光明寺

(こうみょうじ)

関東総本山の格式と何人を受け入れる包容力、浄土宗の魅力溢れるお寺さん

材木座、和賀江嶋に近い光明寺は、湘南地域を代表する大寺院であり、浄土宗筆頭の養成所/学問所としていきいきと活動する専修念仏の根本道場です。民衆を救ってきた浄土宗らしい開放的な雰囲気と伝統格式を併せ持った貴重なお寺さんといえます。

エリア由比ヶ浜・材木座
住 所鎌倉市材木座6-17-19
宗 派浄土宗
本 尊阿弥陀如来
創 建1240年
開 山然阿良忠
開 基北条経時
札 所鎌倉三十三観音第18番
文化財等当麻曼荼羅縁起2巻(国宝)、本土・当麻曼荼羅図・浄土五祖絵伝一巻(重文)
アクセス「鎌倉駅」よりバス「光明寺」下車、徒歩すぐ

鎌倉最大の山門。江戸末期の1847年に建てられたもので、高さ20m、間口16m、奥行7mという大きさ。2階には釈迦三尊、四天王、十六羅漢が祀られています。申請すれば内容次第で拝観可能です(20名以上)。

鎌倉最大の山門。江戸末期の1847年に建てられたもので、高さ20m、間口16m、奥行7mという大きさ。2階には釈迦三尊、四天王、十六羅漢が祀られています。申請すれば内容次第で拝観可能です(20名以上)。

浄土宗の関東大本山という格式

関東大震災でもびくともしなかった鎌倉最大の木造古建築「大殿」、関東一の「山門」を備えた浄土宗大本山という格式を持ちます。開基は幕府第4代執権、北条経時(1224-1246)。経時は第3代執権北条泰時の嫡男、北条時氏の長男であり、墓所は光明寺にあります。開山は浄土宗第3祖の然阿良忠(ねんなりょうちゅう)です。
良忠は伏見天皇より1293年(永仁元年)に記主禅師の諡号(しごう)を贈られた高僧です。1199年(正治元年)石見国(島根県)に生まれた良忠は比叡山に学んだ後、浄土宗の二祖聖光上人の弟子となり、三祖となりました。幕府第4代執権北条経時は良忠に帰依し、この光明寺を創建したといいます。
その後、第5代執権北条時頼など歴代の庇護を受け七堂伽藍の大寺院となり、室町時代には後土御門天皇より「関東大本山」の称号を受け、「勅願所」(国と国民の平和を祈る天皇が指定した祈願所)に指定されます。

さらに江戸時代には浄土宗に帰依していた徳川家康によって関東十八檀林(浄土宗の育成所/学問所)に列せられました。鎌倉~江戸~現在を通じて格式を保っている大寺院であることがわかります。現在も勉学のために集まっているお坊さんをみかけることがあります。
光明寺は幕末の頃においても大伽藍を維持しており、その頃には現在の建物の他に阿弥陀堂、二尊堂、庫裡や大方丈などがあったといいます。

材木座近く、潮風香る開放感

しかし、光明寺に一歩足を踏み入れれば大寺院としての伝統と格式に反して、古くは塀さえなかったと言われている「何人をも受け入れる」というようなオープンな雰囲気を感じることができます。そして、現在でも観光や葬儀のためのお寺ではなく、浄土宗の学問所「専修念佛 根本道場」としての存在感が圧倒的に強くあります。花の見頃にあわせて拝観料が上がるような寺院もありますが、光明寺に拝観料はありません。仏教を学ぶ場所としていきいきとしている、といった感じです。

湘南地域の大きなお寺、北鎌倉の建長寺(臨済宗)、円覚寺(臨済宗)、藤沢の遊行寺(時宗)、そして光明寺(浄土宗)というなかでも、光明寺は格別にオープンな雰囲気です。そしてこの4つの寺院の中でももっとも海(材木座海岸)に近く、爽やかな風が境内を流れています。

浄土宗は民衆を救うために法然上人が1175年(承安5年)に開いた鎌倉仏教の先駆けです。本尊は阿弥陀如来、教典は浄土三部経といわれる「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」です。一心に南無阿弥陀仏と仏の御名を称える専修念仏の宗派です。

