『一日の行楽』(田山花袋著)

目 次

『一日の行楽』(田山花袋著)

自然主義文学の巨匠による紀行作品に、鎌倉の項あり

昔の人が羨ましくなる

大正7年(1918年)に博文館より刊行された田山花袋による紀行作品。東京から一日で行ける程度の距離を基準に、三浦半島、房州、赤城山、草津、諏訪湖、伊香保温泉、等々力の瀧、泉岳寺、足尾など数多くの名所を紹介しています。田山花袋は『蒲団』が有名な自然主義文学の巨匠であり、『南船北馬』、『山行水行』、『温泉めぐり』などの紀行作品を著しています。

格別に素晴らしい内容となっています。例えばこんな一文。
「八幡の楼門の前から、遥かに由比ヶ浜の波の音を聞いた感じはわるくない。」

八幡の楼門というのは、石段を登った拝殿前です。いまでもそこから遠く由比ヶ浜をのぞむことができますが、しかし、まさか波の音が聞こえる程、当時の鎌倉は静かだったのでしょうか? 恐らくそうではないでしょう。圧倒される表現力に、大正時代の鎌倉に触れたような充実感を得ます。

いま巷に溢れる、ふわふわした鎌倉見物案内本とは別格の逞しさです。文章という創造と写真という複写の違いも実感させられます。

鎌倉の項は、鎌倉と江の島に分けて著されています。当時の江の島は、たかが東京オリンピック ヨット競技のために1500年の霊場を埋め立てるという、罰当たりな所業以前の事ですから、羨ましくもなります。

以下、鎌倉の項を引用します。※読みやすくするため旧字体、旧仮名遣いなどを一部、現代文に直しています。原文は次のリンク先よりご確認下さい。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/959134

『一日の行楽』(大正7年2月16日発行、著者 田山花袋、発行 博文館)

鎌倉

鎌倉と江の島は、今では東京の郊外と言っても好い位である。ちょっと遊びに行くにもわけがない。鎌倉に住宅を構へて、毎日汽車で東京に出勤しているつとめ人などもある位である。

鎌倉は歴史の跡に富んでいる。日本では、奈良、平泉、鎌倉、この三つが完全な『廃都』の址である。中で、鎌倉はやや開けすぎたので、『廃都』という感じは薄らいで了ってゐるけれども、小野湖山が鎌倉懐古の七律を賦した時分には、憑弔(ひょうてい)の客をして涙襟を沾(うるお)すに至らしめたほどさびれていたのであった。私の知っている最初の鎌倉の印象も矢張さびしい衰えた『廃都』のさまであった。八幡前の廣い若宮大路には、草が高く生えて、兩側には茅葺屋根の百姓家が並び、麦が筵(むしろ)に並べて干されてあった。

今は東京にいて鎌倉を知らないものはない。鶴岡八幡、僧公暁のかくれた大銀杏、由比ヶ濱の波、長谷の大佛、大塔宮の洞窟、頼朝の墓、青砥藤綱の滑川、すべて人口に膾炙(かいしゃ=広く言われていること)している。中学生などもよく修学旅行に出かけて行って知っている。それに停車場から長谷の方にかけて、乃至は笹目谷とか、松葉谷とか言う谷々も皆別荘や人家で埋められて了った。何しても、東京の郊外という気がする。

鎌倉で、先ず停車場を下りる。一番先に、鶴岡八幡に行く。八幡の境内は瀟洒で、掃除が行き届いて気持ちが好い。例の静御前の舞を奏したあとなどを見て、長い石磴(せきとう)を登ると、左に、僧公暁の実朝を殺した大銀杏がある。無論そのひこばえであるが、それでもかなりに大きい古い樹だ。八幡の楼門の前から、遥かに由比ヶ浜の波の音を聞いた感じはわるくない。それに鎌倉の四面を囲んだ丘陵の上に、松が並んで生えているさまも、人の絵のやうな感じを與(あた)えた。この下の一帯の低地、若宮大路を挟んだ左右の地は、頼朝時代に覇府の行政府や諸大名の邸などがあったところで、沿革図を見ると、その当時のさまが一々指摘點(=指点)される。で、八幡を去って、師範学校の傍を通って、頼朝の邸の址というのを見て、今度は丘近く頼朝の墓のあるところに行く。

