龍寳寺

(りゅうほうじ)

名将・北条綱成の墓所

里見、上杉、武田を阻んだ後北条の名城、玉縄城ゆかりの寺院。玉縄城主3代の墓所です。

エリア大船
住 所鎌倉市植木128
宗 派曹洞宗
本 尊釈迦牟尼仏
創 建16世紀中頃
アクセスJR「大船駅」下車、徒歩20分

“龍寳寺、御影石の参道と本堂。

猛将北条綱成の創建にして墓所

龍寳寺は16世紀中頃に北条綱成(1515-1587)が現在栄光学園が建てられてる場所に建立した瑞光院に始まります。北条氏の拠点であり名城として知られる玉縄城3代の城主(綱成、氏繁、氏勝)の菩提寺となっており、後北条時代には大いに栄えたといいます。徳川家康がこの地を治めるようになると、家康の智将として知られる本田正信が派遣され、その後新井白石が龍寳寺に200石を寄進したと伝わっています。

境内は広く、茅葺きの立派な山門、御影石による風格ある境内参道と大きな本堂、そして広い境内が印象的です。玉縄民俗資料館を境内におくなど、清泉女学院により遺構が破壊されたという地域を代表する後北条玉縄城の歴史をいまに伝える役割をも果たしています

大船駅の笠間口から県道402号を20分ほど歩くと龍寳寺はみえてきます。玉縄地域の民族資料館や元禄の民家である石井家住宅(国重文)も移築されています。1951年(昭和26年)、火災により全焼の憂き目にあいますが、山門・鐘楼は焼け残りました。火災を免れた茅葺きの山門は江戸元禄年間のものとされています。

本堂には御本尊の釈迦如来座像、文殊菩薩、普賢菩薩、五百羅漢像の他、歴代玉縄城主や源実朝の位牌などが祀られています。本堂に至る参道は、御影石によって造られた見事なものです。本堂左手には裏山にあった玉縄城主三代の墓を平成24年に移した供養塔が建てられています。

龍寳寺は玉縄城の大手門に繋がっていたといわれ、現在も七曲坂と呼ばれる古道が残されています。清泉女学院および周辺の宅地開発により破壊された名城玉縄城の姿を少しでも感じられることが貴重です。

旧鎌倉地域とは違った魅力を持つ大船地域

大船周辺は旧鎌倉とはまた違った魅力があり、その源泉の一つが後北条です。大船駅の西側(笠間口)方面、現在清泉女学院中学高等学校のあるあたりに本丸を置く玉縄城がありました。相模湾に船で漕ぎ出せる要害の城であり、後北条氏の南関東における拠点として北条早雲が1513年(永正10年)に築城しました。大変堅固な城として知られ、里見、上杉、武田をもってしても落とせなかった名城です。

相模三浦氏、里見氏、また鎌倉の守りとして重要な拠点であった玉縄城の城主は重要人物が抜擢されていました。初代城主は北条早雲の実子氏時、2代目も当主氏綱の実子、3代目は地黄八幡の旗印が名高い名将北条綱成です。4代目以降は綱成の血筋が城主を務めました。唯一の落城は1590年(天正18年)、豊臣秀吉の小田原征伐であり、徳川家康が降伏・開城させました。その際、説得にあたったのは龍寳寺の住職であったといわれています。

ちなみに、昭和30年頃まで遺構が多く残っていたそうですが、その玉縄城重要遺構の数々は、清泉女学院により校舎建設のため破壊され、処分されたということです。子供たちにはきちんと自分たちのしたことを教えているのでしょうか。悲しい現代史です。

龍寳寺フォトギャラリー

スポンサー広告