北条義時の墓

目 次

北条義時の墓

(ほうじょうよしときのはか)

日本史上最大級の偉業を成し遂げた人物

「なかんづく鎌倉郡は、文治、右幕下(源頼朝)はじめて武館を構え、承久、義時朝臣天下を併呑す。武家においては、尤も吉土と謂うべきか。」足利尊氏による室町幕府樹立宣言「建武式目」の冒頭です。

エリア北東
住 所鎌倉市西御門
アクセス「鎌倉駅」下車、徒歩20分

北条義時という人は不思議な人です。義時は源頼朝が北条政子を娶ったことによって義弟となり、頼朝挙兵時から力を尽くすことになります。才気に富んだ伝説的な言動や行動はほとんどないものの、結果としては北条政子や多数の武勇に優れた御家人たちをはるかに凌ぐ功績を残します。

御家人同士の権力闘争にも常に受け身である感じがあるのですが、ゆらぐことのない不動の存在感を発揮しています。そして義時の血を継ぐものが北条得宗家と呼ばれ、北条得宗時代を作っていきます。

特に冒頭の尊氏のセリフ「承久、義時朝臣天下を併呑す」です。朝廷から追討の院宣を受けてこれを返り討ちとし、後鳥羽上皇、順徳上皇、土御門上皇、皇子2人を配流、天皇を交代させるという日本史上空前絶後の離れ業をやってのけました。

才気溢れる治天の君として、影響力を増大させていく鎌倉幕府を快く思わなかった後鳥羽上皇は「妾である亀菊へ領地を与えたいから当地の地頭職(幕府御家人)をクビにし、ついでに最近幕府が処分した院に近い御家人の処分を撤回しろ」という命令を鎌倉幕府に対して下します。

義時は命令を拒否。1221年(承久3年)上皇は義時追討の宣旨を下し挙兵。義時は大江広元の献策を受け入れ嫡男泰時を大将軍とした20万騎ともいわれる鎌倉軍を即座に出陣させ、わずか1か月で京都を制圧しました。追討の宣旨を下されるということは、錦の御旗を敵に回すということです。それでも御家人が義時についてきたのは、普段から「御家人を守る」言動をとっていたからではないかと想像します。

頼朝はもとより信長や秀吉、尊氏といった才気にほとばしる天才たちと義時の印象はあまりに異なります。頻繁に才気を語られることもなく、派手さもありません。日本の歴史を変えたともいえる空前絶後の偉業を成し遂げた人物は、不思議な魅力を持っています。

その義時の法華堂跡(墓)がこの平場であったといわれています。この地には大江広元、島津忠久、毛利季光それぞれの墓、三浦泰村一族自害の地もあります。近くには頼朝の墓もあり、時空を超え歴史に頭を巡らせるには最適の場所です。

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