 海辺に涼風があり頼朝は小坪の辺りに出た。三浦氏の一族、長江・大多和両氏の者が仮屋を干潟に構えて迎え垸飯を献上した。凝視は釣糸を垂れ壮士は的を射た。終日遊び黄昏れに帰ったという。
7月18日 鶴岡八幡宮の陪従(神楽の奏者)大江久家は多好方から神楽の秘曲を得んがために、京都へと向かった。頼朝は好方に久家に伝授することは頼朝に授けるに準ずるものと考えて欲しいと伝えた。
7月24日 横山時広が異なる馬を頼朝の元へと連れて来た。その馬は前足が5本、後足が4本あった。淡路の国で見つかったという。
7月28日 文覚上人の返書が来た。東大寺造営のための知行を人に分け与えていることについての弁解であったが、悪口が多く頼朝は気に入らなかったという。
8月2日 反逆を企てているとの噂が頼朝の耳に入った源範頼が起請文を書き、頼朝に献上した。
8月9日 来る放生会の流鏑馬の射手を連れて由比浦に出かけた。射手の芸を試すためだった。北条時連は初めての役であり下河辺行平に作法を教えさせた。
8月17日 頼朝は弟範頼を伊豆に下向させた。狩野宗茂、宇佐美祐茂が預かり守護し、帰参の時期は定められなかった。まるで配流のようであった。
8月24日 大庭景義、岡崎義実が老齢のため許しを得て出家した。
8月29日 政子が岩殿観音堂(岩殿寺)に参詣した。北条時連が供をした。
9月7日 故後白河法皇の旧跡である宣陽門院が無人となり群盗の狼藉が恐ろしいと一条能保が嘆くので畿内近国の佐々木経高・盛綱・基清らに宿直を命じた。
9月11日 北条義時の嫡男(後の泰時)はしばらく江間(静岡県伊豆)にいたが昨日鎌倉に来た。
9月18日 頼朝は岩殿、大倉の両観音堂(岩殿寺杉本寺)に参拝した(かつては報国寺裏から岩殿寺に通ずる山中に古道があったという)。大姫病のための立願であった。
10月28日 薩摩に配流となっていた佐々木定綱が鎌倉に戻った。後白河法皇の一回忌にあたって赦免された。頼朝は喜び、近江国守護職については元の通りにするとした。
建久5年 1194年 後鳥羽/源頼朝 1月4日 八田知家が使者となり甘縄宮(甘縄神明神社)、御霊社(御霊神社)に奉幣が行われた。
1月8日 頼朝は安達盛長の甘縄の家を訪ねた。
1月15日 頼朝は三浦義澄の家を訪ねた。
2月2日 13歳になる北条義時の嫡男(幼名金剛、後の泰時)が幕府において元服し頼時と名付けられた。頼朝は三浦義澄を座に召し頼時を婿とするよう命じた。
2月18日 頼朝は大倉観音堂(杉本寺)に参詣し、帰路北条義時邸に寄ったという。
3月13日 甲斐国武河御牧の馬8頭が鎌倉に着いた。頼朝を経て京都に送られるもの。
3月22日 東大寺大仏の使用する砂金200両を仏師院尊の用に供するため送った。
3月25日 伊豆の願成就院において伊東祐親法師、大庭景親らの供養が行われた。
4月10日 鎌倉中の道路が造られた。梶原景時が奉行した。
4月21日 文覚上人が大江広元を通じて頼朝に対して重ねて弁解の書状を送った。
4月22日 相模国の寺社における恒例仏神事はこれまで同様に執行するよう三浦義澄に命じられた。
5月2日 由比浦の漁父が頓死した。きれいに座り合掌し往生の端相があった。この男は漁で生計をたてながら日頃怠りなく弥陀の宝号を唱えたという。頼朝は喜びまた憐憫から篤いと村井を命じた。
5月10日 3月22日の200両に続き、東大寺大仏に使用する砂金、残りの300両を京都に送った。
5月29日 東大寺供養の雑事総目録が鎌倉に届いた。布施や僧供料米等は御家人らに勧進するよう命があった。頼朝は大江広元、三善康信を奉行として諸国の御家人に勧進を命じた。
6月26日 頼朝は甘縄宮(甘縄神明神社)に参詣した。甘縄宮は伊勢神宮の別宮である。
6月28日 東大寺造営について頼朝は大いに助成してきた。材木や仏像について宇都宮朝綱らの御家人をそれぞれ担当させたが造営が遅れているため催促した。
7月29日 大姫が夜から病気となった。よくあることであったが今日は特に重かった。許嫁木曽義高が誅殺された後、悲しみのあまり日々憔悴していた。貞女の行いと皆、美談とした。
