加藤景廉

(かとう かげかど 1156?-1221)

源頼義以来、源氏累代の家人
源頼朝挙兵最初の戦い、山木合戦において山木兼隆を討ち取る

山木兼隆を討ち取った源頼朝の側近

加藤景廉は源頼朝の挙兵以来の御家人として活躍し、頼朝の厚い信任を受けました。源頼朝から遡ること4代前の河内源氏の棟梁、源頼義に祖父藤原景道が仕えて以来の累代の家系でもあります。この藤原景道が加賀介となり、加賀の藤原を「加藤」と略したことから加藤氏が始まったといわれています。

景廉は元々伊勢国を本拠としていたといわれていますが、平氏と争い、父 景員とともに伊豆国に下り土着していきます。1170年(嘉応2年)、保元の乱に敗れた源為朝が配流先の伊豆諸島において持ち前の武勇を発揮して勢力を伸ばしたために派遣された討伐軍に加わっています。

1180年(治承4年)源頼朝が平氏打倒の兵を挙げると麾下に馳せ参じ、挙兵最初の戦いである山木合戦では敵の大将である伊豆国目代山木兼隆を討ち取るという歴史に残る大功をあげています。

源頼朝が石橋山の戦いに敗れると兄 光員と甲斐国に落ち延び、武田氏と合流して駿河に侵攻します。頼朝が鎌倉に入ると再び頼朝のもとへと参じて側近として仕えます。1182年(寿永元年)6月7日由比ヶ浜で行われた弓馬披露の宴席において気を失い運びだされたが、翌日に源頼朝自ら車大路(由比ヶ浜の近くを東西に走る道路)にある景廉の屋敷を見舞っています。

治承・寿永の乱を通じて活躍し、平氏追討、奥州合戦にも功をあげます。1193年(建久4年)11月、頼朝の名を受けて安田義資を誅殺し、翌12月、義資の父 義定の所領である遠江国浅羽庄の地頭に任じられます。

1199年(建久10年)源頼朝が死去すると翌1200年(正治2年)景廉と親しかった梶原景時が滅ぼされます。この時に失職しますが、その後の内戦を幕府方として戦い、挙兵以来の宿老として幕政の中枢に戻りますが、1219年(建保7年)源実朝暗殺の際に警備を行っていた責任を感じ、出家、覚仏と名乗りました。

承久の乱において幕府方が朝廷を圧倒した1221年(承久3年)の8月に没します。享年65歳。鎌倉幕府の最高権力者、第2代執権北条義時が時の上皇から追討の院宣を受けながら、後鳥羽上皇及び朝廷軍を完膚なきまでに叩き潰すという、武家社会の成立にとって歴史的な出来事を見た2か月後に、挙兵以来の宿老加藤景廉は亡くなりました。

