勝長寿院跡

目 次

勝長寿院跡

(しょうちょうじゅいんあと)

頼朝の造った鎌倉3大寺社のひとつ

源頼朝が父、源義朝の菩提を弔うため1184年に建立した大寺院。源氏の菩提寺であったためその姿は壮麗極まりなく、成朝(奈良仏師)に彫らせた金色の阿弥陀仏を本尊とし、藤原為久による浄土瑞相二十五菩薩壁画が描かれ、運慶による五大尊像も安置されていたといいます。

エリア北東
住 所鎌倉市雪ノ下4

源氏の鎌倉を代表する壮麗な寺院でしたが、幾度も火災により焼失。その都度再建され、室町時代まで源氏の由緒寺院として尊崇を集めてきたものの、1460年頃から荒廃し廃寺となっていきました。

永福寺跡のように史跡として残ることはなく、開発によりすべて失われてしまい、現在は地元の有志が建てた供養塔が残るのみです。

岐れ道を十二所方面へ少し歩くと「大御堂橋信号」があります。そこを右折すると大御堂橋があり正面に文覚上人屋敷跡の石碑があります。ここを左折し、すぐに右折。しばらく細い道を歩くと石碑が見えてきます。

吾妻鏡の記述(要約)

元暦元年(1184年)11月26日
平氏も都落ちし、追討のため源頼家・義経を大将とする追討軍を派遣、すでに平氏を追い詰めていた源頼朝は、父 源義朝の菩提を弔うため、鎌倉中に適地を探し、霊窟のあった御所東南の地を造営地と定めていました。大嘗会(天皇が即位後、最初に行う大規模な新嘗祭)の禊祓(みそぎはらえ)後に地曳始(建物の基礎造り)を行うよう指示していたところ、先月25日に御禊の儀式が行われたため、この日に犯土(いわゆる土木作業、土を動かすこと)が行われました。中原広元と藤原俊兼が奉行し、頼朝も現場にて監督されました。

『新編鎌倉志』(江戸時代につくられた元祖鎌倉ガイド)の記述

大御堂谷〔附御堂御所舊跡〕
大御堂谷(をおみだうがやつ)は、歌橋(うたのはし)の南向なり。阿彌陀山(あみださん)とも云ふ。賴朝卿、最初の建立、勝長壽院の舊跡なり。
勝長壽院を、南御堂(みなみのみたう)とも、大御堂(をほみだう)とも稱する也。『東鑑』に、賴朝、元暦元年(1184年)十一月廿六日、營(えい)の東南に當て、一の靈崛(れいくつ)あり。仍て梵宇の營作を企(くはだ)てらる。
是先考の御廟を其の地に安すべきの由、存念し給ふの間、潛(ひそか)に此由を後白河法皇へ伺ひ奏せらる。法皇も亦勳功(くんこう)を叡感し給ふ餘に、判官に仰(をほせ)て、東(ひかし)の獄門(こくもん)の邊に於て、故左典厩(さてんきう)〔義朝〕の首を尋ね出され、鎌田二郎兵衞尉政淸(まさきよ)が首を相副(そへ)、江の判官公朝(きんとも)を勅使として、是を下さる。
文治元年(1185年)八月卅日に下着す。二品(にほん=頼朝)迎(むか)へ奉(たてまつら)ん爲(ため)に、自(みつか)ら稲瀨河(いなせかは)の邊に參向し給ふ。御遺骨を、文覺上人の弟子の僧等(ら)、頸に懸奉(かけたてまつ)る。同年九月三日子の刻に、故左典廐の御遺骨、政淸(まさきよ)が首(くび)をそへて、南御堂の地に葬(ほうむ)り奉(たてまつ)る。同年十月廿一日、南御堂の本佛を渡(わた)し奉る。丈六皆金色の阿彌陀佛。南都の大佛師成朝(じやうてう)、去る五月廿一日に、御招請に依て參向し、佛像を造立す。
同十月廿四日、御堂供養、導師は本覺院の僧正坊公顯、廾口(にじふく)の僧を率(ひきひ)て參堂、供養の儀を演(のぶ)。御堂を勝長壽院と號す。元久二年(1205年)に實朝(さねとも)の時、勝長壽院の領、上總の國菅生莊(ふがふのそう)十二箇郷の事とあり。
又承久元年正月二十七日、實朝卿、公曉(くぎやう)に弑(しい)せられ給ふ〔事出前〕。廿八日戌(いぬ)の刻に、勝長壽院の傍らに奉葬(葬り奉り)。去夜御首(みくし)の在所を不知(知ら不)。五體不具なり。依て昨日公氏(きんうぢ)に給はる御鬢(びん)を、御頭(みくし)に用(もち)ひ棺に入れ奉(たてまつ)るとあり。今其の所ろ不知(知れ不)。
『帝王編年記』に、文暦元年(1234年)に、鎌倉の二品禪尼(にほんぜんに)、故右大臣の爲に、高野山の内に金剛三昧院を建立す。奉行城(じやう)の入道大蓮(たいれん)、俗名は景盛(かげもり)、本尊は正觀音也。御身に實朝(さねとも)公の遺骨を籠(こむる)とあり。按ずるに、實朝を火葬にしたる歟。壽福寺にも實朝の塔あり。

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