大江広元屋敷跡

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大江広元屋敷跡

(おおえのひろもとやしきあと)

源頼朝、知謀の懐刀。

文官御家人/政治家として伝説的な活躍をなした大江広元の屋敷跡です。いまでもとても静かな十二所の地にあります。

エリア浄明寺・十二所
住 所鎌倉市十二所
アクセス「鎌倉駅」よりバス「泉水橋」下車、徒歩5分

大江広元屋敷跡。頼朝の片腕として時代を切り開いた政治家です。

大江広元屋敷跡。頼朝の片腕として時代を切り開いた政治家です。

浄明寺から十二所周辺は現在でもとても静かな場所です。頼朝時代には梶原景時大江広元上総介広常などの有力者が屋敷を構えていました。足利家の屋敷も代々このあたりにあり、浄妙寺は足利家の菩提寺です。室町時代になると足利公方も屋敷を構え泉水橋バス停から少し鎌倉駅方面に戻ったところに足利公方屋敷跡の石碑が残ります。

大江広元の屋敷は明石橋を朝比奈切通し・横浜方面に少し歩いたところにありました。川右手の川沿いの道をいくと民家の狭間に石碑が残っています。わかりにくい場所なので、こまかな地図を入れました。

大江広元(1148-1225)は、鎌倉の懐刀ともいうべき伝説的政治家です。

式部少輔大江維光の子、中原広季の養子。鎌倉幕府政所初代別当。幕府創設に大きく貢献した文官御家人/政治家。その活躍は伝説的ともいえます。京都貴族として朝廷に仕え1183年(寿永2年)頃、兄中原広季に続いて頼朝に仕えます。文官のトップとしてあらゆる政務に重要な役割を果たしました。1185年(文治元年)の守護・地頭設置という献策は世に有名。頼朝死後は北条氏に協力し幕府の体制強化に努めます。1216年(建保4年)病となり出家した後も幕政に重きをなし北条泰時の時代まで活躍しました。承久の乱においては朝廷との一戦に慎重な姿勢をみせる御家人たちに対し強硬に一刻も早い出兵を主張し、鎌倉を勝利に導いたとされます。子の毛利季光は戦国大名毛利氏の祖と伝わります。

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