墓は大江廣元の墓と相並んでいる。磴道がかなり長い。廣元の墓はその後裔の島津家で手を入れているので常に綺麗だが、その主人の頼朝の墓は苔蒸して詣づる人もないのは悲しいような気がする。で、一拝してここを去って、今度は鎌倉がまだ覇府でなかった以前からある荏柄天神社に行く。さびしい社だが、これが歴史の長い悲喜劇の址を経て来ている社だと思うと、感じが深い。春先は境内に梅が白く咲いていて好い。

やがて、鎌倉宮に来る。別格官幣社で、例の大塔宮を祀った神社がある。境内も社殿も清くしてそして瀟洒である。春は山櫻がちらちらと咲いていたりする。護良親王の弑(しい)せられた土牢は社の後ろにあって、頼めばそれは見せて貰える。淵辺義博は此処で親王を弑して、その遺骸を奥の丘の松の下に持って行って埋めたということである。親王の事績は、今でも猶(なお)人をして暗涙に咽ばしめるに足るものがある。

で、此処から引返す。金澤の方へ行く路に来て、滑川を渡って、葛西ヶ谷の方へ行って見ても好い。此処にも澤山(たくさん)寺がある。北條氏は代々此の谷にその住所を持っていたらしく、高時の亡びた東勝寺の址はもう今は残っていないけれども、それでも別な寺にその時分の址はニ三残っている。これからずっとレールを越して、材木座の方へ出て来ても好いが、普通は、八幡前に戻って、小袋坂の細い道を通って、東福寺から建長寺の方へと行く。

建長寺は円覚寺と共に、此処では是非見なければならない巨刹である。堂宇も鎌倉時代のすぐれた建築で、その前のヒバの木なども見事だ。山門の扁額は寧一山の筆として著名である。堂の中には、澤山(たくさん)佛像やらが並んでいる。富士の牧狩に用いた太鼓だというものなどもあった。

ここには奥に流行の半僧坊がある。そのせいか、参詣者が多い。それに境内も小ざっぱりしている。ここから半僧坊のあるところまで五六町。ここを出て少し来ると、山内の管領屋敷址がある。建物は何もないけれど、地形は依然として、此処に大きな邸があったことを旅客に思わせる。春は川に添うて、赤い野椿の花が咲いていたりする。

円覚寺は建長寺に比べると、さびしい。いかにも禅寺らしい。本堂の扉がぴっしゃり閉まっていて、昼も小暗く杉樹(さんじゅ)が茂っている。それを背景に、梅が白く咲いているさまは絵のようである。寺の奥に、北條時宗の墓がある。また右の小高い處に、鐘撞堂(かねつきどう)があって、一撞(つき)一銭で遊客のつくのに任せている。おりおり鐘の音があたりの寂寥を破ってきこえて来る。

山の内から扇ヶ谷を通って、化粧阪に行くと、葛原岡神社、景清土牢などがある。長谷の方へも出て行かれる。

しかし此路を行くよりは、再び八幡前に引返す。そして其處に待っている。電車に乗る。長谷はすぐである。昔は此間は麥秀の歌のひとり手に口に上るような畠であったが、今はすっかり開けて家屋になって了った。町になって了った。長谷で電車を下りると、やがて左に観音に行く路がわかれている。そっちに行かずに、真直に行く。突当ると、長谷の大佛である。慈顔を持って名高い大佛がそこに立っている。境内も静かで、木の影が多くって夏は涼しい。奈良の大佛などに比べると、非常に小さいのだが、これだけ見ると、かなりに大きく見える。濡佛であるからであろう。堂守に頼むと、胎内を見せて呉れる。中には佛像などが澤山(たくさん)に並んでいる。不思議な気がする。

