北条泰時

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北条泰時

(ほうじょう やすとき 1183-1242)

承久の乱の鎌倉軍総大将、第3代執権。名執権の誉れも高い人物

柳庵随筆(1929年)の北条泰時

柳庵随筆(1929年)の北条泰時

北条泰時(1183-1242)は北条義時の子。名執権と讃えられる鎌倉幕府第3代執権(在任期間1224-1242)です。特に初の武家法典、御成敗式目を制定したことで世に知られています。

源頼朝が鎌倉入りし3年ほどたち木曽義仲によって平氏が都落ちした1183年(寿永2年)、治承・寿永の乱の渦中に泰時は生まれます。父義時21歳の子、幼名は金剛でした。

1194年(建久5年)2月2日、13歳の泰時は源頼朝を烏帽子親として元服。頼朝は三浦義澄に「この冠者を婿とするよう」命じます。義澄は三浦義村の娘、矢部禅尼を選びました。泰時は頼朝から一字を賜り頼時と名乗りますが、いつのまにか泰時に改名しています。後に三浦義村の娘とは別れ安保実員の娘を迎えています。

1212年(建暦2年)正室の子であった朝時が将軍源実朝の怒りに触れ父義時によって義絶され、庶子(妾が産み父が認知した子。嫡子以外の実子)であった泰時は後継者に繰り上がります。1218年(建保6年)侍所別当、1219年(承久元年)従五位上、駿河守に叙任、任官され、順調に歩んでいきます。

そしていよいよ1221年(承久3年)承久の乱が勃発します。父義時追討の院宣を下し、幕府に兵を挙げた後鳥羽上皇に対し執権義時は即時出兵を決断。39歳の泰時は幕府軍の総大将として出陣、京へと進軍します。泰時率いる幕府軍は瞬く間に朝廷方を蹴散らして入京。

幕府の出先機関として六波羅探題が設置され、北方に泰時、南方に泰時の叔父の北条時房が就任します。京にとどまった泰時は後鳥羽上皇以下3上皇の配流という史上空前の処置を含む戦後処理、西国御家人の統括という重責を担います。

3年後の1224年(貞応3年)父義時が急死。北条政子は泰時を執権に、時房を連署に任命し第3代執権北条泰時による政権運営が始まります。時に泰時42歳。この家督相続にともない、継母である伊賀の方は実子の正村を執権にすえようと伊賀氏の変を起こすしますが鎮圧され伊賀の方は幽閉されます。

誰が権力者となるか、この目利きに関しては北条政子は天賦の才があったのでしょう。幕府権力の根本である戦場には一切赴かず、源頼朝(夫)、北条時政(父)、北条義時(弟)という類い稀な武将たちの間を抜群の嗅覚とバランス感覚を持って泳ぎここまでのし上がった女傑は泰時を選んだのでした。

庶子でありながら、ある意味では唐突に家督を相続した泰時の政治基盤は盤石とはいえず、伊賀の変の関係者である北条政村、三浦義村などは不問に付し、後に得宗家と呼ばれるようになる家令の制度を新たに発足するなど苦心し苦労しながら新しい執権制度の形をつくっていきます。

承久の乱(1221年)、義時死去(1224年)に続いて1225年(嘉禄元年)には天才的政治力を発揮した頼朝の懐刀大江広元、頼朝の正室として権力を振るった北条政子が相次いで死去するという出来事が起こります。

ここに至り泰時は政権運営の方針を転換し、これまでの専制体制から合議政治へと舵をとります。幕府の要人を次々と失ったことは、泰時が政治力を発揮する契機ともなったのでしょう。

承久の乱以後、六波羅探題として京都にいた叔父の時房を呼び戻すと、執権に指名し泰時・時房の両執権体制とします。後にナンバー2の時房の地位が連署となり、これが執権・連署体制の発端となります。

続いて、13人の合議制と呼ばれる幕府の最高政務機関をつくります。泰時、時房の両執権に加え評定衆と名付けられた11人の幕臣有力者によって構成され、行政、司法、立法、軍事などすべてを司りました。もともと、源頼家の独裁を抑制するために1199年に開始されたものですが、泰時はこれを評定衆として制度化します。当初の評定衆メンバーは、北条泰時、北条時房、三浦義村、二階堂行村、二階堂行盛、中条家長、三善康俊、三善康連、矢野倫重、佐藤業時、斉藤長定、後藤基綱、中原師員。

