頼朝上洛

後白河法皇の要請により頼朝が大軍を率いて上洛。法皇との会談は幾度にも及びました。上洛とともに引き続き鎌倉幕府の基盤整備に尽力することとなります。

頼朝上洛

和暦 西暦 天皇/将軍/執権 日付 鎌倉の動向
建久元年 1190年 後鳥羽 頼朝が来月上洛するため出発に関することについて審議が行われた。今年は干ばつや洪水が多く民に迷惑をかけると頼朝は躊躇したが法皇への報告事項につき予定どおりとなった。
9月20日 京都において頼朝の御所とする地は、故平頼盛の旧居跡に決定した。
9月21日 頼朝上洛のための留守の兵士が決定した。また、大江広元は京都で取りはからうことなどがあり先に上洛した。
9月29日 頼朝上洛の先陣に加わる兵の名簿が和田義盛、後陣は梶原景時に与えられた。
10月2日 上洛の先陣は御家人達の注目の的であったが、今日、畠山重忠に命じられた。
10月3日 頼朝は上洛のため大軍を率いて鎌倉を出発。先陣は畠山重忠、後陣は千葉常胤。先陣が懐島(現神奈川県茅ケ崎市)に着いた時、後陣はまだ鎌倉を出ていなかったという。
10月5日 途上、関本(現神奈川県南足柄市関本)において、上申書が届き陸奥国の地頭の所務についてであった。道中であったが裁定を下した。頼朝は多忙のため僅かの時間も惜しんだものだった。
10月25日 尾張に到着した頼朝は、野間庄(現愛知県知多郡美浜町野間)にある父義朝の廟堂に詣った。墳墓は廃れているだろうと思っていたところ平康頼によって庇護されており感心したという。
10月27日 頼朝は母の祖神、熱田神宮に参拝した。
10月28日 晩になり、頼朝上洛軍は美濃国墨俣(現岐阜市大垣市墨俣町墨俣)に到着した。
10月29日 青墓駅(現岐阜県大垣市青墓町)において、父義朝が地方往来の際にいつも宿泊していた大炊に立ち寄り、その息女らを召し出し褒賞された。
11月6日 野路(現滋賀県草津市)に到着。
11月7日 頼朝入京。後白河法皇は内々に行列を見、その他多くの見物の車が賀茂川河原に並んだ。
11月9日 頼朝は院と内裏に参上した。後白河法皇とは他の同席者なく治世の沙汰についてなども話が及んだ。その後後鳥羽天皇に謁見、続いて藤原兼実とも対面した。大納言叙目(再三辞退)。
11月11日 頼朝は石清水八幡宮、六条若宮(現東山区五条橋東5の若宮八幡宮社)に参詣した。この日は六条若宮に泊まり終夜祈願した。
11月18日 清水寺に参詣。清水寺では法華経を読誦させ、多くの布施をおこなった。
11月19日 再び後白河法皇と対面し長時間話をした。一条能保とも会った。
11月22日 頼朝を大将に任じる院宣があった。頼朝は大納言さえ辞退していたところであり、さらに右大将を望んでいるということもなく当惑した。
11月24日 頼朝の辞意は認められず、右大将に叙目された。
11月29日 頼朝は後白河法皇のもとに参上した。
12月1日 右大将家(源頼朝)の拝賀があった。その後六条大路の北、西洞院大路の西、仙洞にある後白河法皇の御所に参った。
12月2日 右大将家となった頼朝の御直衣始(初めて直衣を着る儀式)があった。後白河法皇の院に参った。法皇は無官ではよくないということで兵衛尉を授けた。
12月3日 頼朝は大納言、大将(右)両方の辞状を提出した。※頼朝は叙目はすべてすぐに辞退し「元」を使用し朝廷との距離を保った。
12月5日 頼朝は石清水八幡宮に参詣した。
12月8日 頼朝は三井寺の修理のため剣一腰、砂金十両を納めた。三井寺は源義家が崇拝し、義家の御髪が納められていたという。
12月9日 後白河法皇の院に参上した。
12月10日 六波羅御所には頼朝の甥である一条能保の子息、高能が入ることになった。
12月11日 後白河法皇の院、後鳥羽天皇の内裏に参上した。御家人達に叙目するという度々の勅命により辞退しきれなくなった頼朝は10人を選んで推挙した。
12月14日 頼朝が鎌倉に向けて出発した。駿河守源広綱が突如逐電した。その原因は不明であった。
12月15日 箕浦宿(現滋賀県坂田郡)。
12月16日 青墓(現岐阜県大垣市青墓町)。
