浄妙寺

目 次

浄妙寺

(じょうみょうじ)

足利氏の氏寺として栄えた鎌倉五山第五位の禅寺

鎌倉を支えた港、六浦港へと至る六浦道(現金沢街道)沿いにある浄妙寺。頼朝の挙兵にいち早く協力し、重臣となった足利義兼が創建したお寺さんです。地名にもなっていることから往時の繁栄が想像できます。

エリア浄明寺・十二所
住 所鎌倉市浄明寺3-8-31
宗 派臨済宗建長寺派
本 尊釈迦如来
創 建1188年
開 山退耕行勇
開 基足利義兼
札 所鎌倉三十三観音第9番
文化財等木造退耕行勇座像(国重文)など
拝 観9:00〜16:30/100円
アクセス「鎌倉駅」よりバス、「浄明寺」下車すぐ

本堂。流麗な屋根が印象的です。

本堂。流麗な屋根が印象的です。

平安、鎌倉を生き抜いて室町をつくった足利氏の鎌倉拠点

寺の名が地名にもなっている、足利氏の氏寺です。室町幕府を打ち立てた足利尊氏の父・貞氏は「浄妙寺殿」とよばれていました。浄妙寺の東側には室町時代に鎌倉を治めた鎌倉公方の屋敷がありました。南北朝時代や足利義満の時代に最盛期を迎え、往時には23の塔頭を持つ大寺院だったようです。浄明寺の前を通る金沢街道は六浦道と呼ばれ、市街と鎌倉を支えた主要港六浦を繋ぐ最も中心的な道路でした。

開基の足利義兼は、源義家の子である義国の孫です。源頼朝による幕府成立にいち早く協力し、尊氏へと続く足利氏の基盤を築いた人物です。浄妙寺の隣の屋敷には足利尊氏が住んでいたこともあります。

お寺さんの裏には藤原鎌足が子孫のために鎌を埋めたといわれる稲荷山があり、鎌足稲荷神社があります。本堂手前左手にある喜泉庵では枯山水庭園を見ながらお茶とお菓子をいただくことができます(有料です)。とてもよいですよ。

昔は極楽寺というお寺だったそうです。現在は臨済宗建長寺派となっていますが、創健した足利義兼は源頼朝とほぼ同時代に同格な源氏の人物として活躍したわけですから、当然当時、臨済宗はありませんから、真言宗なり、天台宗のお寺であったことでしょう。足利尊氏の父、貞氏の時代になり、極楽寺を修復し浄妙寺に改めたそうです。

浄妙寺、主な四季の花木

2月〜3月、随所に植えられた梅が見頃を迎えます。浄妙寺の梅は、数ある梅の名所の中でも、独特の風格ある雰囲気が魅力です。その後は門前の桜並木が見事。桜が終わり、4月下旬から5月上旬、ゴールデンウィーク頃には、牡丹(ボタン)、躑躅(ツツジ)、藤(フジ)、石楠花(シャクナゲ)ときれいな花々が境内を飾り、暖かくなった陽気とともにとても気持ちよく参拝できます。

梅雨に入ると紫陽花の季節です。境内には本堂周辺、石窯ガーデンテラス周辺、あじさいの小路と大きく3か所の見所があります。数が多いのは石窯ガーデンテラス周辺、鎌倉らしい魅力があるのは、本堂周辺と、頼朝の逸話残る衣張山を眺めながらみるあじさいの小路の紫陽花です。詳しくは「浄妙寺のあじさい」記事をご覧ください。

暑い夏を過ぎて秋に入ると11月から紅葉が見頃を迎えます。

『新編鎌倉志』(江戸時代につくられた元祖鎌倉ガイド)の記述

淨妙寺〔附稻荷明神社〕

淨妙寺(じやうみやうじ)は、稻荷山(たうかさん)と號す。五山の第五也。開山退耕和尚、諱は行勇、千光の法嗣也。『鶴岡八幡宮供僧次第』に云、慈月坊の行勇、荘嚴坊法印、元(もと)は玄信、周防の國の人、實は四條殿(との)の息子。當社の供僧職は讓于有俊、入壽福寺葉上僧正室。後補彼寺長老第二世なり。又淨妙寺の開山なりと云云。
按するに、源の尊氏の父、讃岐守貞氏(さだうぢ)を、淨妙寺殿貞山道觀と號す。元弘元年(1331年)九月五日逝去、當寺の檀那にて、當寺を修復の後淨妙寺と改めたると見へたり。昔は當寺を極樂寺と號すと、『元亨釋書』に見へたり。寺領四貫三百文の御朱印あり。至德三年(1386年)七月、源の義滿(よしみつ)、五山の座次を定め、建長寺を第一として、京師天龍寺の次也。圓覺寺を第二、壽福寺を第三。淨智寺を第四、淨妙寺を第五とす。是より先(さき)、座位の沙汰あらず。此の時歸依の僧を贔屓(ひいき)して、私(わたくし)に定(さため)けるとなん。

