鎌足稲荷社

(かまたりいなりじんじゃ)

鎌倉という地名の由来のひとつ

夫れ相模の国鎌倉は、郡の名にして、大織冠鎌子丸(藤原鎌足)の時、霊夢によって、鎌を埋むの地なり。この故に郡の名とす。

エリア浄明寺・十二所
住 所鎌倉市浄明寺3-8(浄妙寺右手の丘)

鎌足稲荷社_01

浄妙寺脇の岡の上にたつ鎌足稲荷社。

鎌倉という名の由来には諸説があります。そのひとつが、645年(大化元年)中大兄皇子(天智天皇)とともに蘇我入鹿を討ち大化の改新を成し遂げた藤原氏の祖、藤原鎌足ゆかりの説です。

藤原鎌足は乳児の時、稲荷大神から鎌を授けられ、常にお護りとして身につけていたそうです。大化の改新を成し遂げた鎌足は、翌646年(大化2年)東国に向かい相模国由比の里(現在の鎌倉市由比ケ浜)に逗留しました。

その夜、神のお告げがあり「あなたに鎌を授けて守護してきたが、入鹿討伐という宿願を成し遂げたいま、授けた鎌を我が地に奉納しなさい」と言われた鎌足は、お告げに従ってこの地に鎌を埋納しました。この逸話から「鎌倉」という地名がついたといわれています。

なお、鎌足が鎌を埋めた地の伝説は2か所あり、ここ浄明寺と大蔵の松ヶ岡です。

関東八か国の総追捕使として鎌倉を支配した鎌足の子孫、染谷時忠は由比ケ浜に屋敷があったとされています。奈良時代、今小路西遺跡(現在の御成小学校)に郡衙があったといわれていますから、御成から由比ケ浜にかけての一帯がこの時代、鎌倉郡における政治の中心であったのでしょう。

藤原鎌足とも繋がる鎌倉は平安中期には平直方の地となり、その後源頼義の武勇に頼った平直方が娘を頼義に嫁がせ、頼義は相模守に任じられたのを機に平直方から鎌倉の屋敷を譲られ、以後、代々源氏ゆかりの地として頼朝の鎌倉入りを待つこととなるのです。

大化の改新により豪族から天皇家に主導権を奪い返した藤原鎌足が鎌を埋めた土地、鎌倉は源頼朝による武家政権誕生の地となり新たな日本のグランドデザイン草創の地となるのです。そしてさらに承久の乱によって天下を併呑していきます。

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