光明寺の外観は海の解放感とお寺さん自体の開放的な雰囲気があふれています。すべての人に開かれた浄土宗の懐の深さと相まって、「お寺さんがこちらを受け入れてくれるならば、こちらも心を尽くそう」という素直な気持ちになります。高さ20m、間口16mという巨大な「山門」をくぐったら、「南無阿弥陀仏」の言葉とともに身も心も浄くしてお寺の浄界(聖域)に入るという心構えを持とうと思うのです。

「大殿」鎌倉最大の九間堂

光明寺本堂「大殿」は1698年(元禄11年)に建てられた鎌倉最大の九間堂です。桁行9間、梁間11間の入母屋造。1698年(元禄11年)に幕府の上意のもと、江戸において仏像などを開帳、広く勧請し祈祷堂、鎮守、客殿などとともに建立されました。鎌倉に21件ある国指定重要文化財建造物のひとつです。

総門

1495年(明応4年)に建てられ、寛永年間(1624-1628)に再建されました。市の指定文化財となっています。

記主庭園

古代蓮がみられる蓮池の奥に法然上人800年遠忌に建てられた大聖閣(たいしょうかく)が聳えています。夏になると二千年前(弥生時代)の蓮の実を発芽させた古代蓮が咲き、二千年というあまりの時間と美しさに圧倒されます。

関東最大の山門

鎌倉最大の山門は、江戸末期の1847年(弘化4年)に再建されました。高さ20m、間口16m、奥行き7mという大きさの禅宗様の五間三戸二重門であり、19世紀鎌倉を代表する建築物です。この山門となる以前は鶴岡八幡宮から移築した山門であったといわれています。2階部分には釈迦三尊、四天王、十六羅漢が祀られています。山門に掲げられた額は1436年(永享8年)に後花園天皇より通常は観ることができませんが、申請すれば内容次第で拝観できます(20名以上)。

鐘楼堂と梵鐘

鐘楼堂は山門を入って右手にあり、現在でも朝夕に梵音を響かせています。鐘楼堂は幕末の1847年(弘化四年)に造られた総欅(ケヤキ)瓦葺きの立派な建築であり、鎌倉にある近世に建てられた鐘楼では最も大きなものです。梵鐘は1961年(昭和36年)、法然上人750年遠忌にあたって鋳造され、重量は三百貫あります。

内藤家墓所

本堂「大殿」右手にある材木座幼稚園を抜けたところには、江戸時代の磐城平藩主・日向延岡藩主である内藤家歴代の墓があります。3mを超える大きな宝篋印塔は20以上あり、他にも五輪塔、石仏などあわせて100程あります。磐城平藩主内藤忠興が1659年(万治2年)光明寺を檀那寺とし、200石を寄進したうえ、位牌堂や石塔を江戸の霊巌寺から移しました。ほとんど観光客の訪れない歴史的墓地は圧巻です。

内藤家は、藤原秀郷流の一族とされ、源頼朝に使えた内藤盛家から始まったとされています。丹波国守護代、細川氏に使えた流派、長門国守護代として大内氏に使えた流派、松平氏に使えた三河国の豪族、甲斐国の豪族として武田信玄配下の内藤昌豊を輩出した流派と4つがあり、このうち三河の系統が徳川家康に仕えて江戸時代以降に栄えました。光明寺にあるのはその一族の墓です。また、光明寺の所蔵する国宝「当麻曼荼羅縁起絵巻」は内藤家から寄進されたものです。

内藤家の墓を拝観するには、まず社務所にて記帳し鍵を預かります。鍵は3つついており、一つは幼稚園の入口、二つ目は出口、もう一つは内藤家墓地の門の鍵です。

かつて光明寺は「鎌倉アカデミア」という学校の仮校舎となりました。1946年(昭和21年)に開校した同校は哲学者の三枝博音、作家の高見順、歌人の吉野秀雄らを迎えて、国家の規制にとらわれない自由な教育を目指してつくられた学校です。資金難によりわずか4年で閉校しましたが、鈴木清順、川久保潔、山口瞳、いずみたくなど優れた卒業生を輩出しました。境内、社務所の前あたりに記念碑が建てられています。

光明寺では予約制にて精進料理をいただくことができ、4,000円と5,000円の御膳があるようです。今度ぜひ食べにいって記事をアップしたいと思っています。

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