覚園寺

(かくおんじ)

中世を感じる覚園寺の凄み

足利尊氏が再建した本堂をいまも受け継ぐ覚園寺。谷戸全体が鎌倉の核心ともいえる中世武家政権の魅力を直に感じさせてくれる凄い場所です。紅葉も絶景です。

エリア北東
住 所鎌倉市二階堂421
宗 派真言宗泉湧派
本 尊薬師三尊
創 建1296年
開 基北条貞時、智海心慧(ちかいしんえ)
拝 観愛染堂までは無料。その奥は寺の案内によって入る( 500円)。時刻は10、11、13、14、15時。8月と年末年始は休み。
アクセス「鎌倉駅」よりバス「大塔宮」バス停下車、徒歩8分

北条義時を救った戌神の夢

1218年(建保6年)北条義時が建立した大倉薬師堂を起源とし、鎌倉幕府第9代執権、北条貞時(1272-1311)が1296年(永仁4年)に寺院として正式に建立しました。『吾妻鏡』や『覚園寺縁起』によれば、北条義時の夢に十二神将の戌神(いぬがみ)があらわれ、「来年の将軍参拝には供奉するなと」いいました。これは源実朝が暗殺された日のことをいっています。義時は当日供奉しますが、暗殺直前になりなり急に体調をくずして列から外れたため難を逃れています。

この夢のお告げにより義時は1218年(建保6年)12月2日、薬師十二神将の加護をえるため大倉薬師堂を建てたそうです。北条執権政治の実質的な祖とされる義時の伝説だけに、この大蔵薬師堂は代々の執権から篤く敬われたそうです。

その後、二度の蒙古襲来を撃退したものの、まだ蒙古の脅威はぬぐい去れなかった1296年(永仁4年)、時の第9代執権北条貞時により、大倉薬師堂は覚園寺という正式な寺院として創建されました。

中世から残る数少ない建造物

鎌倉に育った者としてこういった情報発信をはじめてみると、「鎌倉の魅力」ということをしばしば考え、言葉にもします。その核心は頼朝挙兵~鎌倉~南北朝~室町時代の中世武家政権・都市の歴史にあることは確かです。度重なる災害によって江戸~昭和にかけて再建された寺社の建物も、中世武家政権の歴史があったからこそいまに繋がっているといえます。

核心は中世武家政権・都市としての魅力にあるとわかっていても、「じゃあそれを直に感じられる場所は?」と聞かれて「ここです」ときっぱり答えられる数少ない場所が覚園寺です。

鎌倉には中世から残る寺社の建築物が3つあります、国宝となっている円覚寺舎利殿、1316年に鶴岡八幡宮の旧若宮本殿として建てられた荏柄天神社の本堂、そして1354年に足利尊氏によって建立された覚園寺の本堂です。

この3つの内、きちんと通常拝観できるのは覚園寺の本堂のみです。円覚寺舎利殿は通常一般公開されておらず、荏柄天神社の本殿は参拝できる部分ではなく、その奥にある本殿が旧若宮であるため屋根部分を少し遠目にみられる程度です。

覚園寺にはこの本堂の他、愛染堂、三蔵、黒地蔵堂、千躰堂、十三仏やぐら、旧内海家住宅、樹齢800年の槙などがあります。山門、愛染堂、三蔵までは入ることができますが、そこから先は一日に数回ある寺側の案内に従ってのみ拝観可能になっていて、境内の写真撮影は禁止です。

時間になるとお寺の関係者の案内で愛染堂から参拝がスタートします。愛染堂拝観後に500円の拝観料を支払い、敷居を超えるといよいよ本堂のある境内の谷戸へと入ります。広さ3万坪という広大な谷戸は建長寺の裏手まで続きます。覚園寺の谷戸は開発が続く鎌倉にあって、数少ない「残された中世」とでもいいたくなる場所です。

この谷戸の中に、足利尊氏が1354年に再建した本堂があります。江戸時代に大改築を受けているとはいえ、尊氏創建当初からの部材も残り、中世からの「繋がり」を濃密に持っている建物です。左右に美しく広がった茅葺き屋根に月日が育んだ色合いをたたえた木の色合いが絶句の迫力です。現代の醜い開発の手が入っていない谷戸にこの建物がある様は、一目で凄みのある「鎌倉の魅力」を感じることができます。

本堂には、運慶による鎌倉後期の作、御本尊の薬師三尊の他、十二神将、伽藍神、鞘阿弥陀などが安置されています。薬師如来の脇を務める日光・月光菩薩様は珍しい坐像であり通常よりも大きい寸法の立派なものです。天井には足利尊氏の自筆といわれる「征夷大将軍正二位源朝臣尊氏謹書」の銘があります。

戦時中、軍部はこの尊氏の銘を外すよう覚園寺に命令しましたが、覚園寺はこれを拒否し国賊の寺と呼ばれ非難を受けたという逸話が残っています。本堂を含め谷全体を、中世の雰囲気を残したまま700年後のいままに伝えることは簡単ではなかったのだと感心させられます。

