葛西清重

(かさい きよしげ 1161?-1238?)

戦国大名、葛西氏の祖

頼朝挙兵以来の宿老、特に奥州合戦では多大な戦功をあげる

現在の宮城県三陸海岸から岩手県南部にまたがる広大な領土を治めた陸奥国の大身(大規模国人領主)、戦国大名としても知られる葛西氏の祖。初代葛西清重から、豊臣秀吉によって滅ぼされた第17代当主葛西晴信に至る約350年もの間の歴史に不明な点が多いといわれています。

葛西清重は平安時代から室町時代にかけて現在の東京都周辺に勢力を持っていた桓武平氏の一族、豊島氏の当主、豊島清元の三男であり現在の東京都葛飾区、江戸川区、墨田区などを所領としていました。

清重は父豊島清元とともに源頼朝の挙兵に従います。石橋山合戦に敗れ、安房へと逃れ再起した頃から鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』に清重の名が登場してきます。清重は父 豊島清元とともに奥州合戦を戦い抜群の戦功をあげ、奥州合戦の吉書初めがあった2日後の1189年(文治5年)9月22日、頼朝は「陸奥国の御家人は清重を通して事の子細を伝えるように」と命じます。

さらに2日後の9月24日の条には『凡そ清重の勲功殊に抜群の間』と記され、平泉郡内の検非違所の管轄に加え、伊沢、磐井、牡鹿の数か所も拝領しています。陸奥国は守護が設置されていない国でしたから、その役割を清重が果たしたものと思われます。

10月26日の条には、「頼朝は奥州の諸事を沙汰し鎮めるために清重を在国させた」と書かれており、これは清重が奥州惣奉行という立場であったことを意味しています。清重は平泉に拠点を置き職務にあたりました。

翌1190年(文治6年)には留守職(現地の実務官僚)として伊沢家景が任命され、多賀国府(宮城県多賀城市)に赴任しました。奥州惣奉行は鎌倉幕府の正式や役職ではなかったようですが、弓馬の達人であり武名の高い葛西清重と吏僚的な伊沢家景の二人が奥州惣奉行という立場で奥州の仕置を担っていたことは、『吾妻鏡』1195年(建久6年)9月29日の条にみられます。「また、故秀衡入道が後家、今に存生す。殊に憐愍を加うべきの由(特に情けをかけよ)、葛西兵衛尉清重と伊沢左近将監家景に仰せ付けられた。両人は奥州惣奉行たるに依ってなり」。

1219年(承久元年)1月27日、鶴岡八幡宮へと向かう源実朝の右大臣拝賀の行列に、「壱岐守清重」の名がみえることから、この頃までに壱岐守に任じられていることがわかります。ちなみにこの日は、公暁によって源実朝が殺害された日でもあります。

1221年(承久3年)、日本の歴史上最大級の事件といってもいい承久の乱が起こります。5月23日の条には葛西清重の名が登場します。「右京兆(北条義時)、前の大膳大夫入道覚阿(大江広元)、駿河入道行阿(中原季時)、大夫属入道善信(三善康信)、隠岐入道行西(二階堂行村)、壱岐入道(定蓮、葛西清重)、筑後入道(尊念、八田知家)、民部大夫行盛(二階堂行盛)、加藤大夫判官入道覺蓮(加藤景廉)、小山左衛門尉朝政、宇都宮入道蓮生(宇都宮頼綱)、隠岐左衛門入道行阿(二階堂基行)、善隼人入道善清(三善康清)、大井入道(大井実平)、中条右衛門尉家長らの宿老は各々鎌倉に留まり、あるいは祈禱、あるいは軍勢を徴発したという」。

1219年(承久元年)1月27日、源実朝暗殺の日は「壱岐守」、この1221(承久3年)5月23日は「壱岐入道」となっていますから、この2年の間に出家し壱岐入道定連となっていました。その後、1224年(貞応3年)6月に北条義時の急死にともなう、時期執権争いの中、閏7月1日の条に、三浦義村、中条家永、小山朝政結城朝光らとともに北条政子に招かれたことが書かれています。

