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頼朝死去

絶対的指導者である頼朝を失った鎌倉はにわかに慌ただしくなります。頼家が失脚し、実朝の時代となっていく中、御家人同士の権力争いは続き北条一族が生き残ります。

頼朝死去。頼家が将軍となる。

和暦 西暦 天皇/将軍/執権 日付 鎌倉の動向
建久10年/正治元年 1199年 土御門/源頼家 1月13日 源頼朝死去(53歳)。死因は落馬とも糖尿病とも。承久記に遺言が伝わる「頼朝の運命はすでにつきた。千万をいとおしみ、大名・高家に惑わされず畠山重忠を持って日本国を鎮護すべし」。
2月6日 朝廷からの宣旨が鎌倉に到着。頼家に対し、頼朝の遺跡を継ぎこれまでどおり諸国の守護を奉行するようにとの命であった。
3月2日 頼朝の四十九日仏事が行われた。導師は大学法眼行慈であった。
4月12日 頼家(18歳)が直接訴訟を裁決することを停止。北条時政・義時、大江広元を始めとする13人の合議制とし直接頼家に取り次ぐことも禁止した。
4月20日 頼家は政所に命じた。「小笠原長経、比企三郎、比企時員、中野能成らが鎌倉において狼藉を働いても一般人は敵対してはならず、この5人以外はたやすく御前に参上してはならない。」
4月27日 東国の地頭に対して、水の便がある荒野の開拓を命じ、また、不作などと称して年貢が減少した地については、以後知行を許さずと命じた。正治に改元された。
6月30日 姫君(三幡/頼家の妹/14歳)が死去。政子や諸人の嘆きは深かった。乳母夫である藤原親能は出家し、親能の亀谷堂の傍らに葬った。
7月6日 姫君( 三幡)の仏事が墳墓堂において行われた。
7月16日 安達景盛は参河国で起こった室重広の乱暴狼藉を取り締まるため鎌倉を出発した。
7月20日 かねてから安達景盛の妾を気に入り、妾に書状を送っていたが承諾しなかったため景盛の留守に妾を強引に召し上げて小笠原長経の宅に住まわせた。
7月26日 頼家は安達景盛の妾を北向御所に移し、小笠原長経、比企三郎、和田朝盛、中野能成、細野四郎以外はそこに参ることは許さずとの命を下した。
8月18日 安達景盛が参河国より戻った。
8月19日 妾の件について安達景盛が頼家を恨んでいると讒言があった。頼家は小笠原長経らを召して景盛誅殺を命じ景盛の甘縄宅に向かわせたが政子がこれを止めた。大江広元は先例があると申した。
8月20日 政子は安達景盛に頼家への起請文を書かせた。頼家に諫言し昨日の行為は軽はずみであり周囲に侫臣を置き功のあった者たちを重んじない。気をつけてほしいというものであった。
10月25日 結城朝光は夢のお告げがあり頼朝のために阿弥陀仏の名号を唱えるよう皆にすすめ、忠臣は二君に仕えないと聞く、厚恩ある頼朝が亡くなった時に出家遁世しなかったことを悔やんでいると言った。
10月27日 阿波局が結城朝光に告げた。「梶原景時の讒訴によりあなたは誅殺されようとしています。忠臣は二君に仕えないと言った事を咎めています」。朝光は三浦義村に相談し連署状をつくることとした。
10月28日 千葉常胤、三浦義澄、畠山重忠ほか66人の御家人たちが鶴岡八幡宮の廻廊に集まり、梶原景時弾劾の連署状を提出した。和田義盛、三浦義村によって大江広元に渡された。
11月10日 梶原景時弾劾の連署状を受けとった大江広元は功のある景時をたちまち罪科に処すことにためらっていた。三浦義村が早く言上するよう広元に詰め寄り、広元は言上すると言った。
11月12日 大江広元は連署状を頼家に渡した。頼家はただちにこれを見て梶原景時に下して是非を申し述べるよう命じた。
11月13日 連署状を受けとった梶原景時は弁明せず、子息親類ら一族を引き連れて相模国一宮に下向した。
12月9日 梶原景時が鎌倉に帰参した。
12月18日 梶原景時、鎌倉を追放される。相模国一宮に下向した。
12月29日 小山朝政、播磨国の守護職に補任した。
正治2年 1200年 土御門/源頼家 1月1日 北条時政が頼家に垸飯を献じた。
1月2日 千葉常胤が頼家に垸飯を献じた。
1月3日 三浦義澄が頼家に垸飯を献じた。
1月4日 大江広元が頼家に垸飯を献じた。
1月5日 八田知家が頼家に垸飯を献じた。
1月6日 大内惟義が頼家に垸飯を献じた。
1月7日 小山朝政が頼家に垸飯を献じた。
1月8日 結城朝光が頼家に垸飯を献じた。
1月13日 頼朝の一周忌仏事が修せられた。土肥遠平が頼家に垸飯を献じた。