12月17日 黒田(現愛知県一宮市)。
12月18日 小熊(現岐阜県羽鳥市)。
12月19日 宮路(現愛知県宝飯郡音羽町)。
12月20日 橋下(現静岡県橋本市)。
12月21日 池田(現静岡県静岡市)。
12月22日 懸河(現静岡県掛川市)。
12月23日 島田(現静岡県島田市)。
12月24日 駿河国府(現静岡県長谷町)。
12月25日 奥津(現静岡県静岡市清水区)。
12月26日 黄瀬河宿(現静岡県沼津市)。
12月27日 竹下(現静岡県駿東郡小山町)。
12月28日 酒匂(現神奈川県小田原市酒匂)。
12月29日 鎌倉到着。
建久2年 1191年 後鳥羽 1月1日 千葉常胤が垸飯(臣下が主に振る舞うこと)を献上。頼朝の昇進があったため特に立派に整っていた。
1月2日 三浦義澄が垸飯を献上。
1月3日 小山朝政が垸飯を献上。
1月4日 宇都宮朝綱が垸飯を献上。酒宴の間に上手を選び弓始が行われた。1番は下河辺行平、2番は和田義盛であった。
1月11日 頼朝が鶴岡若宮に参詣。
1月15日 政所、吉書始(きっしょはじめ/正月や昇進などに際してめでたい内容の文書を発すること)。
1月23日 頼朝の子(貞暁)を生んだ伊達念西の息女が政子の嫉妬を受けているため、頼朝は伊勢に所領を与え在京するよう内々に命じた。
1月28日 頼朝は二所詣(箱根権現/箱根神社と走湯権現/伊豆山神社)の精進のため由比浦(由比ケ浜)にて海水を浴びた後、浄衣に着替えた。
2月4日 頼朝、二所詣。鶴岡若宮参詣の後、出発。若宮大路を南に進み、稲村崎に至って行列を整えた。
2月10日 二所詣より鎌倉に帰着。
2月15日 鶴岡若宮において法華三部経供養の後、頼朝は寺院建立の霊地を探すため大倉山を見てまわった。
3月3日 広田邦房という者が「明日、鎌倉に大火がある」と予言した。
3月4日 鎌倉大火。小町大路付近より出火。幕府御所、鶴岡若宮、北条義時邸など多くの家屋が焼失。
3月6日 大きな地震があった。帝釈天が動いた吉兆という。
3月8日 焼失した鶴岡若宮の建物について造営の事始。頼朝も現場に赴いて監督したという。
4月3日 焼失した幕府御所の造営事始があった。
4月26日 鶴岡若宮の上の土地に初めて岩清水八幡宮を勧請するための宝殿の上棟が行われた。
6月9日 一条能保の姫が左大将藤原良経に嫁ぐこととなった。叔父である頼朝から様々なものがおくられた。
7月28日 御所造営が終わり、頼朝が安達盛長の甘縄の邸宅から移った。
9月9日 頼朝が大倉観音堂(杉本寺)に参詣した。風雨に晒され甍は破れ軒は傾いていた。頼朝は特に哀れに思い修理のために准布200段を奉加した。
9月21日 頼朝は海浜を視察するため稲村崎辺りに出かけた。そこで頼朝も加わり小笠懸の勝負があった。
10月2日 秦兼峰が所領の地頭を停止して欲しいと訴えてきた。兼峰は頼朝大将拝賀の際に功があっったため地頭は停止された。該当地の地頭には替わりの地が与えられた。
10月20日 大江広元が明法博士を辞任すると報告した。関東に従うものが重要な官職を自由に兼帯すべきでないから辞任でよいと頼朝の言葉があった。
11月21日 鶴岡八幡宮、若宮、末社などの遷宮があった。束帯・帯剣の頼朝が参った。北条義時が御剣を持って傍らに仕えた。
12月15日 故土佐房昌俊の老母が下野から参上し頼朝は御前に召した。亡き息子のことを話涙した。錦衣二領を与えた。義経の討手としてただ一人手を挙げたことは頼朝が今でも精兵の基準とするところである。
12月26日 今年は京都では法住寺、関東では鶴岡八幡宮、幕府御所新造と大きな事業が続いたが、民を疲弊させることなく完遂したことに人々は感心した。
閏12月7日 頼朝は新造した三浦義澄の邸宅に入った。終日遊び、三浦義村、三浦景連、佐貫広綱、大井実春らが召され相撲の勝負が行われた。
閏12月18日 幕府御所において千巻の観音経読誦が行われた。鶴岡八幡宮および勝長寿院の僧らが務めた。

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