佐奈田義忠

(さなだ よしただ 1112-1200)

石橋山の戦いに散った勇者

三浦義明の弟、岡崎義実の嫡男。父岡崎義実は相模国大住郡岡崎を領地とし岡崎を名乗り、義忠は大住郡真田(現 神奈川県平塚市真田)を領地としたことから佐奈田(真田とも)を称しました。

江戸時代、菊池容斎の『前賢故実』に描かれた佐奈田義忠

江戸時代、菊池容斎の『前賢故実』に描かれた佐奈田義忠

佐奈田与一義忠は『平家物語』や『源平盛衰記』に語られる武勇の士です。1180年(治承4年)源義朝の嫡男、源頼朝が挙兵すると源氏累代の家人として父 岡崎義実とともに挙兵時より加わります。挙兵直前の8月6日、頼朝が一人ずつ部屋に呼んだ特に覚悟のある勇士の一人でした。

伊豆国目代、山木兼隆の館を襲撃し兼隆を討ち取った頼朝は300余騎を率いて現在の神奈川県湯河原町に移り、大庭景親らの率いる平氏方3000騎と石橋山において戦います。多勢に無勢、10倍の敵方を前に先陣の名誉を得たのが佐奈田与一義忠でした。父 義実の推挙によるもので、頼朝は「大庭景親と俣野景久を討ち取り、源氏の高名を立てよ」と義忠に先陣を託したといいます。

義忠は老いた郎党の文三家安に妻子のことなどを託そうとしますが、幼少の頃より義忠を養育してきた文三は供をすると聞かなかったため、義忠は文三を連れて先陣に赴くこととなりました。

15騎を率いた義忠は、大庭景親や豪傑俣野景久(大将 大庭景親の弟)ら75騎と夜間の乱戦になります。敵を蹴散らしながら目当ての一人、俣野景久を見つけ激しい組み合いになります。義忠は景久の首をとるため短刀を抜こうとすると激戦の血糊が固まり抜くことができません。その内、敵方に加勢が加わり、最後は長尾定景に討たれます。

義忠の勇士は後世に語り継がれ、江戸時代には美男の勇者として錦絵などに描かれる程の人気がありました。義忠の討ち死にした石橋山古戦場には与一塚が建てられ、与一を祀る佐奈田霊社も創建されました。

義忠の郎党、文三家安は討たれた義忠に群がる敵方に飛び込んで討ち死にしました。主君義忠の与一塚から100m程離れたところに文三を祀る文三堂があります。

『吾妻鏡』1190年(建久元年)1月20日の項に、治承・寿永の乱を平定し、朝廷をも抑え込み、史上初の「鎌倉」という武家政権を創りあげつつあった源頼朝が、義忠、文三の塚の前で涙したという記述があります。

「1190年(建久元年)正月20日、乙亥、夜になり頼朝は二所詣から鎌倉に戻られた。今後の参詣は、まず三島、箱根に奉弊し伊豆山から下向すると定められた。これまではまず伊豆権現に参拝していたが、途中の石橋山において佐奈田与一義忠、文三家安らの墳墓をご覧になり涙を流された。この両人は治承合戦の時、御敵により命を奪われた。いま、改めてその悲しみを思い出されたためである。この事は御参詣の道筋にあっては、特に憚るべきであると先達が申したためこのようになったという。」

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