工藤茂光

(くどう もちみつ/しげみつ ?-1180)

伊豆の雄族、保元の乱以来の源氏家人

藤原南家の流れを汲む伊豆半島最大の勢力を持った名族。牧ノ郷を領し狩野(かのう)茂光ともいいます。狩野氏は古代から武将として活躍し現在でも伊豆地方に残ります。

朝廷が後白河天皇と崇徳上皇の2派にわかれて戦った保元の乱(1156年)では、源為義為朝は上皇側に、源頼朝の父 義朝は天皇側につき、茂光は義朝とともに戦いました。

敗れた上皇側の源為朝は茂光の所領であった伊豆大島に配流となります。身の丈2m超、並み居る武将たちも恐れをなした為朝は、周辺の勢力を瞬く間に従えて反乱の動きをみせます。

朝廷は伊豆大島を所領にしていた茂光に討伐を命じ、茂光は伊東、北条、宇佐美等、伊豆や相模の勢力を従えて為朝を討伐します。

保元の乱に続く平治の乱(1156年)に義朝は敗れ討ち死にします。嫡男であった源頼朝は伊豆蛭ヶ小島に流罪となり20年を超える流人としての日々を過ごすことになります。その間も源氏に忠義を持ち続けた茂光は、1180年(治承4年)源頼朝挙兵に参加します。

1180年(治承4年)7月5日、配流時代に読経した800部の法華経を納め、平氏打倒の加護を仏前に祈願した頼朝は、8月17日三島社の大祭にまぎれ伊豆国目代山木兼隆を襲撃、討ち取ります。

これに先立つ8月6日、源頼朝は特に頼りとする勇士たちを一人ずつ部屋に呼び信頼を伝えます。工藤茂光はこの中に選ばれています。

現在の神奈川県湯河原町に移動した頼朝軍300騎は石橋山において大庭景親率いる平氏勢3000千騎と戦い、敗れます。茂光は頼朝の敗走を助けますが脚を射られ、高齢と巨体もあいまって自身の敗走を断念、敵に首を渡してはならじと子の親光に介錯を命じます。親光が渋ったため孫の田代信綱が介錯を行いました。

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