佐奈田霊社/文三堂

目 次

佐奈田霊社

(さなだれいしゃ/ぶんぞうどう)

石橋山の先鋒、佐奈田与一義忠を祀る

源頼朝、石橋山合戦の先鋒という永久にその武勇を讃えられるであろう大役を拝命した、佐奈田与一義忠の霊魂が宿る佐奈田霊社。相模湾沿い、みかん畑に囲まれとても気持ちの良い場所です。

佐奈田霊社境内。

佐奈田霊社境内。

エリア小田原・箱根
住 所神奈川県小田原市石橋188
祭 神佐奈田与一義忠
創 建12世紀末?
アクセスJR「小田原駅」よりバス、江之浦・湯河原行き「石橋」下車、徒歩10分/もしくは、JR「早川駅」下車、徒歩25分
公式HPhttp://www4.tokai.or.jp/sanada-reisha/

神奈川県小田原市石橋、海岸を見下ろす石橋山古戦場の一帯、みかん畑に囲まれて佐奈田霊社という穏やかで麗らかな社があります。近くには石橋山古戦場の石碑、文三堂、ねじり畑もあります。佐奈田霊社は相模湾を見下ろす小高い場所にあり、周囲をみかん畑に囲まれた長閑な場所にあります。佐奈田与一義忠の物語を思い浮かべながら参拝すれば、とても清々しい気持ちになれます。

佐奈田神社の祭神、佐奈田与一義忠

佐奈田神社は、源頼朝の忠臣として石橋山合戦の先陣を務め、討死した佐奈田与一義忠を祀り、近くの文三堂は与一の郎党として主人と一緒に散った文三家康を祀っています。

佐奈田与一義忠(1155-1180)は三浦義明の弟、岡崎義実の子。岡崎義忠ともいいます。相模国大住郡岡崎(現在の神奈川県平塚市真田)を領地としたことから岡崎を名乗っています。治承4年(1180年)8月8日、源頼朝の挙兵時から、父義実とともにその元に参じています。

治承4年(1180年)8月23日、伊豆から相模へと兵を進めた頼朝勢三百騎は、石橋山において大庭景親率いる三千騎の平氏方と相対し、石橋山合戦となりました。父義実の推挙もあり、与一は源頼朝から先陣を拝命します。この後「鎌倉」を創成していく、稀代の鬼武者源頼朝が陥った最大の窮地ともいうべき場面で先陣を飾ったのでした。

頼朝は「(平氏方の)大庭・俣野といえば名のある奴原である。彼ら二人に組んで高名を立てよ」と命じました。大庭景親は平氏方の大将、俣野景久は大庭景親の弟です。与一は白葦毛の馬に跨がり、青地に錦の直垂、赤糸縅(あかいとおどし)、金物を打った鎧、妻黒(つまぐろ)の矢、長覆輪(ながふくりん)の太刀という見事な出で立ちでした。

平氏方は「与一はひと目でわかるぞ」といい、頼朝も「敵方の目につき易いから着替えていけ」といいますが、与一は「弓矢とる身に戦場ほど晴れの舞台はありませんから」と答え、その見事な装束にて、郎党の文三以下15騎を従え、敵先鋒75騎めがけて突き進みました。

与一は多勢を押しのけ、頼朝が「名のやつ奴原」の一人に挙げた俣野景久に組み付き、「(佐奈田与一)義忠が敵に組み付いたぞ、落ち重なれ」と大声で叫びますが、味方勢は敵に阻まれ、その声は届きませんでした。

それでもさすがの与一は俣野景久を組み伏せ、刀で首を搔きます。しかし、それまでに切った敵の血糊がついた刀は鞘から抜けておらず、何度抜こうとしても抜けません。悲運の与一は、刀が抜けぬまま駆けつけた敵方に討たれます。与一享年25歳。

主人が討ち取られたことを知った文三は敵に斬りかかり8人を切り捨て奮闘しますが、こちらも敵方に討たれます。文三は与一が2歳の時分から面倒をみたいわゆる爺やだったそうです。