これが『吾妻鏡』に葛西清重が登場する最後といわれています。没年ははっきりしていませんが、1237年(暦仁元年)、1238年(嘉禎3年)などの諸説があります。

『吾妻鏡』における、葛西清重関連の主な記述

1180年(治承4年)9月3日
「大庭景親は源氏譜代の御家人でありながら、あちこちで頼朝に弓を引いたのは、単に平氏の命令を守っているのみならず、何か別のことを企てているようにもみえる。ただし、大庭景親らの凶徒一味に加わっている者たちは、武蔵、相模の者ばかりであり、その中で三浦・中村は頼朝の側にある。そのため、大庭景親の企みは大したことではあるまいとの評議があった。
そして、小山朝政下河辺行平、豊島清元、葛西清重らに御書を送り、志あるものを誘って参上するように命じた。とりわけ清重には、「源氏に対して忠節をはげんでいる者であるが、江戸と河越の中間におり、動きが取りにくいであろう。早く海路を経てやってくるように」と頼朝より丁重な仰せがあったという。また、綿衣を進上するように、豊島朝経の妻に仰せられた。これは朝経が在京して留守をしていたためである。
今日、頼朝は平北郡から上総広常の元へと出発された。しばらくして辺りが暗くなってきたため、途中の民家に宿泊された。当国に住む長狭常伴は平氏方に心寄せていたため、今夜頼朝の御宿所を襲撃しようとしていた。しかし、案内人であった三浦義澄がこの付近に詳しく、密かに常伴の様子を聞き知ってこれを迎え撃った。両者はしばらく戦い、常伴は討ち取られた。」

1180年(治承4年)9月29日
「頼朝に従う軍勢は、既に2万7千騎である。甲斐国の源氏と常陸・下野・上野などの国の者達が参じればおそらく5万騎に及ぶであろう。しかし、江戸重長は、大庭景親に味方し、いまになっても来ないので試しに昨日御書を遣わされたが、やはり追討するのがよかろうと評議になった。頼朝は中四郎惟重を葛西清重の元に遣わし、大井の要害をみようと偽って重長を誘い出し討ち取るよう命じた。江戸と葛西は一族であるが、清重は二心のない者なので、このように命じたという。
また、佐奈田余一義忠の母に特別な使いを遣わした。義忠が石橋山合戦においてその命を頼朝の捧げた事に対して特に感じ入られたためであった。義忠の幼い息子らは亡き父、義忠の所領にあった。しかるに、大庭景親以下、相模・伊豆の凶徒等は、源氏に仇なすあまり、幼い子息たちを殺害するであろうと疑い、身の安全を守るため、早くいま頼朝のいる御在所に送り届けるように命じられたという。
今日、小松少将 平維盛が関東に向けて出陣した。薩摩守 平忠度、三河守 平知度らがこれに従ったという。これは石橋山合戦について大庭景親が送った8月28日の飛脚が9月2日に入洛し、沙汰があったものであったという。」

1180年(治承4年)10月2日
源頼朝千葉常胤上総広常らと船に乗り、大井・隅田の両川を渡った。精兵は3万騎に及び、武蔵国に赴いた。豊島清元、葛西清重らが真っ先に参上してきた。また足立遠元は命を受けてお迎えに参向したという。
今日、頼朝の乳母である八田宗綱の息女(小山政光の元妻、寒川尼と号す)、慈愛の子息を連れて隅田宿に参向した。頼朝はすぐ御前に召し昔の事を語り合った。寒川尼はその子息を、頼朝の側近として仕えさせたいと望んだ。頼朝はその子息を召し出し、自ら元服させ自身の烏帽子を取り授けた。この子息は小山宗朝(後 朝光)と号し、この時14歳だった。

1181年(治承5年)4月7日
源頼朝は御家人等の中で、特に弓矢に優れ、また隔心なき者(信頼できる者)を選び、毎夜御寝所の近辺を警固するよう定められた。
北条義時下河辺行平結城朝光、和田義茂、梶原景季、宇佐美実政、榛谷重朝、葛西清重、三浦義連、千葉胤正、八田知重

1184年(元暦元年)8月8日
源範頼が平家追討使として西海に赴いた。午の刻(11:00-13:00)鎌倉を出発した。旗差(旗はこれを巻く)一人、弓袋一人が並んで前を行った。ついで範頼(紺村濃の直垂を着て、小具足をつけ、栗毛の馬に乗る)、後ろには一千騎が騎龍蹄を並べ、従った。それは次の者達である。北条義時足利義兼、武田有義、千葉常胤、境常秀、三浦義澄、その子息義村八田知家、八田朝重、葛西清重、長沼宗政、結城朝光、比企朝宗、比企能員、阿曽沼広綱、和田義盛、和田宗実、和田義胤、大多和義成、安西景益、安西明景、大河戸広行、大河戸三郎、大河戸家長、工藤祐経、工藤祐茂、天野遠景、小野寺道綱、一品房昌寛、土佐房昌俊。源頼朝は御桟敷を稲瀬川の川辺に構え、これを見物されたという。