加藤景廉の子孫には豊臣秀吉の賤ヶ岳の七本槍の一人、加藤嘉明、時代劇の主人公として有名な江戸町奉行“遠山の金さん”こと、遠山景元がいます。

『吾妻鏡』にみる加藤景廉

鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』の記述をいくつかひろってみます。

1180年(治承4年)8月17日「頼朝挙兵、山木兼隆館襲撃、加藤景廉が討ち取る」
快晴。三島社の神事があった。安達盛長が奉弊の使者を務めまもなく帰参した。未の刻(13:00-15:00)に佐々木定綱、経高、盛綱、高綱の四兄弟が到着した。定綱と経高は疲れた馬に乗り、盛綱と高綱は徒歩であった。源頼朝は様子をみて感涙し、「汝らが遅れたために今朝の合戦をすることができなかった。この遺恨は大きい」と仰った。洪水のためにやむなく遅れたことを定綱らが謝罪した。
戌の刻(19:00-21:00)、安達盛長に使える童が釜殿において雑色の男を生け捕りにした。この男は最近北条館の下女を嫁としており、夜な夜な通っていた。今夜は、武士たちが集まっており、それをみて気がついてしまうだろうと考え、男を捕らえさせたものだった。
頼朝は「明日を待ってはいけない。早く山木に向かい雌雄を決せよ。この戦いによって生涯の吉凶を決めるのだ」と仰った。また、合戦の際にはまず火を放つように命じた。特にその煙を御覧になりたかったためという。武士たちはすでに奮い立っていた。北条時政が申し上げた。「今日は三島社の神事があり、道は人であふれているでしょう。牛鍬大路を経由すると往来の人々に咎められるでしょうから、蛭嶋通りを行くのがよいでしょう」。頼朝は答えた「思う所はその通りだ。しかし、大事を始めるのに裏道を使うことはできない。それに蛭嶋通りでは騎馬で行くことができない。だから大道を使いなさい」。また、住吉昌長を軍勢に付き従わせた。これは船上で祈禱をさせるためである。佐々木盛綱と加藤景廉は留守を守るように命じられ、頼朝の近くに残った。
その後、頼朝の軍勢は棘木(ばらき)を北に行き肥田原に到着し、北条時政は馬を止めて定綱にいった「兼隆の後見、堤信遠が山木の北におり、優れた勇士である。兼隆と同じく誅しておかなければ後々の煩いとなろう。佐々木兄弟は信遠を襲撃するように。案内をつけよう」。定綱らは子の刻(23:00-25:00)には、牛鋤大路を東に行き信遠邸宅の近くに集まった。定綱、高綱は、案内についた時政の雑色、源藤太を連れて信遠邸宅の背後にまわった。経高は前庭へと進み矢を放った。これが平氏討伐の源氏の最初の一矢となった。その時、月は明るく光り、(深夜にもかかわらず)昼間と変わらない程であった。信遠も太刀を取り、北東に向かって戦い、信遠、経高どちらの武勇も際立っていた。経高に矢があたったが、定綱、高綱が邸宅の背後から加わり信遠を討ち取った。時政らの手勢は兼隆館前の天満坂辺りまで進み、矢を放った。兼隆の郎従の多くは三島社の神事参詣にでかけて、黄瀬川宿に留まり遊んでおり留守だった。兼隆の館に残ったわずかな手勢は死を恐れず時政らに戦いを挑んだ。この間に定綱ら佐々木兄弟は信遠を討ち取り、時政の軍勢に加わった。
頼朝は、軍勢を送り出した後、館の縁側に出て合戦のことを思っていた。また、火を放った煙を確認させるため、御廐(みうまや)の舎人、江太新平次を木に登らせたが、しばらく煙をみることができなかったため、警護にあたっていた加藤景廉、佐々木盛綱、堀親家らを呼び、「すぐに山木に赴き、合戦に加わるように」と命じた。手ずから長刀をとって加藤景廉に与え、山木兼隆の首を討って持ち帰るようよくよく命じた。そこで三人は馬にも乗らずに蛭嶋通りの堤を走った。佐々木盛綱と加藤景廉は厳命通りその館に討ち入り、山木兼隆の首をとった。兼隆の郎従たちも討ち死にした。屋敷に火を放ちすべて燃えた頃には朝になっていた。帰ってきた武士たちは頼朝の館の庭に集まり、頼朝は縁で山木兼隆主従の首を御覧になった。

1180年(治承4年)8月20日「源頼朝挙兵、相模へ出発」
三浦義明の一族をはじめ、源頼朝の挙兵に同意する意志を示している武士たちが遅参しています。海路を隔てて風波を凌ぎ、あるいは遠路苦労しているからであろう。頼朝はまず伊豆・相模両国の御家人だけを率いて伊豆国を出発、相模国土肥郷に向けて出発した。付き従ったのは以下の武士である。
北条時政、北条宗時、北条義時、北条時定、安達盛長、工藤茂光、工藤親光、宇佐美助茂、土肥実平、土肥遠平、土屋宗遠、土屋義清、土屋忠光、岡崎義実、岡崎義忠(佐奈田与一義忠)、佐々木定綱、佐々木経高、佐々木盛綱、佐々木高綱、天野遠景、天野政景、宇佐美政光、宇佐美実政、大庭景義、豊田景俊、新田忠常、加藤景員、加藤光員、加藤景廉、堀親家、堀助政、天野光家、中村景平、中村盛平、鮫島宗家、七郎宣親、大見家秀、近藤国平、平佐古為重、那古谷頼時、沢宗家、義勝房成尋、中惟重、中八惟平、新藤俊長、小中太光家
彼らは皆、頼朝が頼りとする武士たちであり、それぞれ命を受ければ家も親も忘れて戦う覚悟という。