梶原景時誅殺

和暦 西暦 天皇/将軍/執権 日付 鎌倉の動向
正治2年 1200年 土御門/源頼家 1月20日 梶原景時が相模国一宮において城郭を構え防戦に備えた上、密かに一宮を出たという。謀反を企て上洛しているとの噂があった。三浦義村らが追罰に向かい、駿河国清見において誅殺した。
1月23日 三浦義澄死去(74歳)。三浦義明の息子であった。
1月28日 武田有義が梶原景時と共謀していたという報告があり、伊沢信光が有義の館へ向かったところ無人であった。
2月13日 頼朝の父義朝の屋敷跡に岡崎義実が恩報のため草堂を建てていた亀谷の地に政子が栄西を招いて寿福寺の造営を始める。
3月14日 岡崎義実入道が政子の亭を訪ねた。80歳を超えた義実は知行する恩地は少なく子孫が安堵できませんと嘆いた。政子は石橋山合戦に大功を挙げた義実に早く一所を充てるようにと頼家に申した。
5月12日 頼家は黒衣を嫌い比企時員に命じて念仏の名僧14人を召し政所橋の辺りで黒衣を剥ぎ取り焼いた。非難しないものはなかった。
5月25日 北条義時の妾が男子を出産した(政村の兄にあたるが詳細不明)。頼家は馬を、政子は産着をおくった。
5月28日 陸奥国葛岡郡、新熊野神社の坊領の境界に関する訴えあり。頼家は絵図の中央に墨をひき「土地の広狭は運による。使節を派遣して調べず今後はこうする。異論あれば訴えてはならない」といった。
6月21日 岡崎義実が死去した(89歳)。三浦義継の4男という。
11月7日 京都から使者が着いた。去る26日付で頼家は左衛門督に任じられ、従三位に叙された。
11月28日 頼家は治承・養和以後の新恩の土地は500町を過ぎる分を召し上げ、無足の近仕に与えるとした。大江広元以下の宿老は驚き、今日三善康信が説得し一旦は止め、明春の沙汰となった。
12月23日 城長茂が反乱を起こす。小山朝政の宿所を包囲したが防戦され退却、御所へ押しかけ関東追討の宣旨を求めるが得られず長茂は逐電した。
正治3年 1201年 土御門/源頼家 1月3日 城長茂反乱の報告が鎌倉に到着。
建仁元年 1201年 土御門/源頼家 1月13日 正治3年を改めて建仁元年となった。
2月22日 城長茂と一味が誅殺され、その首は大路を渡された。
3月24日 千葉常胤が死去。84歳だった。従五位下行下総介の長男。母は平政幹の娘。鳥羽院の代、元永元年5月24日生まれ。
4月2日 越後から飛脚が到着。城資盛(長茂の甥)が越後国で反乱を起こそうとしていたため、佐渡・越後両国の軍が攻撃したが陣を破れなかったという。
5月14日 佐々木盛綱入道の使者が鎌倉に到着。越後国において反乱した城資盛を討伐したとの知らせであった。
6月1日 頼家は江島明神に参詣した。ついでに相模川の付近を散策され、集まった相模国の御家人らと狩猟・射的を楽しみ夜は大磯に泊まった。遊女らを呼び歌曲を楽しんだ。
7月6日 御所において百日の蹴鞠を始めた。蹴鞠を好んだ頼家は、蹴鞠に達者な者を一人鎌倉にと後鳥羽上皇に願い派遣の勅許を得ておりそれに備えた修練であった。
8月11日 豪雨、大風が吹き荒れ鶴岡八幡宮の廻廊や、所々の仏閣などが倒壊。下総国葛西郡の海辺を高波が襲い千余人が流されたという。
8月23日 この日も豪雨、大雨が襲った。国内においては穀物が壊滅的な被害を受け、倉庫には少しの蓄えもないという。 大惨事の中蹴鞠にふける頼家への不満が高まる。
9月7日 後鳥羽上皇の命により蹴鞠の名手、紀行景が鎌倉に到着した。
9月20日 御所で蹴鞠があった。頼家はこのところ政務を放って連日蹴鞠にふけっている。
9月22日 蹴鞠会が行われた。北条泰時は頼家に近い中野能成に、蹴鞠は幽玄の芸能であるが国はいま飢饉であることを頼家に諫言するよう話したが、能成は感心しながらも頼家に言えなかったという。