ここを出て、元に戻って、今度は観音に行く。門前町から山門に通ずる石段を登る。堂宇もかなりに立派である。ここにある観音は、昔海中から引上げられたものだそうで、案内の僧が轆轤仕かけで蝋燭を高く持ち上げて、暗い中に立っている像を照して見せる。かなりに大きい像である。

この附近に権五郎社がある。大きな石などがある。権五郎が持ったものだということである。昔は力餅などを売っていたが今はどうしたか。

鎌倉十井の一つである星月夜の井なども其の近所にある。昼でも覗くと、その中に星が見えるなどと言われている。

この鎌倉を覇府を控えた海は、所謂由比ヶ浜で、西は稲村ヶ岬、東は小坪の鼻で丸るく包まれている。何方(どちら)かと言えば、平凡な海である。海岸の砂山に並んでいる松も頗(すこぶ)る貧弱だ。この海岸路は長谷から小坪まで一理に少し近い位だ。

材木座の方にも、仔細を探ると、見るものが少しはある。寺の大きいのなどもある。小坪から逗子を越えて行く路は、小さな峠を越して、一里半。

江の島

鎌倉から電車で行く。

極楽寺の切通を過ぎると、竹藪、水車、小さな川が潺々(せんせん)として流れている。この川の東岸に、義貞の鎌倉攻めの時に奮戦して戦死した大館宗氏以下の墓がある。歩いて行って見ても好い。

やがて海が見え出して来る。

碧い、碧い海だ。風のある日は、それに波頭が白くあがって湧くようになって見える。やがて江の島の青螺がほっかり海中に浮かんでいるのが見える。

漁村が漁村につづく。電車はところどころに停っては動いて行く。疎(まば)らな風情のある松原の中に瀟洒な別荘のあったりするのが眼に着く。やがて左はすっかり海になる。所謂七里ヶ浜である。江の島は手に取るように見える。岸には波が寄せては返し、返しては寄せて来る。

腰越の村はずれの岩に松の靡いているのが遠く見える。

小さな川が丘の中から出て海に注いで行っている。行合川である。僧日蓮の龍口御難の時、災異を報ずる使者と宥免の使者とが行遭ったところだということである。

やがてその長い濱は盡きて、ゴタゴタした漁村に入って行く、茅茨瓦甍相接すという風である。昔はここは鎌倉の出外れの宿で、非常に賑やかなところであった。誰も皆此処に来て一宿して鎌倉に入る許可を待った。義経などは此処まで来て、旅客は昔を思ふの念に堪えないであろう。

満福寺に一詣する。

それから、例の龍口の龍口寺に行く。ここはもう片瀬である。寺はかなり大きな立派な寺である。あの日蓮が法華経を持して動かなかったさまなどが想像される。寺の前に、有名な片瀬饅頭がある。日光の湯澤屋の饅頭よりしゃ拙いけれども、それでも東京の土産にはちょっと面白い。

片瀬で電車を下りる。暫しの間、田舎道を行く。やがて松原が来る。それを通り抜けるとす、砂濱。もう江の島はすぐ手に取るばかりに近くにある。

江の島は地形は日向の青島に似ていて、それよりも好い。東京に近く、あまりに人口に膾炙(かいしゃ=広く言われていること)しすぎたので、人は余りめづらしいと思はないけれど、始めて見た人には、非常に好風景に思われるに相違ない。江戸時代には、江の島鎌倉と言って、人がわざわざ歩いて一日泊りで生魚を食ひに来たところである。右に連なつた箱根連山、その上に聳えた富士が非常に美しい。茅ヶ崎の海岸にある烏帽子岩も、注意するとそれと指さされた。

砂濱を七八町、やがて棧橋が来る。かなりに長い棧橋である。この棧橋は、暴風雨の時にはよく流されて、島との交通が一日も二日も絶えて了ふことがよくある棧橋である。これを渡ると、宿引が澤山やつて來て旅客にまつわる。ゑびすや、江戸屋、岩本、さぬきやなどという旅館がある。