1180年(治承4年)8月24日「石橋山の合戦」
源頼朝は椙(すぎ)山の内の堀口辺りに陣を構えた。大庭景親は三千騎を率いて襲いかかってきた。頼朝は後方の峰に逃げた。この間、加藤景廉、大見実政が景親の軍勢を防いだ。しかし、加藤景廉の父 景員、大見実政の兄 政光はおのおの子を思い弟を憐れみ、前進せず矢を放った。他にも加藤光員、佐々木高綱、天野遠景・光家、堀親家・助政らが同じく轡(くつわ)を並べ戦った。景員以下の馬、多くは矢にあたり倒れて死んだ。
頼朝は馬を廻し、百発百中の矢を放ち多くの敵を射殺した。矢が尽き、加藤景廉が頼朝の馬の轡(くつわ)をとり、山の深い所へ引き申したところ、景親の軍勢が4、5段の距離に近づいてきた。佐々木高綱、天野遠景、加藤景廉らは幾度か戻りながら矢を放った。北条父子三人(時政、宗時、義時)は景親と戦い疲労困憊、山の峯に登ることができず、頼朝に付き従うことができなかった。そこで加藤景員・光員・景廉、工藤祐茂、堀親家、大見実政らは、北条父子に助力をすると申し出たが、時政は「それはいけない、早く頼朝のもとに戻るように」と命じた。彼らは、数町の険しい山道をよじ登り奔走したところ、頼朝は倒木の木の上にお立ちになり、土肥実平がその傍らに控えていた。
景員らが参上すると頼朝はこれを喜んだ。土肥実平は「おのおの無事参上したことは喜ばしいことだが、この人数を率いて山に隠れることは難しい。頼朝の御身だけはたとえ幾月かかろうともいえども、実平が計略をもって隠し通します」といった。それでも景員らは頼朝の側にお供したいと申し上げると、頼朝もまたそれを許す気配であった。土肥実平は重ねていった。「いまの別れは後の大幸となろう。命ながらえて計略を巡らさば会稽の恥を雪(すす)ぐことができるでしょう」。これを聞いて皆は分散することになった。悲しみは涙となり目を遮り、行くべき道が見えぬほどであった。
その後、飯田家義が頼朝の跡を追い参上し、頼朝の御念珠を持参した。これは今朝の合戦の時に路頭に落としたものである。常日頃お持ちになっていたものであり、狩倉(狩場)の辺りにて相模国の武士の多くが拝見していたものであった。見当たらずにあわてていたところ、家義が探しだしたため、頼朝の感謝は再三に及んだ。家義は頼朝のお供をしたいと申し上げたが、実平は先のごとく諌めたため泣く泣く退去した。
北条時政・義時は箱根湯坂を経て甲斐国に向かおうとしていた。北条宗時は早河の辺りにおいて伊東祐親法師の軍勢に囲まれ、小平井の名主紀六久重により討ち取られた。工藤茂光は歩行困難となったため自害したという。頼朝の陣と彼らの戦場が山谷を隔てていたためどうすることもできず、悲しみは大変深かった。
大庭景親は頼朝の跡を追って、峯や谷を探していた。この時、梶原景時という者がおり、頼朝の居場所を知っていたが情けをかけるところがあり、この山に人の跡はないと偽りの報告をし、景親の軍勢を違う峯に向かわせた。この時、頼朝は髻(もとどり)の中の正観音像を取り出し、ある巌窟に安置した。土肥実平がその真意を伺ったところ、「自分の首が大庭景親等に渡った時、この本尊をみて源氏大将軍のすることではないと人々の嘲りを受けるであろう」と仰った。この正観音像は、頼朝三歳の昔、乳母が清水寺に参籠し頼朝の将来を祈ったものである。その時、27日を経て霊夢のお告げがあり、こつ然として二寸の銀の正観音像を得たものであり、以来帰依し崇敬しているところであった。
夜になり、北条時政が杉山の頼朝陣に到着した。箱根山の別当行実は、弟の僧、永実に御駄齣(だしょう=食事)を持たせて頼朝のもとに遣わした。永実は頼朝に会う前に北条時政に会って頼朝の動向を聞いた。時政がこういった「頼朝は大庭景親の包囲を逃れておりません」。永実はこたえた「あなたは永実の短慮を疑っているのでしょうか。もし頼朝が亡くなっていれば、あなたもまたいきてはいないでしょう」。時政は笑って永実を頼朝ののもとに連れて行き、食事を御前に持参した。皆が餓えているときであったので、値は千金であった。土肥実平は世が落ち着いたならば、永実を箱根山の別当職に任じられるべきでしょうと。頼朝はこれを許諾した。その後、永実を共として密かに箱根山に到着した。行実の宿坊は参詣の群衆がおり、密かに隠れるには向かないということで永実の宅に頼朝をご案内した。
この行実というのは、父良尋の時代に源為義(頼朝の祖父)や源義朝(頼朝の父)らと親交があり、これにより行実は京都で父に譲られ箱根山の別当となり、京都から箱根に向かった時、為義の下文に東国の輩は行実を助けるように、とあり義朝の下文は「駿河・伊豆の家人らは行実が催促したときはこれに従うように」。そして頼朝が北条(伊豆蛭ヶ小島の配所)にいる間、頼朝のために祈禱を行い忠義を尽くしてきた。石橋山合戦敗北の報を聞き、一人愁い嘆いていた。弟達が弟たちは多かったが、武芸の器量がある永実を頼朝のもとに遣わせた。
(頼朝の挙兵に呼応すべく)城を出た三浦一族は丸子河の辺りに来て、昨夜から夜明けを待って参上しようとしてたところ、石橋山合戦における敗北を聞き、思いがないことに急遽引き返した。その途中、由比浦(由比ヶ浜)において畠山重忠と数刻にわたり戦った。多々良重春と郎従石井五郎らが命を落とした。重忠勢は50騎余りが討ち取られ、退去した。三浦義澄らの三浦勢は三浦へ引き返した。この間に上総広常の弟、金田頼次以下70騎が義澄の軍勢に加わった。