1185年(文治元年)3月11日
源頼朝源範頼に御返報を遣わされた。湛増渡海は事実でないと記された。また「関東より差し遣わされた御家人等を皆ことごとく大切にされたい。とりわけ千葉常胤は老骨を顧みず、長い旅泊に耐え忍んでおり特に神妙である。他の輩よりも抜きん出て褒め称えなければならない。およそ常胤の大功は生涯をもっても報謝を尽くしきれないものである。また、北条義時並びに小山朝政、小山宗政、藤原親能、葛西清重、加藤景廉、工藤祐経、宇佐美祐茂、天野遠景、新田忠常、比企朝宗、比企能員、以上十二人には慇懃な御書を遣わされた。各々西海に在って特に大功をあげていたからである。心ひとつにして豊後国に渡ったことは神妙の趣あり、とても満足するところである。伊豆・駿河等の国の御家人は、この旨を承知するように」と記されていた。

1188年(文治4年)7月10日
若公(万寿公、7歳)、初めて御甲を着用された。南面においてその儀式があった。時刻になり二品(源頼朝)が出御した。江間殿(北条義時)が進んで御簾を上げた。ついで若公が出御した。武蔵守・平賀義信(乳母夫)、比企能員(乳母兄)がこれを助け申し上げた。小山兵衛尉朝政が青地錦の御甲直垂を持参して、以前の御装束を改めた。朝政が御腰を結び申し上げた。ついで、千葉介常胤が御甲と納櫃を持参した。子息の千葉胤正・相馬師常がこれを担いで前を行き、胤頼が助けて後ろに従った。常胤が御甲を持ち、南を向いて立たれた。この間、梶原左衛門尉景季が御刀を進め、三浦十郎義連が御剣を進め、下河辺行平が御弓を持参し、佐々木三郎盛綱が御征矢を献じた。八田右衛門尉知忠が黒毛で鞍を置いた御馬を献じ、子息の朝重がこれを引いた。
三浦介義澄、畠山次郎重忠、和田太郎義盛等が頼家を助けて乗せ申し上げた。小山七郎朝光、葛西三郎清重が馬の轡をとった。小笠原弥太郎長経、千葉五郎胤通、比企弥四郎時員らが御馬の左右に従った。三度南庭を打ちめぐり馬をおりられた。今度は足立右馬允遠元が抱き奉った。
ついで頼家が甲などを脱ぎ、堀親家が御物具、御馬を受け取り、御厩の納殿等に入れた。その後、武州(平賀義信)が御馬を頼朝に献じ、里見冠者義成がこれを引いた。ついで西侍において酒宴があった。頼朝は寝殿の西面(母屋の御簾をあげた)に出御された。武州(平賀義信)が整え営んだ。初献の御酌は小山朝光、二献は三浦義村、三献は葛西清重であった。頼朝が入御(じゅぎょ=天皇や貴人がおはいりになること)された後、武州(平賀義信)が酒肴ならびに生絹の衣一領、同じく小袖五領を御台所に差し上げた。若公の御吉事をお祝い申し上げるためである。

1189年(文治5年)7月17日
奥州に下向することについて、終日評議が行われた。「軍勢を三手に分けることとする。すなわち、東海道の大将軍は千葉介常胤と八田右衛門尉知家。各々一族並びに常陸、下総両国の勇士等を引き連れ、宇多・行方(うだ・なめかた)を経て岩城・岩崎をめぐり逢隈河(あぶくまがわ)の湊を渡り、そこで大手軍と合流すること。北陸道の大将軍は比企藤四郎能員と宇佐美平次実政。下道(しもつみち)を経て上野国高山・小林・大胡・佐貫等の住人を動員し、越後国より出羽国の念種関(ねずがせき)に出て合戦を遂げよ。二品(源頼朝)は大手軍として中路より御下向される。その先陣は畠山次郎重忠たるべき」。
ついで、「合戦の謀について誉ある輩が少ないため、定めて勲功を得づらいであろう。そこで、軍勢をつけるように定められた。武蔵・上野両国の党の者等は加藤次景廉、葛西三郎清重の指揮に従い合戦を遂げるように」と、和田義盛、梶原景時を通じてよく命じられた。ついで「御留守のことは、大夫属(たゆうのさかん)入道(三好康信)に仰せ付けた。隼人佐(三好康清)、藤判官代(藤原邦通)、佐々木次郎(経高)、大庭平太(景能)、義勝房(成尋)以下の者達は待機するように」ということであった。

