梶原景時

(かじわら かげとき 1140? – 1200)

幕府創成に貢献した頼朝の側近

 梶原景清の子。現在も残る御霊神社の祭神である鎌倉景政と同じ鎌倉氏の一族。頼朝挙兵当初同族の大庭景親に従い石橋山の戦いに参戦。敗れて山中に逃げる頼朝を追いこれを発見するものの「この山には人の跡なし」と報告し頼朝を助ける。再起した頼朝が平氏軍を破り1180年(治承4年)10月、鎌倉に入ると土肥実平を通じて頼朝に降伏し御家人となった。武勇だけでなく教養があり行政力に長けた景時はその後頼朝に重用され活躍していく。1183年(寿永2年)には東国最大の御家人、上総介広常を討ち取る大仕事を遂行した。その時に刀を洗った場所は現在でも梶原景時太刀洗の水として鎌倉に残る。木曾義仲、平氏、奥州と各戦場において要職を務め功を挙げた。義経の自分勝手な独断専行を頼朝に報告したことが後世になり「梶原景時の讒言」といわれるが、義経の振る舞いに苦慮していたのは景時だけではなく誰ひとり義経を弁護していない。畠山重忠に謀反の疑いありと讒言した際には周囲の反発を買った。頼朝第一の有能な家来として侍所別当ともなり、頼朝死去後は十三人合議制のひとりとなった。最後は北条氏にとって景時の大きな存在が障害となったのであろう、時政の暗躍もあり結城朝光への讒言をきっかけに三浦義村はじめ有力御家人66将による景時排斥の連判状を受け討たれた。頼朝のために憎まれ役をこなし続けた有能な御家人だった。

『集古十種』の梶原景時。

『集古十種』の梶原景時。

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