1226年(嘉禄3年)京から迎えた8歳の三寅を元服させ藤原頼経とし征夷大将軍にします。続いて大倉にあった御所を若宮大路の東側(現在の二ノ鳥居付近。鎌倉彫会館の裏手あたり)に移転。

この頃から天候不順などにより国内が疲弊し飢餓が始まっており、これが寛喜の飢饉と呼ばれます。1229年(寛喜元年)には飢饉を理由に元号も安貞から寛喜に改元されます。しかし、飢饉は収束せず、内乱と飢饉の重なった1180年(治承4年)の養和の飢饉以来の大きなものとなりました。

鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』をみると、1229年(寛喜元年)頃から奇怪な皆既月食や地震、雷鳴などの記載が増えてきます。1230年(寛喜2年)になってもこの現象は続きます。夏の6月に武蔵国金子郷(現 埼玉県入間)に雷雨があり雹が降り、美濃国蒔田庄(現 岐阜県大垣市)ではなんと降雪がありました。陸奥国芝田郡(現 宮城県)に柚子程度の大きさの石が20余里(80km)に渡って雨のように降ったという記述もあります。そのため、天変地異をおさめるための祈祷が幾度も行われています。

1231年(寛喜3年)7月の記録には、天下の大飢饉であり疫病も蔓延、洛中洛外はおびただしい死者であふれたとあります。8月に入り天候が徐々に安定し作物も実り始め、死骸が町から少なくなり始めたそうです。

1232年(貞永元年)には初の武家法典「御成敗式目」を制定、和賀江嶋を開港させます。頼朝の時代から地頭と荘園領主、住民らとの紛争は絶えることなく続いていました(これは現代でも変わりませんが)。承久の乱以後、日本の統治機構は決定的に幕府を中心に動いており、時代の変化とともに頼朝時代の先例を基準とした裁きに限界を迎えていました。

飛鳥時代から続く難解な律令は武士や一般民衆には理解が難しい上に、実際に裁きとなるとこれを基準とせざるをえないという実状を憂いた泰時は、統一的な武家社会の基本となる法典の整備を目指して律令を学び、「道理」を骨子とした法典をつくります。もっぱら日本の武家社会や民衆の慣習に則り独自につくられた法典でした。

御成敗式目を制定した1232年には和賀江嶋の開発を行います。往阿弥陀仏という聖がこの地に港湾施設を築く許可を幕府に願い出ると泰時は大いに支援し、宋船の入港も可能な港として整備。周辺は大いに栄えたと記録されています。

1235年(嘉禎元年)畿内で大規模な寺社争いが起こります。これまで長年にわたり朝廷を苦しめて来た僧兵たちでしたが、泰時は武力と強権を持って押さえつけます。さすがの僧兵たちも、戦のプロが渦巻く鎌倉が前面に出てくると、その武威逆らうことは難しいかったのでしょう。この後、僧兵の理不尽な要求は武力を持って徹底的に鎮圧するという方針となりました。

1240年(仁治元年)、鎌倉を支えた要港六浦港と鎌倉中心部を結ぶ朝比奈切通しの建設にとりかかります。地の神にさわりありとして一時延期され、翌1241年(仁治2年)工事が再開されます。泰時は自ら馬に乗り現場を監督したと伝わります。泰時は1242年(仁治3年)に亡くなりますが、最後まで激動激務の人生を送ります。

1242年(仁治3年)、四条天皇が崩御すると朝廷は順徳天皇の皇子、忠成王を擁立しようとします。順徳天皇は承久の乱を首謀し配流された一人でしたから、泰時は断固として反対し、これを認めませんでした。20万騎の鎌倉軍に恐れおののいた21年前の承久の乱を早くもうやむやにしようとする朝廷の手練手管は泰時には通じませんでした。

この後、過労により倒れた泰時は赤痢にもかかり、6月15日に死去します。享年60歳でした。早世した泰時の長男時氏の子である、泰時の孫、北条経時が第4代執権に就任します。承久の乱により決定的に天下を併呑した「鎌倉」を政権として軌道に乗せた北条泰時は現在まで名執権として敬われています。

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