1189年(文治5年)9月22日
陸奥国の御家人の事については葛西三郎清重が奉行すること。参仕の輩(幕府に使える者たち)は、清重を通して子細を申し上げるようにと仰せ付けらた。

1189年(文治5年)9月24日
「平泉郡内の検非違所を管轄すること」と葛西三郎清重に御下文を賜った。郡内において諸人の濫行を停止し、罪科を糾弾すべきとのことだった。およそ葛西三郎清重のこの度の勲功は殊に抜群であるため、これ等の重職を奉るのみならず、伊沢、磐井、牡鹿等の郡以下、数か所を拝領した。

1189年(文治5年)10月26日
奥州から鎌倉へと御帰還のところ、葛西三郎清重の母が病であると聞かれた頼朝は、御使を葛西の住所に遣わしこれを見舞わせた。使者は今日鎌倉に参着し、病は危急のことではないとのことだった。清重は別の命により奥州の諸事を沙汰し鎮めるために在国させたという。

1189年(文治5年)11月8日
因幡前司(中原)廣元が使節として上洛した。諸人は餞別を送らぬものはなかったという。二品(源頼朝)は龍蹄(優れた馬)百余頭、鞍馬十頭を贈った。これは京都において人々に贈るためだった。また綿千両を仙洞(後白河法皇)に献上した。これは駿河国富士郡の年貢であった。葛西三郎清重は奥州の仕置を仰せ付けられるにより、頼朝の帰還には御供をせず陸奥国に留まった。
そこで今日諸々仰せ付けられた。まず陸奥国中が今年は天候不順の憂いがあるうえ、頼朝が多勢を率いて数日間逗留したため、民はほとんど安堵することができなかったことをお聞きになったため、平泉の辺りは特に沙汰をめぐらせて窮民を救うべしと。
岩井、伊沢、柄差の以上三郡は山北の方から農料を遣わすように。和賀・稗貫両郡の分は、秋田郡より種子等を下し行うように。近日にも沙汰あるべきところだが、深雪の憂いがあるだろうから、明くる春、3月中にも施行するべし。かつこの事はあらかじめ住民等に知らせるべし。
ついで故 佐竹太郎義政の子息と称し、藤原泰衡に味方した者があり、合戦に敗北し逐電してしまった。道中の宿々を守り彼らを搦め捕えながら進むべし。ついで泰衡の幼い子息の所在がわからないので、これを探索すべし。その子息の名は若公(万寿、後の頼家)と同じ名前であるから名を改めさせるように。ついで大田冠者師衡が鴾毛の馬を失ない、しきりにこれを訴えていたので、探索して進上するよう奥州滞在時に葛西三郎清重に命じておいたところ、すでに探索して進上してきた事は神妙である。
ついで所領の内に市を立てた事については感心された。およそ国中が静かに治まったことをお聞きになり神妙なりと感心された。ついで葛西三郎清重の老母の病については、今のところ大事ないので、その事のために帰国することなく、奥州の国中をよく警護するよう命じられた。