薬師三尊の右側にある鞘阿弥陀は護良親王墓の前にある理智光寺の本尊だったものです。力強いお顔をされている覚園寺御本尊と対をなすように優しいお顔をしています。作家の川端康成はこの顔に惚れて覚園寺に通ったそうです。

千躯堂は、小さく彫られたお地蔵様を自宅などに持って行かれた方がその御利益を感謝して覚園寺に戻したお地蔵様が約700体安置されています。

本堂の近くには旧内海家住宅があります。鎌倉市の手広にあった1706年に建てられた江戸時代の名主、内海家の住宅を移築したものです。この建物の中では今度は江戸時代にタイムスリップできます。

拝観料500円を払って敷居をまたいだ瞬間から鎌倉散策の中でも貴重な体験となる覚園寺の凄みが迫ってきます。ぜひ感じてみてください。

『新編鎌倉志』(江戸時代につくられた元祖鎌倉ガイド)の記述

覺園寺(かくをんじ)は、鷲峯山(じゆほうざん)と號す。禪律にて、泉涌寺の末寺也。永仁四年(1296年)に、平貞時(さだとき)の建立也。開山は、心慧和尚、諱は智海、願行の法嗣なり。本尊は、藥師・日光・月光・十二神、何れも宅間法眼が作と云ふ。 按ずるに、『東鑑』『梅松論』『太平記』等に、藥師堂谷(やくしだうがやつ)と有は此の地の事なり。『東鑑』に、建保六年(1218年)七月九日、右京兆義時(よしとき)、大倉郷(おおくらのがう)に一堂を建立し、運慶が造る所ろの藥師の像を安置す。同年十二月二日供養を遂らるとあり。又建長二年(1250年)二月八日、相州時賴(ときより)、大倉(くら)の藥師堂に參らる。又同三年十月七日、藥師堂が谷(やつ)燒亡(しやうまう)、二階堂に及ぶ。南の方宇佐美(うさみ)の判官が荏柄(えから)の家より到るとあり。又『帝王編年記』に、義時建立の藥師堂、大倉の新御堂と號すとあり。然れば當寺建立の前より、藥師堂有しと見(みへ)たり、今七貫百文の御朱印あり。鶴か岡の一の鳥居より、當寺まで、十四町ばかりあり。

梁牌銘
今上皇帝、聖壽無疆、天下元黎、淳風有道、異國降伏昌懇祈之法場、伽藍常住、轉不窮之法輪、人々歸敬三寶、國々歌樂太平、敬白、征夷大將軍正二位源朝臣尊氏謹書、〔左の方にあり〕 征夷將軍、冠蓋一天、武威統於萬邦、榮運及於億載、梵宇固基、至慈尊之出世、法燈無盡、照徧界之重昏、衆僧和合、諸天擁護、敬白、文和三年十二月八日、住持沙門思淳謹誌、〔右の方に有。尊氏自筆を染めるの由、證文あり。此梁牌は修理の時の年號也〕

伽藍の目録
壹幅。嘉元四年(1306年)四月廿一日、開山住持心慧書、下に判あり。

年中行事
壹卷。思淳筆。

地藏堂
額(がく)、大地殿。脇(わき)に永祿十二(1569年)歳已巳。十月二十四日とあり。大地殿の三字は八分字(はふんじ)なり。昔しの額(かく)はふるくなりて、作(つく)り直(なを)したる物なり。傍に芳春院李龍周興新造旃とあり。 地藏を、俗に火燒(ひたき)地藏と云ふ。『鎌倉年中行事』には、黑(くろ)地藏と有て、持氏(もちうし)參詣の事みへたり。相傳ふ、此の地藏、地獄を廻り、罪人の苦(くるし)みを見てたへかね、自ら獄卒(ごくそつ)にかはり火を燒(たき)、罪人の焰(ほのを)をやめらるゝとなり。 是故に、毎年七月十三日の夜、男女參詣す。數度彩色(さいしき)を加へけれども、又一夜の内に本(もと)の如く黑くなるとなん。鶴岡賴印僧正の行状に、至德二年(1385年)三月二十七日、佐々木(ささき)近江守基淸(もときよ)を使(つかひ)として、賴印僧正に仰せ被(ら)れて云、二階堂の地藏菩薩は義堂和尚造進する所(ところ)なり。建長寺の前住椿庭和尚、雖被供養、存する子細あるに因て、重(かさね)て開眼供養の義をのべらるべしとあり。此地藏堂建立の時、奇事多し。『沙石集』に見へたり。『沙石集』には丈六の地藏とあり。鎌倉の濱に有しを、東大寺の願行上人、二階堂へ移すと云り。

弘法護摩堂の跡
山上にあり。

棟立井(むねたてのい)
山上にあり。相ひ傳ふ弘法此井を穿て、閼(あ)伽の水を汲(くむ)と云ふ。鎌倉十井の一つなり。

『新編鎌倉志』(1685年)に掲載された覚園寺図。

『新編鎌倉志』(1685年)に掲載された覚園寺図。

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