日蓮

(にちれん 1222-1282)

鎌倉仏教の巨人

海外から侵略を受けた元寇、疫病、飢饉、異常気象などが起こった激動の時代に活躍した日蓮は多くの法難を乗り越えて現在の我々にも大きな影響を与えています。鎌倉を舞台に長年活躍したため、鎌倉には多くの寺院や史跡が残っています。

波木井の御影

波木井の御影

鎌倉仏教の巨人として鎌倉にも多くの史跡がある日蓮は、千葉県鴨川市(安房国長狭郡東条郷片海)の小湊に生まれます。父は貫名次郎重忠。1233年(天福元年)清澄寺に入門、1238年(暦仁元年)出家。比叡山、三井寺、薬師寺、高野山、仁和寺、天王寺、東寺への遊学を経て、1253年(建長5年)清澄寺に帰山。同年4月28日朝、悟りを開き(立教開宗)、翌年より鎌倉において布教を開始します。

1260年(文応元年)7月16日『立正安国論』を前執権の北条時頼に送ります。世に疫病や飢饉、異常気象が続く原因は、幕府が正法である法華経以外の宗教(念仏や禅)を護持しているからであるから、正法を法華経とすべきだという建白でした。同年8月27日、浄土教信者らによって松葉ヶ谷草庵を襲撃、焼き討ちされます。日蓮は難を逃れ下総国中山に避難しました。

化生窟と御硯水。日蓮が鎌倉入りして最初に過ごした場所とされています。安国論寺の門を正面に見て、左手の安国論寺と額田記念病院の間のやや登りの道を少しあるき、駐車場のあたりで左手に入っていきます。

化生窟と御硯水。日蓮が鎌倉入りして最初に過ごした場所とされています。安国論寺の門を正面に見て、左手の安国論寺と額田記念病院の間のやや登りの道を少しあるき、駐車場のあたりで左手に入っていきます。

安国論寺。山門の右手に枝垂桜があります。

安国論寺。山門の右手に枝垂桜があります。

南面窟。松葉ヶ谷法難の際、日蓮上人が身を隠したという洞窟。

南面窟。松葉ヶ谷法難の際、日蓮上人が身を隠したという洞窟。

日蓮上人が立正安国論を著すために籠った岩屋。

日蓮上人が立正安国論を著すために籠った岩屋。

これは松葉ヶ谷法難といわれ、日蓮四大法難(松葉ヶ谷、龍ノ口、伊豆、小松原)のひとつです。『立正安国論』を著した岩窟が安国論寺に残り、一時避難した洞窟も同寺に残ります。白猿に導かれたという逃走路伝説が現在も残る名越切通しにあり、切通しの逗子市久木の出入口にある法性寺は白猿伝説の寺院として信仰を集めています。

鎌倉に戻った日蓮は翌1261年(弘長元年)5月12日、幕府によって伊豆国伊東に流罪となります。これを伊豆法難と呼びます。配流先に向かう海上、役人によって島崎海上の「俎岩(まないたいわ)」に置き去りにされ、弥三郎という漁師に救われます。日蓮は1263年(弘長3年)に赦免されるまでこの地におり、1508年(永正5年)日云(にちうん)によって同地に蓮着寺が開山されました。現在では日蓮宗霊跡別院とした信仰されています。

1264年(文永元年)には小松原法難がおこります。赦免され伊豆から戻った日蓮は母に会うため帰郷しますが、その際に地元安房国小松原(現 千葉県鴨川市)において念仏信者に襲われ、門下数名を失い自身も傷を負います。

7年後の1271年(文永8年)には龍ノ口法難がおこります。7月、極楽寺良観との雨乞い祈祷対決による良観の敗北を指摘し、9月、良観などにより連名で幕府に訴えられ、諸宗批判の罪に問われ佐渡流罪の名目で捕らえられます。

1271年(文永8年)9月13日午前2時頃、幕府に捕らえられた日蓮は龍ノ口刑場の敷皮石(首の座)にすえられ、処刑をまつばかりとなります。すわ処刑という瞬間、江ノ島の方角より光るものが飛び来たり、死刑執行の役人たちは目がくらみ死刑執行ができなくなったと伝わります。この奇跡からこの地は日蓮宗の霊跡、霊場として篤く信奉されるようになります。

龍口寺にある龍ノ口刑場跡。

龍口寺にある龍ノ口刑場跡。

日蓮入滅後の1337年(延元2年)、弟子の日法が一堂を建立。1601年(慶長6年)には日蓮を篤く信奉した島村采女が土地を寄進、現在の龍口寺のような立派な寺院となりました。現在の行政区分では藤沢市となっていますが、「鎌倉」を代表する見所のひとつとです。また、連行される日蓮に対して最後の供養にと桟敷の尼が胡麻のぼたもちを捧げ、こうした信心が龍ノ口の奇跡を起こしたともいわれ、桟敷の尼の住居地には日詔によって常栄寺が建立され、ぼたもち寺と呼ばれ現在でも親しまれています。

龍口寺境内。正面が本堂です。

龍口寺境内。正面が本堂です。

他にも、処刑の際に袈裟が汚れてはいけないと日蓮が袈裟をかけた、日蓮袈裟掛けの松跡や、奇跡を伝える使者と幕府の処刑中止を伝える使者が出会った行合橋、行合川、極楽寺良観との雨乞い対決の舞台となった日蓮雨乞いの池など多くの史跡が残っています。

龍ノ口法難の翌月、1271年10月、日蓮は佐渡流罪となります。3年に渡る佐渡流罪中に日蓮の思想や教学が大きく変化することから、専門家は佐渡以前、以後にわけて日蓮の思想を語ることがあります。佐渡以前に書かれた『立正安国論』と佐渡において書かれた『開目抄』、『勧心本尊抄』を読み比べることも一興です。

1274年(文永11年)春に赦免となった日蓮は幕府に3度目の国家の教典として法華経を建てるよう諫言します。そして、南部実長の招きに応じて身延山に入山。久遠寺を開山します。

1282年(弘安5年)9月8日、病となった日蓮は湯治のため常陸国に向かいます。途中9月18日には武蔵国の池上宗仲邸(現 本行寺)に入り、一堂を開き本門寺を建立します。

10月8日、六老僧といわれる後継者を定めます。六老僧とは日蓮の高弟六人を指します。1282年(弘安5年)10月8日、池上宗仲邸に療養していた日蓮は死を悟り、多くの弟子の中から法華経の法燈を継ぐものを定めました。これが日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持の六人であり、「六老僧」「六上足」「六長老」などといわれます。さらに「中老僧」として十二名が定められました。

10月13日午前8時頃、滞在中の池上宗仲邸にて死去。享年61歳。同地は現在大本山、池上本門寺となっています。死後、1358年(正平13年)に後光厳天皇より日蓮大菩薩、1922年(大正11年)には大正天皇より立正大師の諡号を追贈されました。

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