1219年(承久元年)1月27日
晴れ。夜になり雪が降る。積もること二尺余り。
今日、将軍家(源実朝)右大臣拝賀の為、鶴岡八幡宮に御参り。酉の刻に出発された。
行列
まず居飼四人(二列、退紅(たいこう=退紅色に染めた粗製の狩衣)、手下を縫い越す)
ついで舎人四人(二列、柳の上下、平礼)
ついで一員(二列)
将曹菅野景盛、府生狛盛光、将監中原成能(以上束帯)
ついで殿上人(二列)
一条侍従能氏、藤兵衛佐(藤原)頼経
伊予少将(一条)実雅、右馬権頭(源)頼茂朝臣
中宮権亮(一条)信能朝臣(子随臣は四人)、一条大夫頼氏
一条少将能継、前因幡守(源)師憲朝臣
伊賀少将(藤原)隆経朝臣、文章博士(源)仲章朝臣
ついで前駆笠持
ついで前駆(二列)
藤勾当(藤原)頼隆、平勾当時盛
前駿河守(中原)季時、左近大夫(源)朝親
相模権守経定、蔵人大夫(橘)以邦
右馬助(藤原)行光、蔵人大夫邦忠
右衛門大夫(長井)時広、前伯耆守親時
前武蔵守(足利)義氏、相模守(北条)時房
蔵人大夫重綱、左馬権助(藤原)範俊
右馬権助(藤原)宗保、蔵人大夫有俊
前筑後守(源)頼時、武蔵守(大江)親広
修理権大夫(大内)惟義朝臣、右京権大夫(北条)義時朝臣
ついで官人
秦兼峯、番長下毛野敦秀(各々、白狩袴、青の一腫巾、狩胡箙)
ついで御車(実朝の牛車、檳榔(びろう)車)、車副四人(平礼、白張)、牛童一人
ついで随兵(二列)
小笠原次郎長清(甲(よろい)は小桜威(こざくらおどし))、武田五郎信光(甲は黒糸威)
伊豆左衛門尉(若槻)頼定(甲は萌黄威)、隠岐左衛門尉(二階堂)基行(甲は紅威)
大須賀太郎道信(甲は藤威)、式部大夫(北条)泰時(甲は小桜)
秋田城介(安達)景盛(甲は黒糸威)、三浦小太郎朝村(甲は萌黄)
河越次郎重時(甲は紅)、萩野次郎景員(甲は藤威)
各々冑持ち一人、張替持一人が傍らを先に進んだ。ただし景盛は張替(弓)を持たせなかった。
ついで雑色二十人(皆、平礼)
ついで検非違使
大夫判官(加藤)景廉(束帯に平塵蒔太刀。舎人一人、郎等四人、調度懸・小舎人童を各々一人。看督長二人、火長二人、雑色六人、放免五人)
ついで御調度懸
佐々木五郎左衛門尉義清
ついで下臈の御随身
秦公氏、同兼村
播磨貞文、中臣近任
下毛野敦光、同敦氏
ついで公卿
新大納言(坊門)忠信(前駆五人)、左衛門督(藤原)実氏(子随身四人)
宰相中将(藤原)国道(子随身四人)、八条三位(平)光盛
刑部卿三位宗長(各々車に乗った)
ついで
左衛門大夫(加藤)光員、隠岐守(二階堂)行村
民部大夫(阿曽沼)広綱、壱岐守(葛西)清重
関左衛門政綱、布施左衛門尉康定
小野寺左衛門尉秀道、伊賀左衛門尉光季
天野左衛門尉政景、武藤左衛門尉頼茂
伊東左衛門尉祐時、足立左衛門尉元春
市河左衛門尉祐光、宇佐美左衛門尉祐政
後藤左衛門尉基綱、宗左衛門尉孝親
中条右衛門尉家長、佐貫右衛門尉廣綱
伊達右衛門尉為家、江右衛門尉範親
紀右衛門尉實平、源四郎右衛門尉季氏
塩谷兵衛尉朝業、宮内兵衛尉公氏
若狭兵衛尉忠季、綱嶋兵衛尉俊久
東兵衛尉重胤、土屋兵衛尉宗長
堺兵衛尉常秀、狩野七郎光廣(右馬允に任ずる除書が後日到着すと)
道中の随兵は一千騎であった。
実朝が鶴岡八幡宮寺の楼門に入った時、右京兆(北条義時)は心神に異常をきたし、御剣を仲章朝臣に譲って退出した。神宮寺(現 鶴岡八幡宮)において正気に戻った後、小町の御邸宅に帰られた。夜に及び親拝の儀が終わる。しばらくして実朝が退出されたところ、鶴岡八幡宮寺別当の阿闍梨公暁が石段の際にて様子を伺い、剣をとって丞相(源実朝)を殺害した。
その後、随兵等は宮中に馳せ参じたが(武田五郎信光が先に進んだ)、仇敵である公暁は見当たらなかった。ある人のいわく、上宮の砌(みぎり)において、別当阿闍梨公暁が父(源頼家)の敵を討ったと名乗りを上げたと。これについて各々公暁の雪ノ下の本坊を襲った。