8月8日 頼朝は相模国日向山(現神奈川県伊勢原市日向)に参詣した。行基菩薩建立の薬師如来の霊場である。相模国において効験無双であるとして思い立ったという。大姫のための祈願でもあった。
8月14日 一条高能(頼朝の甥)が京都より着いた。幕府において頼朝と対面した。旅館は他所に及ばず小御所を使用した。
8月18日 大姫の病気は直ったものの嘆きは深く、快癒は一時的なものであろうと人は皆憂いをもった。政子は内々に一条高能に嫁ぐよう計ったが大姫は固辞し高能も大姫の気持ちを聞き断った。
8月26日 頼朝は一条高能を連れて勝長寿院永福寺などを参り、多古江河(現田越川)の辺りを逍遥(気ままに散策)した。
閏8月1日 頼朝は一条高能を伴って三浦に渡った。三崎の津に山荘を建てるためである。足利義兼、北条時政以下多くの御家人が従い巷に溢れたという。頼家、政子、大姫らも追って訪れた。
閏8月16日 一条能保の使者が京都より着いた。去る2日、病気のために出家したとのこと。48歳であった。
9月6日 頼朝は三浦三崎の別荘を訪れた。小笠懸の勝負が行われた。
9月29日 頼朝は故三浦義明の没後を弔うため、三浦の矢部郷(現 神奈川県横須賀市大矢部・小矢部/満昌寺)に一堂を建立することを思い立った。
10月9日 頼朝は小山朝政の家に入り朝政兄弟以下一族が集まった。弓馬に堪能な者を召し集め旧記を閲覧し先例を尋ね、流鏑馬以下作物の作法を討議した。
10月17日 かねてより歯の病にかかり治療法を京都に問い合わせていたが、良薬とともに返書があった。
10月18日 頼朝の歯の治癒祈願に足利義兼が日向薬師堂に参った。
10月25日 勝長寿院において如法経十種供養が行われた。父義朝の忠臣として死を供にした鎌田正清の息女が修した。頼朝と政子が参り、導師大学法眼行恵の功徳は素晴らしいものだった。
11月4日 鶴岡八幡宮の御神楽が行われた。頼朝が参った。大江久家は秘曲を唱え、畠山重忠、梶原景季が歌をつけた。
11月8日 京都鎌倉間の早馬の上下向及び御物品の運搬夫が東海道の駅に差配された。大宿は8人、小宿には2人。日頃から配置されていたが新しい宿が増えたので重ねての儀となった。
11月21日 三島社の神事。頼朝は殊に潔斎し鶴岡八幡宮の三島別宮に参った。また御霊社(御霊神社)の前浜で千万の小笠懸があり、和田義盛がこれを奉行した。
12月17日 頼朝が明春上洛するので、供奉のため東国の御家人らに指示した。藤原親能が奉行し、二階堂行政がこれを書き下した。
12月26日 永福寺内に新造された薬師堂の供養が行われた。頼朝も参じた。

頼朝再度上洛

和暦 西暦 天皇/将軍/執権 日付 鎌倉の動向
建久6年 1195年 後鳥羽/源頼朝 1月1日 足利義兼が垸飯を献上し、大内惟義が御剣を持参した。
1月2日 千葉常胤が垸飯を献上した。
1月3日 小山朝光が垸飯を献上した。
1月4日 頼朝は甘縄の和田盛長邸に入った。
1月15日 法橋昌寛が使節として上洛した。東大寺供養への頼朝上洛にあわせ、前もって六波羅の御邸を修理するため。
2月8日 近日頼朝の上洛があるため雑色の安達清経が使者として上洛した。東海道の駅家等の雑事、渡船、橋などの用意をするよう伝えるためであった。
2月9日 大庭景能入道が頼朝に申文を捧げた。挙兵から功を尽くしてきましたがお疑いを受け鎌倉追放となり3年。余命は少なく上洛の供奉に加わり老後の誉れとしたいとのこと。頼朝は許し供奉に加えた。
2月12日 源行家義経の残党が頼朝上洛に際して復讐を企てているとの噂あり、頼朝は勇敢で知られた比企能員と千葉常秀を急遽東海道に派遣し調査と捕縛を命じた。
2月14日 頼朝、東大寺供養のため2度目の上洛。政子や子も一緒に出発した。畠山重忠が前陣を務めた。
3月4日 頼朝は江州の鏡駅(現滋賀県蒲生郡竜王町鏡)を出た。火をともす頃になって六波羅の御亭に入った。
3月10日 頼朝は東大寺供養に参じるため南都の東南院に着いた。岩清水八幡宮から直接下向した。行列の先陣は畠山重忠であった。
3月11日 頼朝は馬千頭を東大寺に奉納した。他に奉納したものは米一万石、黄金千両、上絹千疋にもなった。
3月12日 東大寺供養。雨が降り地震があった。風神雷神のしるしである。和田義盛と梶原景時が数万騎を持って警備にあたった。日の出の後、車にて頼朝が参堂した。
