一ノ鳥居

目 次

一ノ鳥居

(いちのとりい)

江戸幕府第4代将軍、徳川家綱の寄進した御影石の大鳥居

江戸幕府第4代将軍、徳川家綱は1668年(寛文8年)に鶴岡八幡宮の3つの大鳥居を寄進しました。関東大震災により3つの鳥居は倒壊しましたが一ノ鳥居は江戸時代の材料を大切に利用し再興されました。

一ノ鳥居。鶴岡八幡宮方向からみます。

一ノ鳥居。鶴岡八幡宮方向からみます。

エリア由比ヶ浜・材木座
住 所鎌倉市由比ヶ浜2丁目付近(県道21号上)
アクセス「鎌倉駅」下車、徒歩9分。

第4代将軍、徳川家綱寄進の大鳥居

由比ヶ浜から600m程若宮大路を鎌倉駅方面に入ると大鳥居があります。鶴岡八幡宮、一ノ鳥居です。続いて鎌倉警察署前、現在段葛が始まるところがニノ鳥居、鶴岡八幡宮前交差点のところが三ノ鳥居となります。

3つとも江戸幕府第4代将軍徳川家綱により寄進されました。3つの大鳥居のうち、二ノ鳥居、三ノ鳥居は関東大震災において倒壊し、復興されたのはこの一ノ鳥居のみです。倒壊した鳥居は鎌倉国宝館前に源実朝句碑として一部が残っています。

一ノ鳥居は浜の大鳥居とも呼ばれ、国の重要文化財に指定されています。最初は1180年(治承4年)源頼朝により建てられました。地震や火災により幾度も建て替えられ、現在のものは約350年前の1668年(寛文8年)、江戸幕府第4代将軍、徳川家綱によりそれまでの木造ではなく、備前国犬島産の御影石(花崗岩の石材名)によって造られました。明神鳥居の典型といわれ、高さ8.5m、柱の太さは92センチです。

関東大震災において倒壊したものの、1934年(昭和9年)に修復計画が成り、1936年(昭和11年)に再建されました。元の材料を最大限に活用し、補足材料は徳川家綱と同じく備前犬島に求めるなど当初の美観を損なわない苦心があったことが知られています。鎌倉駅を背にして左側柱の上部(旧材部分)に「寛文八年戊申八月十五日 御再興 鶴岡八幡宮石雙華表」と刻まれています。

かつてはもう少し鶴岡八幡宮寄りにあった

一ノ鳥居の少し鎌倉駅寄りに由比ヶ浜歩道橋があります。この下に「浜の大鳥居跡」があります。平成2年の発掘調査により徳川家綱寄進より前の柱の痕がここから発掘されました。調査によると、戦国大名北条氏康によって造られたものである可能性が高いそうです。

1180年(治承4年)、源頼朝によって造られた一ノ鳥居は徳川家綱により造られた現在の一ノ鳥居よりも鶴岡八幡宮寄りにあったと考えられる貴重な発見でした。現在の海岸線は度重なる埋め立てにより拡張しており、源頼朝の時代には現在の一ノ鳥居の近くまで浜が広がっていたといいます。

横須賀線の線路建設により破壊撤去されるまで、この柱痕付近まで段葛が続いていたそうです。現在は自動車が通る道となってしまいました。一ノ鳥居はすぐ側を車が通りますから、ちょっとした前方不注意でも鳥居にぶつかってしまうのではないかと心配になります。

江戸幕府第2代将軍、徳川秀忠夫人、崇源院

崇源院が第3代将軍徳川家光を懐妊したとき、鶴岡八幡宮に安産祈願を行いました。無事出産した崇源院はより鶴岡八幡宮への崇敬を篤くしたといいます。ある日崇源院の夢に八幡大神があらわれ、備前屋犬島に奇石があり、その石を使って鶴岡八幡宮の大鳥居を建立すべし、と告げました。崇源院は次の社頭修営の際にはこのお告げを実行するよう家光に懇願しました。崇源院は鳥居の完成をみずに亡くなりましたが、家光の子、家綱の時代にそのお告げは実現されました。

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