佛殿

本尊は阿彌陀、作者不知(知れず)。

開山塔

光明院と云、開山の像あり。又源の直義(ただよし)の木像あり。又光明院殿本覺大姉と書たる位牌あり。裏(うら)に法樂寺殿の嫡女、八月廿日逝去とあり。足利義氏(あしかがよしうぢ)を法樂寺殿正義(しやうぎ)と號す。其女(むすめ)を光明院と號す。權大納言隆親(たかちか)の室(しつ)、隆顯(たかあき)の母と、足利(あしかが)の系圖にみへたり。又日光山にて光明院講あり。日光の中興に昌宣と云僧あり。義氏(よしうぢ)の子なりと云ふ。光明院は昌宣の俗姉なる故に、其法事あるか。

鐘樓

門を入、右にあり。

稻荷社(いなりのやしろ)

寺の西の岡(をか)にあり。淨妙寺の鎭守なり。『東鑑』に、弘長元年(1261年)五月一日、大倉の稻荷の邊聊(いささ)か物怱(ものさはが)しとあり。堯慧法師が『北國紀行』に、淨妙寺に入てみるに、杉(すぎ)の木(こ)だかき社(やしろ)は、稻荷明神也。白狐あらはる時は、寺家に佳瑞あり。門外の叢祠は、鎌(かま)を手向(たむけ)侍(はべ)り。往古の縁起うせて、何(なん)の御神とも不知(知れ不)といへり。さては此御社は、大織冠の御鎭座か。山なる鎭守は、彼の靈劔(れいげん)の鎌(かま)を納(をさ)められし、鎌倉山是なりとをぼゆるとあり。今按ずるに、大織冠鎌(かま)を埋(うづみ)し地、並に稻荷の社・鎌倉山の事、前に詳(つまびらか)に記するが如く、此地には非ず。堯慧法師が紀行は、里俗の云ふに任(まか)せて書たりとみへたり。

直心菴

天瑞和尚、諱は守政、應永三十年(1423年)十一月晦日に寂す。壽六十云云。塔頭今殘り存する所此(これ)のみなり。

靈芝菴

自收和尚諱は志淳、嗣法佛源禪師。

瑞龍菴

靈岩和尚諱は道昭、嗣法桑田。

芳雲菴

芳庭和尚諱は法菊、嗣法太平。

禪昌菴

雲山和尚諱は智越、嗣法無隠延文三年五月廿一日に寂す。

東漸菴

笑岩和尚諱は乾知。

佛智菴

象先和尚諱は乾岩、嗣法喝岩。

萬春菴

三山和尚諱は祖教。

知足菴

蒙菴和尚諱は志聰。

大休寺舊跡

大休寺(だいきうじ)の舊跡は、淨妙寺の境内、延福寺の舊跡の西にあり。熊野山(こうやさん)と號す。此西の方に熊野(くまの)の祠あり。大休寺の跡には石垣(いしかき)の跡あり。古き井(い)二つあり。源の直義(たたよし)の菩提所なり。此の邊直義(たたよし)の舊宅也。直義(たたよし)を大休寺殿贈正二位古山慧源大禪定門と號す。又は大倉(をほくら)二位の大明神と號す。開山は月山希一和尚、玉山の法嗣なり。貞治五年(1366年)丙午六月十三日に示寂。直義の位牌は淨光明寺にもあり。又洛の村雲にも大休寺あり。直義(たたよし)の寺なり。

以下は『新編鎌倉志』(1685年刊行)における浄妙寺の図です。延福寺跡や大休寺跡、熊野神社などもみえます。東公方屋敷というのは関東公方屋敷です。

『新編鎌倉志』(1685年刊行)における浄妙寺図。

『新編鎌倉志』(1685年刊行)における浄妙寺図。

本堂へと向かう参道にはつばきやぼたん、さるすべり、いちょうなどが並び、紅葉がとてもきれいです。隣接する石釜ガーデンテラスではパンや喫茶が楽しめ、最近人気のスポットになっています。ちなみに、お寺さんの名前は「浄妙寺」、地名として使うときは「浄明寺」と書きます。筆者の本籍地も浄明寺ですが、表記はやはり浄明寺となっています。

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浄妙寺のあじさい

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