3月14日 頼朝が京都に戻った。
4月3日 頼朝、政子、大姫らが密かに岩清水(清水寺)以下の霊地を巡礼した。
4月5日 畠山重忠は明恵上人に会うため栂尾山の近くまで来ると煙塵が舞った。洛中火事かと騒ぐ弟子に上人は言った「名のある勇士が近づいている。その気が現れているのだ」と。
4月10日 頼朝は禁裏において藤原兼実と対面した。話は深夜に及んだ。
4月15日 頼朝が石清水八幡宮に参った。頼家も同行した。
5月18日 頼朝の天王寺参詣が決まると人々が道中の雑事を献上するため所領を割り当てているという。頼朝は驚き停止させた。仏法の教えを乞うために人々に負担をかけることは仏の意に背くと強く慎んだ。
5月20日 頼朝は聖徳太子の創建による天王寺(四天王寺/現大阪府天王寺区四天王寺)に参詣した。
5月22日 頼朝は参内し、ついでに藤原兼実と対面し京、鎌倉の理世について話し合った。
5月24日 東大寺の重源上人がさる13日に逐電し高野山にいると噂が有り、頼朝が帰洛するよう使者を持って伝えた。
5月29日 重源上人は頼朝の命を重んじて現れた。
6月3日 万寿(頼家)が参内した。14歳だった。
6月25日 頼朝が鎌倉に向かうため京都を出発した。
6月28日 美濃国青波賀に到着した。北条時政の息女、稲毛重成の妻が武蔵国において病気のため危険な状態とのこと、頼朝は黒毛の駿馬1頭を重成に賜った。重成は即座にこれに乗り鞭をふった。
6月29日 尾張国萱津宿(愛知県海部郡甚目寺町上萱津)に到着。
7月1日 頼朝は熱田社に奉幣した。稲毛重成が武蔵野国に着いた。頼朝が賜った馬は龍の如くに走った。この馬を三日黒と名付けたという。
7月6日 頼朝は黄瀬河において駿河・伊豆の訴訟を処理した。
7月8日 鎌倉に到着。
9月3日 陸奥平泉寺塔の損傷が報告された。頼朝は特に修理を行うよう葛西清重・伊澤家景に命じた。泰衝誅戮とはいえ堂舎は維持せよと兼ねてより命じていた。仏法を興す志の篤さは前代未聞である。
9月23日 御家人の多くが新恩に浴した。中原広元、二階堂行政、武藤頼平が奉行した。
9月28日 前の律師忠快が三浦に向かった。三浦義澄の申請によるもの。広く深く学問を納めたからであろうか、義澄は仏法への帰依が深い武士である。
9月29日 鷹狩り停止が諸国の御家人に伝えられた。また、藤原秀衝入道の後家がいまだ生存しているという。特に憐憫を加えるよう葛西清重、伊澤将監に命じた。
10月11日 源為義の末子、頼朝の叔父にあたる護念上人慈応が越後から鎌倉を訪れ、頼朝と対面した。頼朝の礼節はまことに深かったという。
10月15日 大姫の病が重かった。護念上人慈応が呼ばれて加持すると回復した。法の効験に喜んだ頼朝は庄園を寄進しようとしたが慈応は存念があると辞退した。聖者の深慮は計りがたいものである。
10月28日 護念上人慈応が越後に帰った。頼朝は引き止めたが「多くの人々との交わりは望まぬところです」と言ってすぐに出発した。
11月6日 頼朝は下河辺行平を特に心にかけられ「子孫を永く門葉(一門)に準ずる」と御書を下された。
12月2日 駿河国富士郡の年貢千両が京都に送られた。
12月12日 千葉常胤が申した。「勤労を積みましたがもはや年老いており死ぬ前に恩賞を頂き子孫に与えたいのです」。これに対する頼朝の丁寧な返書に涙した常胤は恩賞なくとも怨みはありませんと言った。
建久8年 1197年 後鳥羽/源頼朝 6月 頼朝、信濃国の善光寺に参詣。
8月27日 頼朝が三浦義明のために自ら建立した満昌寺(現神奈川県横須賀市)に参拝。御家人達にこう命じた「義明は忠功無二の旧臣であり今日墓前に立つと生前の姿を思い出す。御霊明神として敬うように」。
12月15日 頼家(16歳)が従五位右近衛少将に叙された。
建久9年 1198年 土御門/源頼朝 2月14日 西行法師死去。俗名佐藤範清。鎮守府将軍藤原秀郷の10代目の子孫であった。
12月27日 相模河の橋供養において頼朝は落馬し、それが原因で病となった。
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