東慶寺

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東慶寺

(とうけいじ)

北条時宗の正室、覚山尼が開いた駆け込み寺

北鎌倉にある東慶寺は、駆け込み寺として有名なお寺さん。鈴木大拙を輩出したことでも知られています。北条時宗の正室覚山尼が時宗が没した翌年に開きました。現在は尼寺ではなく男僧の臨済宗の禅寺となっています。

エリア北鎌倉
住 所鎌倉市山ノ内1367
宗 派臨済宗円覚寺派
本 尊釈迦如来
創 建1285年
開 基北条貞時
札 所鎌倉三十三観音第32番
文化財等木造聖観音立像(重文)、葡萄蒔絵螺鈿聖餅箱(重文)
アクセス「北鎌倉駅」下車、徒歩3分

山門へと続く階段。かつて、多くの女性たちが決死の覚悟で登ったのでしょう。

山門へと続く階段。かつて、多くの女性たちが決死の覚悟で登ったのでしょう。

史上名高い「駆け込み寺」

北鎌倉は横須賀線の線路を挟んで両側に寺院が並んでいます。情報誌でよく紹介されているルートは、円覚寺側と東慶寺側どちらかのルートを通って鎌倉へと向かうケースですが、これは個人的にはあまり好きなコースではありません。明月院の先から建長寺鶴岡八幡宮へと続く道は狭く、巨福呂坂切通しもいまやただの大きな鉄のトンネルです。北鎌倉を散策するなら、北鎌倉だけとして余力があれば横須賀線で鎌倉へと向かい、一杯やって帰るのが楽しいコースです。

東慶寺は女性に離婚請求権がなかった時代の縁切寺(駆け込み寺)として有名です。縁切寺は江戸幕府公認の制度として機能しており、東慶寺で2~3年修行すれば離婚が認められました。実際は誰でも駆け込めばすぐ修行に入るということではなく、両者の意見を聞いて調停を計っていたようです。現在の家庭裁判所の調停制度に似ています。女性の離婚請求権が明治5年(1872年)に認められ、縁切寺としての役割を終えました。その後は男僧の禅寺として、禅を世界に広めた鈴木大拙などを輩出しました。

開山は幕府第8代執権北条時宗の正室にして、有力御家人秋田義景の娘である覚山尼(かくさんに)。覚山尼は第9代執権貞時の母でもあります。1284年(弘安7年)に時宗が亡くなると翌1285年(弘安8年)覚山尼は東慶寺を開山します。開基は時宗の子、貞時となっています。

重要文化財に指定されている聖観音菩薩立像はかつて鎌倉の西御門にあった尼寺、大平寺の本尊としてあり、その時は現在円覚寺にある舎利殿(国宝)におさめられていたそうです。鎌倉~南北朝時代の作であり、鎌倉独自の土紋(どもん)と呼ばれる独特の技法によって作られているそうです。東慶寺はまた、著名な文化人の墓が多いことで知られています。西田幾多郎(哲学者)、小林秀雄(批評家)、前田青邨(画家)など多くの方の墓があります。

現在は他と同じく男僧の禅寺ですが、観光散策をする場合はやはり「駆け込み寺」としての歴史にひたることになるでしょう。山門から真っすぐに続く路の両側には見事な梅があり、季節には大変風情があります。境内にある松ヶ岡宝蔵もみどころです。

『新編鎌倉志』(江戸時代につくられた元祖鎌倉ガイド)の記述

松岡
松岡(まつがをか)は、圓覺寺の南向(むかふ)なり。東慶寺と號す。比丘尼寺にて、禪宗也。開山は北條(ほふでふ)平の時宗(ときむね)の室、秋田城介義景(じやうのすけよしかげ)が女(むすめ)、貞時(さだとき)の母(はは)なり。潮音院覺山志道和尚と號す。
時宗(ときむね)、弘安七年(1284年)四月四日に卒去。明年落飾して當寺を創す。十月九日開山忌あり。第二世は龍海の雲和尚、第三世は淸澤和尚、第四世は須宗和尚、第五世は、用堂和尚、後醍醐天皇の姫宮(ひめみや)なり。山に入て薙染受具し玉ふ。應永三年(1396年)丙子八月に示寂なり。第六世は仁芳の義和尚、第七世は簡宗の擇和尚、第八世は松圭の杉和尚。
第九世は應礀の化和尚、第十世は甘聰の棠和尚、第十一世は柏室の樹和尚、第十二世は靈菴の鷲和尚、第十三世は即翁の心和尚、第十四世は聞璋見和尚、第十五世は明玄遠和尚、第十六世は渭繼〔王へんに廣〕和尚、第十七世は旭山の晹和尚、生實(をひみ)〔或作小弓非也(或は小弓(をゆみ)に作るは非(ひ)なり)〕御所(ごしよ)八正院源の義明(よしあきら)の息女なり。弘治三年(1557年)七月十日に示寂。
第十八世は瑞山の祥和尚、第十九世は瓊山淸和尚、喜連川(きつれかは)源の賴純(よりずみ)の息女なり。第二十世は天秀の泰和尚、豊臣秀賴(とよとみひでより)の息女なり。元和元年に東照大神君の命に依て、山に入〔り〕薙染す。時に八歳。正保二年(1645年)乙酉二月七日に示寂、佛殿の後に石塔あり。第二十一世は永山和尚、喜連川(きつれかは)源の尊信(たかのぶ)息女。則ち今の住持なり。寺領百二十貫文也。

山門
額、東慶寺禪寺とあり。

佛殿
本尊、釋迦・文殊・普賢、共に金銅の像なり

鐘樓
山門外、右にあり。此寺の鐘(かね)は、小田原陣(じん)の時失して、今有(あ)る鐘(かね)は、松が岡の領地にて、農民ほり出したりと云ふ。銘を見るに補陀落寺(ふだらくじ)の鐘なり。故に此鐘の銘は補陀落寺の條下に記す。此寺の昔の鐘の銘今尚殘れり。其の文如左(左の如し)。

相陽山内松岡東慶寺鐘銘
梵刹置鐘兮、令人天休息輪廻苦、利大矣、松岡住山了道長老、以寺用百緡鑄洪鐘、求銘於圓覺淸拙叟、銘曰、松岡之山、寺曰東慶、鐵磨花宗、末山芳省、緇流駢羅、禪學鼎盛、必假洪鐘、發號施令、孔方載馳、工※是命、爐鞴奏功、範摸畢正、簨簴既張、蒲牢斯震、晨興夜坐、朝諷夕詠、鯨音一吼、趍集卒敬、左建右圓、天近樓迎、新聲飄揚、邇遐應、層旻聞聰、厚壤徹聽、十虗消殞、五濁淸淨、聞塵忽空、返我聞性、檀門福壽、紺園殊勝、千秋萬年、國界安靜、壬申、元德四年、結制後二日、都寺比丘尼遠峯性玄、首座比丘尼無染親證、住持比丘尼果菴了道、大檀那菩薩戒尼圓成。
圓成は平の貞時の室の戒名なり。了道は、或人の曰〔く〕、當寺第六世仁芳と共に兩住持也と。然れども第六世にては、時代相應せず。何代目の住持と云〔ふ〕事未考(未だ考へず)。

蔭凉軒
方丈の北にあり。

海珠菴
山門を入り右にあり。

永福軒
山門を入り左にあり。

靑松院
佛殿の東北にあり。

妙喜菴
靑松院の北なり。右皆脇寮(わきりやう=塔頭)なり。

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