逸話によると、この時与一は病み上がりで痰が詰まって声がうまく出せず、味方に声が届かなかったといわれています。この事から、与一の霊魂が宿るとされる佐奈田霊社は、のど、せき、ぜんそくなどに霊験あらたかであるとされており、声を使う芸能関係者の参拝多く、有名な佐奈田飴も売られています。

頼朝が供養のため訪れる

奥州平定も成し遂げ、治承・寿永の乱を治め、翌月に上洛を控えた建久元年(1190年)1月20日、源頼朝は二所詣の途中、現在佐奈田霊社となっている与一・文三の墳墓を訪れ、涙を流したと、『吾妻鏡』には記されています。頼朝は、現在の横浜市栄区にも与一の菩提を弔うため証菩提寺を建立しています。

風光明媚にして見どころ多い

佐奈田霊社にいくには、「車」、「電車・バス・徒歩」、「電車・徒歩」の3つの方法があります。JR東海道線は大磯あたりからは特に雰囲気も景色もよく、乗っていて楽しくなります。最寄りの早川駅から歩くと距離約1.8km、時間にして25分程です。バスの場合は小田原駅から乗るのがおすすめ。小田原駅を利用すれば、小田原城など城下町の名所旧跡もあわせて訪ねる楽しみもあります。

車の場合は佐奈田霊社の駐車場がありますので、こちらも快適です。一つ注意したいのは、石橋山古戦場の石碑は、佐奈田霊社駐車場よりも少し下にありますから、見過ごさないようにしてください。また、石橋山古戦場石碑付近から、東海道線の線路と相模湾をのぞむ景色もよいので、こちらもお見逃しなく。

小高い山を上って佐奈田霊社につくと、境内の大きな桜が目につきます。さらに階段を上るとふつたつの社殿、与一塚、佐奈田与一手附石、徳仁親王殿下登山記念之杉などがあります。

本殿内は見どころが豊富です。御本尊「佐奈田与一義忠木像」、古文書「頼朝公より与一義忠祭神許可状(建久二年十一月二十五日)」、石橋山秘仏「孔雀明王像」、「与一義忠公合戦御掛軸」。さらには石橋山埋蔵品として、「石橋山合戦つぶて石」、「石橋山埋蔵刀」などが置かれています。

何度か訪れていますが、最近の訪問時には詳しい氏子の方がいらっしゃって、いろいろと教えて下さいました。また、普段は畏れ多くてなかなか近くに寄れませんが、「もっと近くにいっていいですよ」といっていただき、木像や古文書を間近にみることができました。

この中から、古文書「頼朝公より与一義忠祭神許可状(建久二年十一月二十五日)」にはこのように書かれていました。古文書には詳しくないため、誤字等御勘弁ください。
「岡崎四郎義實男
佐奈田与一   義忠

治承四年於石橋山
先鋒忠戦之旨遂
奉聞處 不浅
叡感 霊社魁秀明神之号
被勅許者執達如件
建久二年十一月二十五日 花押」

源頼朝の「鎌倉」創成において、挙兵〜石橋山合戦〜敗走〜安房上陸〜鎌倉入りがいかに難しい局面であったか、とりわけ、石橋山合戦とその敗走が頼朝にとっていかに厳しかったかが伝わってきます。

ねじり畑(佐奈田与一義忠討死の地)、文三堂

御本尊や孔雀明王像などを参拝し、埋蔵品をみたら本殿を後にします。本殿は相模湾に向かって建っていますから、参拝を終えてそのまま少し歩くと眼下に相模湾が広がります。その辺りに腰掛けがあるので、しばし海を見ながら休憩し、次は右手の階段を降りてねじり畑、文三堂に向かいます。

階段を下りるとすぐにねじり畑があります。「ねじり畑」は正確には「佐奈田与一義忠討死の地」です。与一が討死したこの場所に育つ作物はみなねじれてしまったことから、この名がついたそうです。

さらに道なりに少しいくと左手に文三堂があります。小さな社に、佐奈田与一とともに散った郎党、文三家康が祀られています。文三堂を礼拝したら、石橋山古戦場全体をみるため、長閑なみかん畑の間を上っていきます。相模湾の爽やかな風とこれまた爽やかなみかん畑を眺め、古戦場を偲びます。

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