1180年(治承4年)8月27日「加藤景廉、父を走湯山に残し兄とも散り散りとなる」
朝小雨が降り、申の刻(15:00-17:00)以後、風雨は強くなった。
辰の刻(7:00-9:00)、89歳の三浦義明は河越重頼、江戸重長らにより討ち取られた。80歳を過ぎて、周囲の助けがなかったためである。三浦義澄らは安房国に赴いた。北条時政・義時・岡崎義実、近藤国平らは土肥郷の岩浦(現 神奈川県足柄下郡真鶴町岩)から船に乗り、安房国を目指した。海上において船を並べ三浦勢と会い、心配事などを話した。この間に、大庭景親は数千騎を率いて三浦勢を攻めようとしたが、義澄らがすでに渡海した後だったため引き返したという。
加藤景員、並びに子の光員・景廉らは、去る24日以後3日間、箱根の深い山中にいた。食料は尽き、疲労困憊となっていた。特に景員は老齢のため歩くこともできずに進退窮まっていた。景員は二人の息子にいった。「自分はすでに老いた。例えこの山をうまく逃れたといっても先は短い。汝らは壮年の身であるから、いたずらに命を捨ててはならない。自分をこの山に捨て置き、頼朝をお尋ね申し上げるように」。光員らは狼狽えた。断腸の思いであったが、父景員を走湯山に送り、ここで景員は出家した。亥の刻(21:00-23:00)となり、伊豆国府の祓土に到着したが、地元住民らに怪しまれ追い立てられたた、め、光員・景廉は散り散りとなり行方はわからなくなった。

1180年(治承4年)8月28日「景廉、兄と再会」
加藤光員・景廉兄弟は、駿河刻大岡牧(現 静岡県沼津市大岡)において再会し、悲しみの涙に襟を濡らした。その後、富士山麓に引き篭もった。一方、頼朝は真鶴岬より乗船し、安房国に赴いていた。土肥実平は土肥の住人、貞垣に小舟を用意させた。ここから土肥遠平を使いとして北条政子に遣わし、状況や憂愁を伝えた。