やがて旅客は狭いゴタゴタした爪先上りの通を発見する。江の島土産を並べた家が軒をつらねて戸毎に通る客を呼んでいる。一種特色のある町である。

それを通り抜けて少し上ると、左に、金龜樓といふ旅舎がある。

ここでの旅舎は、富士を見るのには、岩本、ゑびすやなどが好い。その反對に、鎌倉、逗子の方を見るには金龜樓(きんきろう)が好い。宿料は一圓五十銭内外。

一體(いったい)、江の島は昔から江戸の人が生魚を食ひに来た處なので、旅舎では食物の多いを誇りにしている。二の膳、三の膳、もつと多くつける。從つて宿料や昼食料が廉(やす)くない。それに、調理法も田舎者相手なのであまりに旨くない。唯材料の多いので旅客を驚かすという風である。

金龜樓(きんきろう)から、辨天の本社に参詣して、それから島の絶頂のやうなところを通つて、それからだらだらと下りる。岩と岩の間から白く碎けた波の海が見えて、景色が好い。一編上人成就水のあるところへ下りて行く山二つあたりは、殊に眺望がすぐれている。

それを通り越す。と、又土産物を賣る店が兩側に並んで、やがて奥社の境内へと入つて行く。境内は西の海に面して、感じはひろびろとしている。その西南の隅には、かけ茶屋があつて、そこから窟の辨天に行く路に下りて行く。このかけ茶屋の上から見た海は非常に好い。波も好ければ、海も面白い。聳えたり伏したりしている岩石にも奇姿が多い。それに、そこからは、大島の三原山の噴煙が見える。

その茶屋で、名物のさざえの壺焼でも食つて、草履をかりて、そして窟へと下りて行く。稚児ヶ淵がすぐその下にある。それは鎌倉の寺の稚児が投身したところとして世にきこえているところである。

好い加減下りて、岩から岩を傳(つたは)つて歩く。右も左も前もすべて怒濤澎湃(ぼうはい=水がみなぎって渦巻く様)としたあら海である。そこに、鮑を海底から取つて來ると称する漁師がいる。しかし、これは取つて來るのではなくて、自分で手で持つて海に入つて取つて來たやうな振をふるのである。昔はこれでもめづらしいと人々が思つたものだが、今ではそんなことに欺かれるやうな旅客は少ない。

龍窟の中は、俗だけれど、ちょつと面白い。棧橋を渡って、窟の中から振り返って海を見た形は奇観である。案内者があつて、遊覧者を窟の中につれて行くが、窟もかなり深い窟である。

帰りは山二つの手前のところから左に入って、近路をして町の上へと出て来る。そこから西に向かつた海が手に取るように見える。

で、引返す。片瀬に來て、電車に乗る。電車の中から片瀬川の芦萩や葦の多い小さな川が見える。電車の便のない時分には、遊覧者は藤澤からすこし歩いて來て、この川に待つている小舟に乗つて、海近くまで下つて行つたものである。川の向こうは砥上ヶ原で、古戦場である。

鵠沼の停留場で下りると、海水浴舎が五六軒そこから五六町行つたところにある。鵠沼海水浴は其處である。海水浴するところとしては、余りよくないが、松原がちょとと好い。宿料も片瀬に同じ位で、さう大して高くない。

で、藤澤に來る。

藤澤には例の遊行寺がある。時宗の本山で、そこから遊行上人が各地に説教に出るのできこえている。そこに行くには、一汽車おくらせなければならないが、次手(ついで)だから行つて見るが好い。距離は十二三町、車賃往復五十銭と思へば間違いない。寺の前は賑やかな門前町で、堂宇も宏壯(こうそう=建物などが広大で立派なこと)である。裏には小栗判官堂がある。小さな小僧がおもしろ可笑しく案内をする。

人に由つては、江の島を先にし、鎌倉を後にするものもあるであらうが、さういう人はこれを逆に應用して貰へば間違ない。

Follow me!