彼の門弟の悪僧等が本坊に籠って合戦となり、長尾新六定景と子息太郎景茂、同次郎胤景等が先陣を争ったという。勇士が戦場に赴くやり方であり、人々は美談とした。遂に悪僧は敗北した。阿闍梨はここにはおらず、軍票は空しく退散した。諸人は呆然とする他なかった。その時阿闍梨は実朝の御首を持ち、後見である備中阿闍梨の雪ノ下北谷の邸宅に向かわれ、膳を食む間も御首を手放さなかったという。使者として弥源太兵衛尉(阿闍梨の乳母子)を三浦義村に遣わされ「今、将軍はなくなられた。我こそ関東の長である。早く取り計らうようにといった」。これは義村の子息駒若丸が門弟に連なっているため、その縁を頼まれたのであろう。義村はこの事を聞いて、先君実朝の恩を忘れていなかったため、涙を流し言葉に詰まったという。しばらくして、まずは拙宅にご光臨ください。まずはお迎えの兵士を差し向かわせましょうと申し上げた。
使者が立ち去った後、義村は使者を発し、件の趣を右京兆(北条義時)に告げた。右京兆(北条義時)は躊躇なく阿闍梨(公暁)を誅し奉るべきと命じ、一族等を招き集めて評定を行った。「阿闍梨(公暁)はいまだ武勇に優れ、並みの人ではない。やすやすと討つことはできず、難儀である」。各々が議論している所、義村は勇敢な者を選んで長尾新六定景を討手に指名した。定景(雪ノ下の合戦の後、義村の邸宅に向かった)は辞退することができず、座を立つと黒皮威の甲を着て、雑賀次郎(西国の住人で強力の者なり)。五人の郎党を率いて阿闍梨の在所である備中阿闍梨の邸宅に赴いた時、阿闍梨は義村の使いが遅いため、鶴岡(鶴岡八幡宮寺)後面の峯を登り、義村の邸宅に向かっていた。
途中、定景と遭遇し雑賀次郎がすぐに阿闍梨(公暁)を抱き、互いに雌雄を争っているところ、定景は太刀をとり、阿闍梨(素絹の衣・腹巻を着ており、年齢は二十歳だった)の首をとった。
公暁は金吾将軍(源頼家)の御息(子息)で母は賀茂六郎重長の娘(源為朝の孫娘)。公胤僧上の弟子となり、貞暁僧都の受法の弟子であった。定景が阿闍梨の首を持ち帰ると、すぐに三浦義村は右京兆(北条義時)の邸宅に持参した。亭主(義時)は出てその首をみられ、安東次郎忠家が指燭(しそく=携帯用の灯明)を持った。李部(北条泰時)がいった。まだ正しく未だ阿闍梨の顔を見たことがないため疑いありと。
そもそも、今日の不祥事についてはかねて異変を示すこと少なくなかった。御出立の時に及び、前の大膳大夫入道(大江広元)が参って申していわく、覚阿(大江広元)成人してより未だ涙を浮かべたことはなかった。しかるに今、お側におりますと涙が落ちることを禁じ得ない。これはただ事ではない。きっと子細があるはずだ。東大寺供養の日、右大将軍(源頼朝)が御出の先例にならい、御束帯の下に腹巻をつけるべきと。仲章朝臣が申していわく、大臣大将に昇る人はいまだそのようにしたことはありません。そこでこれをやめられ、また、公氏が御鬢に使えていたころ、自ら御鬢一筋を抜き、記念と称してこれを賜った。ついで庭の梅を見て、禁忌の和歌を詠まれた。
出でいなば主なき宿と成ぬとも軒端の梅よ春をわするな
ついで南門を御出の時、不思議な鳩がしきりに鳴いた。車より下りる時、剣を突き折られたという。また今夜のうちに阿闍梨(公暁)の一味を糾弾すべきと二位家(北条政子)が命じた。信濃国の住人、中野太郎助能、少輔阿闍梨勝圓を生け捕り、右京兆(北条義時)の邸宅に連行した。勝圓は阿闍梨(公暁)の受法の師であったという。

1221年(承久3年)5月23日
右京兆(北条義時)、前の大膳大夫入道覚阿(大江広元)、駿河入道行阿(中原季時)、大夫属入道善信(三善康信)、隠岐入道行西(二階堂行村)、壱岐入道(定蓮、葛西清重)、筑後入道(尊念、八田知家)、民部大夫行盛(二階堂行盛)、加藤大夫判官入道覺蓮(加藤景廉)、小山左衛門尉朝政、宇都宮入道蓮生(宇都宮頼綱)、隠岐左衛門入道行阿(二階堂基行)、善隼人入道善清(三善康清)、大井入道(大井実平)、中条右衛門尉家長らの宿老は各々鎌倉に留まり、あるいは祈禱、あるいは軍勢を徴発したという。

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