大佛次郎

(おさらぎ じろう 1897-1973)

半世紀を鎌倉に過ごした『鞍馬天狗』シリーズの著者

1925年(大正14年)、28歳の大佛次郎。

1925年(大正14年)、28歳の大佛次郎。

『鞍馬天狗』シリーズの著者として有名な大佛次郎は、1897年(明治30年)に生まれ、1921年(大正10年)から1973年(昭和48)年まで鎌倉に住みました。開発が進む鎌倉を憂い鶴岡八幡宮裏山の宅地化を鎌倉風致保存会を組織して阻止するという偉業も成し遂げています。

数多くの筆名を使いましたが、終世使った大佛は鎌倉大仏の裏に住んでいたことからつけたそうです。他にも、由比浜人、浄明寺三郎など鎌倉に由来したものがいくつかみられます。

横浜に生まれた大佛次郎は、東京の一高を経て東京帝国大学法学部政治学科を卒業した1921年(大正10年)24歳の時に原田登里と結婚。鎌倉高等女学校(現 鎌倉女学院高等学校)の教師となり鎌倉に移り住みます。

1922年(大正11年)外務省条約局の嘱託となります。1924年(大正13年)頃、大佛次郎の筆名で「隼の源次」を執筆。鞍馬天狗第一作も発表し映画化されます。

1929年(昭和4年)33歳の時に、昭和48年に75歳で亡くなるまで終の住処となった新居を雪ノ下に建てました。同じ雪ノ下には、旧大佛次郎茶亭が現存し週末のみ公開されています。これは、1919年(大正8年)に野尻邸として建てられた日本家屋を大佛が茶亭として利用していた建物です。

戦後の復興とともに鎌倉でも宅地開発が急速に進み、1964年(昭和39年)、鶴岡八幡宮の裏山に開発計画が持ち上がります。ついに開発が聖域に及ぶにつけ、大佛次郎を始め、小林秀雄、今日出海、永井龍男、鈴木大拙、川端康成などそうそうたる鎌倉文士たちと地元市民らが、古都の景観を守る運動を起こします。

この運動は1964年12月、現在も活動する財団法人鎌倉風致保存会へと発展します。大佛は設立発起人となり理事に就任しました。1966年(昭和41年)には古都保存法が制定され、問題の鶴岡八幡宮裏山の開発予定地は鎌倉風致保存会によって買収され、事なきを得ました。鶴岡八幡宮の裏山が宅地開発されていたかと思うとゾッとします。

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