佐々木盛綱

(ささき もりつな 1151-?)

藤戸の海峡を馬で押し渡った勇士

歌川国芳が描いた佐々木盛綱。藤戸の戦いにおいて馬のまま海路を押し渡った後に路を案内した漁師を殺したといういいつたえを描いています。

歌川国芳が描いた佐々木盛綱。藤戸の戦いにおいて馬のまま海路を押し渡った後に路を案内した漁師を殺したといういいつたえを描いています。

源頼朝に側近として仕えた佐々木4兄弟の三男。父は佐々木秀義。宇多天皇を祖とする宇多源氏の佐々木氏は近江国を領地としたことから近江源氏とも呼ばれました。平治の乱(1159年)において源義朝が敗れるとこれに従った父秀義はじめ一門も関東へと落ち延びます。

近江源氏佐々木氏の当主であった盛綱の父秀義は平治の乱以後、源氏が不遇の時代を迎え、平氏が栄華を極めていくなかにあっても平氏に与することなく、子の定綱、盛綱を伊豆に配流となっていた頼朝の元に仕えさせます。

1180年(治承4年)源頼朝の挙兵に際しては定綱盛綱高綱、そして経高の4兄弟ともども加わりました。盛綱は加藤景廉らとともに伊豆国目代山本兼隆を打ち取ります。その後石橋山の戦いに敗れ、4兄弟は渋谷重国のもとに逃れます。

真鶴から房総半島に逃れた頼朝が安房において再起し鎌倉に入ると再び合流、以後、頼朝による平氏追討、乱世の鎮圧に数々の功をあげていきます。特に謡曲「藤戸」に描かれた藤戸の戦いは世に知られています。

1184年(元暦元年)12月7日、備前国児島に500余騎をもって平行盛が城郭を構え、対岸に陣取る盛綱を挑発します。盛綱は船がみつからずに騎馬のまま海路を押し渡りわずか6騎にて行盛を蹴散らします。

12月26日、源頼朝は書状を以て武勇を讃えました。内容はこうです。「昔から河を渡る話はあるが、馬で海の波を押し渡ったというような例は聞いたことがない。世にも稀な壮挙である」。

1185年(文治元年)平氏追討を成し遂げて凱旋した盛綱な鎌倉・腰越の小動岬に、現在もある小動神社を創建します。江ノ島弁財天参詣の途中、この地の風光明媚を大いに気に入った盛綱が故郷近江の守護神を勧請したといわれています。

その後も幕政の中枢において活躍し、鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』にも頻繁にその名が登場します。1199年(建久10年)1月13日に源頼朝が没すると3月には出家し、西念と名乗りました。出家後も城資盛・坂額御前の反乱を制圧するなど辣腕ぶりを発揮しています。

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