佐々木定綱

(ささき さだつな 1142-1205)

平治の乱以来の家臣、源頼朝を配流時代から支えた側近

宇多源氏佐々木氏の当主。母は源為義の娘(源義朝と兄弟)。源頼朝の伊豆配流時代から仕えた頼朝の側近。佐々木氏は源氏二十一流のひとつ、宇多天皇からわかれた宇多源氏の一族。宇多源氏佐々木氏は近江国を領地として繁栄したことから近江源氏といわれ、六角氏、京極氏といった支流を生みました。

秀義は源義朝とともに保元・平治の乱を戦い、定綱も平治の乱(1159年)をともに戦いました。平治の乱に義朝が敗れると父秀義は相模国に、定綱は下野国に逃れます。大将義朝は敗死、嫡男頼朝は捕らえられ伊豆に配流となり源氏不遇の時代を迎えます。

この間も父秀義始め一族は平氏に寄り添うことなく源氏再興に備えます。秀義は子の定綱、盛綱を伊豆に配流となっていた頼朝に仕えさせます。頼朝が配流となって約20年、兄弟は変わりなく頼朝を支え、ついに1180年(治承4年)源頼朝は挙兵。

定綱を筆頭に佐々木4兄弟は挙兵の現場にももちろん直接加わり、平(山木)兼隆襲撃を成し遂げます。その後治承・寿永の乱を頼朝の側近として戦い、その大功から近江、長門、石見、隠岐、4か国に守護となります。

『吾妻鏡』に詳しく書かれていますが、1191年(建久2年)領地の佐々木荘における貢納を巡り延暦寺と争いとなり、定綱の屋敷に押し込んで来た延暦寺の手の者を、次男の定重が傷つけ神鏡を壊してしまいました。

これを理由に延暦寺は強訴を起こし、定重を梟首(きょうしゅ=晒し首)にします。この事件で、定綱の子、広綱、定高はそれぞれ隠岐、土佐へ、定綱自身も薩摩へ配流となりました。

2年後の1193年(建久4年)許されて定綱が鎌倉に帰ると源頼朝はとても喜び、定綱は近江、長門、石見、隠岐の守護に復します。その後も平治の乱以来の宿老として、幕政に重きをなし、検非違使・左衛門少尉、従五位上となりました。1205年(元久2年)4月9日死去し、鎌倉に葬られました。享年64歳。

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