1182年(寿永元年)6月7日「景廉、酒宴中に気を失う」
頼朝は由比浦に出た。壮士(壮年の武士たち)らは各々、弓馬の芸を御前に披露した。まず牛追者などが行われた。下河辺行平(頼朝の御手合)、榛谷重朝、和田義盛・義茂、佐原(三浦)義連、愛甲季隆が射手となった。次いで股解沓(ももときぐつ/乗馬用の皮の靴)を長さ八尺の串にさし、愛甲季隆を召して射させた。5回これを射て、あたないことがなかった。頼朝が季隆が走った馬の跡と的の距離を計らせたところ、その距離は八杖(杖=60歩または72歩)であった。そこでこの杖数を基準に馬場を定めるよう仰った。
その後、盃酌(杯をやりとりして酒を酌み交わすこと)の儀があり、興宴に時を過ごした。晩になり、加藤景廉が座で気を失った。皆が集まり騒ぎとなった。佐々木盛綱が大幕を持ち、景廉を包み抱えて退去し療養を行った。これによって酒宴はお開きとなった。

1185年(文治元年)1月26日「平氏追討、景廉病身を押して豊後上陸」
臼杵惟隆、緒方惟栄らは源範頼の命を受けて82艘の兵船を献じた。また、周防国の住人、宇那木遠隆が兵糧米を献じた。これにより範頼は船出して豊後国に渡った。同時に渡ったのは以下の面々である。
北条義時、足利義兼、小山朝政、小山宗政、小山朝光、武田有義、藤原親能、千葉常胤、千葉常秀、下河辺行平、下河辺政能、浅沼広綱、三浦義澄、三浦義村、八田知家、八田知重、葛西清重、渋谷重国、渋谷高重、比企朝宗、比企能員、和田義盛、和田宗実、和田義胤、大多和義成、安西景益、安西明景、大河戸広行、大河戸行元、中条家長、加藤景廉、工藤祐経、工藤祐茂、天野遠景、一品房昌寛、土佐房昌俊、小野寺道綱
このうち、千葉常胤は老体をものともせず、風波を凌ぎ進んだ。加藤景廉は病身をおしてこれに従った。下河辺行平は兵糧が尽きて狼狽えたが、甲冑を売って小船を買い取り、皆に先んじて棹さして進んでいった。皆は不審に思い「甲冑を着けずに大将軍の船に乗り戦場にいくつもりか?」と問うた。行平は「自分の命はもとよりこれを惜しまず。しからば甲冑を着けずといえども、自身の意のままとなる船に乗って、一番乗りを成し遂げん」と答えた。そして武将たちも船出した。
範頼いわく「周防国は西は太宰府に接し、東は京に近い。京都と関東と密に連絡をとりあって計略を巡らすようにという、頼朝の兼ねてからの命がある。よって精強な兵に周防を守護させたいと思う。誰を選ぶべきであろうか」。千葉常胤が答えた。「三浦義澄は精兵であり、多勢でもあるから早く仰せ付けられるがよろしいでしょう」と。義澄に伝えたところ、義澄はこういって辞退した。「一番乗りを得ようとしているところ、この地に留まってはいかにして功を立てることができましょうか」。しかし、勇敢な者をだからこそこの地を守るようにとの再三の命に、ついに義澄は周防国に陣を構えることとなった。

1193年(建久4年)11月28日「加藤景廉による安田義資誅殺」
今夕、越後守安田義資が女の問題により梟首された。加藤景廉が頼朝から命じられたものだった。義資の父 安田義定はこの縁坐により処分された。昨日行われた永福寺薬師堂供養の間に、義資が艶書を女房の聴聞所に投げ込んだからだった。その女房が梶原景季の妾の竜樹前に話したことから、夫景季、その父景時に伝わり頼朝の耳に入った。真偽を糾明したところ内容が一致したためこのようになった。三年東家の美女を窺わなければ、どうして白人に梟首される目に遭うことがあっただろうか。

1193年(建久4年)12月5日「加藤景廉、遠江国浅羽庄地頭職補任」
安田義定の所領、遠江国浅羽庄地頭職を没収し、かわりに加藤景廉が補任された。今日御下文を賜った。武藤頼平が奉行したという。

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