頼家失脚。実朝が将軍となる

和暦 西暦 天皇/将軍/執権 日付 鎌倉の動向
建仁3年 1203年 土御門/源実朝 5月19日 頼家、父頼朝の弟阿野全成を謀反の疑いで捕らえ、6月殺害する。
8月27日 病床の頼家の容態が悪化、譲与の措置があった。関西38か国の地頭職を千幡(実朝)に、関東28か国の地頭及び日本国総守護職を頼家の長男一幡に譲った。比企能員は腹を立てたという。
9月2日 北条時政が比企能員を殺害。さらに一幡の館にも追手を差し向け一幡と比企一族を滅ぼす。
9月5日 嫡子一幡と比企能員が殺害されたことを聞いた頼家は嘆き、北条時政を誅殺するよう和田義盛、新田忠常に密かに命じるものの義盛が時政に話したため失敗に終わる。
9月7日 頼家が出家した。政子の計らいだという。
9月15日 朝廷からの文書が届いた。頼朝の二男千幡(実朝)が関東の長者となり、さる7日に従五位下並びに征夷大将軍の宣旨を下された。
9月29日 頼家が伊豆国修善寺に下向した。従うのは先陣の隋兵100騎、後陣200余騎などであった。
元久元年 1204年 土御門/源実朝 7月18日 伊豆修繕寺において頼家が殺害される。
10月14日 実朝の妻が京都を出発。後鳥羽上皇生母の弟、坊門信清の息女である。12月10日に鎌倉に着いた。
元久2年 1205年 土御門/源実朝 6月22日 畠山重忠殺害される。畠山重忠の嫡子重保が由比浦付近にて北条時政の命を受けた三浦義村に討たれ、重忠も二俣川(神奈川県横浜市)において討たれた。42歳だった。
閏7月19日 北条時政失脚。実朝を殺害し後妻牧の方の女婿平賀朝雅を将軍にたてようとしたが、政子・義時らに阻止される。
閏7月20日 北条時政は伊豆に下向させられ、北条義時が執権の座に着く。義時は平賀朝雅の誅殺を在京御家人に命じた。
承元元年 1207年 土御門/源実朝 10月8日 夜、若宮大路から出火。猛火はげしく炎は飛ぶが如くであったという。数町が焼失した。
建暦元年 1211年 順徳/源実朝 10月13日 鴨長明が鎌倉に下向し、将軍実朝に度々謁見した。頼朝の忌日にあたり、長明は法華堂に参り読経し懐旧の涙を流したという。
健保元年 1213年 順徳/源実朝 2月16日 信濃国の泉親衝が頼家の遺児を立て北条義時を討つ計画を立てていたが露見。謀反を企てたものの中に和田義盛の一族が含まれており義時と義盛が対立した。