梶原景時屋敷跡

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梶原景時屋敷跡

(かじわらかげときやしきあと)

頼朝の一の側近として活躍

御霊神社に祀られる湘南地域を拓いた平安の武将、鎌倉権五郎景政の直径子孫が梶原景時。大庭氏はこの系統からわかれた同族です。頼朝の側近として活躍し5か国の守護に任じられ、侍所所司、厩別当などを務めました。和歌に通じ、教養深い人であったとされています。

エリア浄明寺・十二所
住 所鎌倉市十二所
アクセスJR・江ノ電「鎌倉駅」よりバス「泉水橋」下車、徒歩10 分(明王院手前の岐路を左折し鎌倉グリーンテニスクラブを過ぎて少し先)

源頼朝の右腕として鎌倉幕府創設に大きな力を発揮

源義経との確執から、「義経を陥れた悪人」という評価を与えられることが多いのですが、これは安直な意見でしょう。天才的な奇襲、京都の守護をそつなくこなすなど義経の手腕は目立ちますが、吾妻鏡にも記述のあるとおり、勝手な戦ぶりに困惑していた御家人達は多かったようです。

その証拠に源頼朝の計を理解せずに対立し、朝廷から頼朝討伐の院宣を受けたものの義経に従う者はほんの僅かでした。武家の棟梁、武家政権の中心として相応しくなかったのでしょう。

頼朝は義経が遠く及ばない深遠な日本のグランドデザインを描いていたのであり、「頼朝か義経か」などと並列しての好き嫌いには疑問を持ちます。頼朝の計についていったであろう景時と義経が多少の対立をしたことも想像に難くありません。

鎌倉景政源義家の後三年の役において武勇の誉れ高い初陣を成し遂げたことからもわかるように、梶原家は古くから源氏の家人でありましたが、平治の乱において源義朝が敗死した跡は平氏に従っていました。頼朝挙兵時も当初は敵対し、石橋山合戦には親類の大庭景親とともに平家側として戦い、頼朝を破っています。

大庭景親は山中に逃れた頼朝を追跡しました。梶原景時は追手の一人として頼朝を見つけたものの、これを大庭景親に隠し、頼朝を助けたと吾妻鏡にはあります。その後、千葉、上総の大軍を加えた頼朝は鎌倉入りを果たします。

降伏した景時は鎌倉に入った頼朝と面会し頼朝の御家人となり、頼朝一番の側近として活躍していきます。学問に通じた武士というのは頼朝にとってはとてもありがたい存在だったのでしょう。

頼朝の死後、頼家の代となっても権力をふるい続けた景時でしたが結城朝光を陥れようとた讒言に怒った三浦義村和田義盛ら66人の御家人による景時排斥の連判状が頼家から下げ渡されると、弁明することなく鎌倉から退きました。京都に向かう梶原景時一行は駿河において吉香友兼らの武士たちと戦闘になり、一族共々討ち取られました。

『新編鎌倉志』(江戸時代につくられた元祖鎌倉ガイド)の記述

梶原屋敷〔附大巧寺舊跡〕
梶原屋敷(かぢはらやしき)は、五大堂の北の方山際(やまきは)にあり。梶原(かぢはら)平三景時(かげとき)が舊跡なり。
『東鑑』に、景時は、正治二年(1200年)十二月十八日に、鎌倉を追(を)ひ出され、相模の國の一の宮(みや)へ下(くだ)る。彼家屋を破却して、永福寺の僧坊に寄附せらるとあり。賴家(よりいへ)の時也。今此所に、大きなる佛像の首(くび)ばかり、草菴に安置す。按ずるに、『東鑑』に、安貞元年(1227年)四月二日、大慈寺の郭(※左側に土へん加える)内に於て、二位家〔平の政子〕第三年忌の爲に、武州泰時(やすとき)、丈六堂を建(たて)らるとあり。此の所大慈寺へ近(ちか)ければ、疑(うたかふ)らくは其の丈六佛の首(くび)ならん歟。
又里老の云く、昔し大行寺と云(いふ)真言寺(てら)此所にあり。頼朝(よりとも)の祈願所にて、或は此の寺にて、軍(いくさ)の評議して勝利を得られたり。故に大巧寺と改(あらた)む。後(のち)に小町(こまち)へ移し、日蓮宗となる。今の小町(こまち)の長慶山大巧寺是なりと。しかれども、『東鑑』等の記録に不見(見へず)。按ずるに、五大堂を大行寺と號すれば、昔しの大行寺の跡は、五大堂を云ならんか。不分明也(分明ならざる也)。

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梶原景時屋敷跡” に対して2件のコメントがあります。

  1. megu より:

    はじめまして
    鎌倉散策の参考にいつも楽しく読ませてもらっています。
    結城朝光を陥れようとた讒言に怒った三浦泰村、和田義盛ら・・・と、ありますが、
    三浦『義村』です。義と泰の違い。昔の人って名前が似ていてややこしいですね。

    1. 鎌倉タイム管理人 より:

      ご指摘ありがとうございます。該当記事の誤植、修正しました。今後とも何かありましたらご指摘いただければ幸いです。よろしくお願い致します。

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