〈時空〉源頼朝と鎌倉創成

千年の時を超えて

鎌倉は1192年(建久3年)初めて武家政権が誕生した場所です。「鎌倉」を創ったのは20世紀最大の傑物、源頼朝(1147-1199)でした。それは実体としての都市であるばかりでなく日本の統治構造、概念として様々な意味で創成されます。中大兄皇子(後の天智天皇)と藤原鎌足による律令制度確立から550年、武威の王国「鎌倉」誕生は頼朝という希代の鬼武者による天下創成でした。

源氏山公園の源頼朝像と桜。

源氏山公園の源頼朝像と桜。

源氏と鎌倉

「鎌倉」を歩いた知人が「鎌倉は何か空気が違う。よくまわりの人もそういうよ」といいました。そしてその空気をつくっている要因は、当然、過去にあります。安易にいいかえれば歴史です。中でもそのほとんどを占めているのが源頼朝(1147-1199)ということになります。

話は一気に1200年程遡り、源氏と平氏がうまれた頃に向かいます。源頼朝は源氏の当主ですが、源氏には祖とする天皇ごとに21もの流派があり、源頼朝の河内源氏は第56代清和天皇(850-881)の子を祖とする清和源氏という流れに属します。

清和天皇の子である貞純親王の子、経基王(六孫王)が臣籍降下して源経基(894-961)となりここから源頼朝の河内源氏に繋がっていきます。経基には8人の男子がおりこの中の一人、源満仲(912-997)から河内源氏(源頼信/968-1048)、摂津源氏(源頼光/948-1021)、大和源氏(源頼親/?-?)がうまれます。

武家棟梁のはじまり、源満仲

清和天皇の曾孫にあたる源満仲は、初めて「武家=武威による一大勢力」といういわゆる武家を築いたともいえる人物であり、『今昔物語集』に「世に並び無き兵(つわもの)」と歌われた武人です。

それまでにも坂上田村麻呂(758-811)のような名高い武人たちはたくさんいました。しかし、彼ら古代的な武人と源満中とは決定的な違いがあります。坂上田村麻呂は朝廷の武官として、いわば連合艦隊司令長官のような立場で戦いました。

しかし、源満仲は所領を経営し、武士団を養うという今日我々がイメージする中世的な武家の棟梁に近い存在でした。

源満仲は藤原摂関家と結びつきつつ左馬助、鎮守府将軍をつとめ、武蔵国、摂津国、越後国、越前国、伊予国、陸奥国など豊かな大国の国守を歴任しながら財を築き、武士団を形成していきます。

源満仲が仕えた藤原兼家は摂関政治の最盛期をつくった藤原道長の父であり、摂関の地位を一気に向上させ世襲とした人物。いわゆるやり手であり、これに仕えた源満仲にも有利に働いたことは当然のことでしょう。

源満仲は都で活躍する中央軍事貴族(武官貴族)でしたが、都に比較的近い摂津国多田(現 兵庫県川西市)に移住し、中央との繋がりや影響力を発展させつつ独自の勢力を形成します。

満仲は武士団として400とか500人という郎党を抱えていたそうです。その郎党たちはまた家来を引き連れていましたから、当時としてはかなり大規模な武力を直轄していたことになります。また、その出家に際しては後の武士のように付き従った郎党が数十人いたといいますから、私的武士団の主従関係もしっかりしたものだったのでしょう。

要するに今日イメージする独自の勢力を持った「武士」「武家」「戦国大名」などのはじまりが源満仲であったといってもいいのではないでしょうか。

そして、その子頼信の代に至り、前九年の役を始めとする各地の戦乱を治めたことで清和源氏は全国的な武家の棟梁として成長します。源平一方の雄、桓武平氏が全国規模の武家の棟梁となるのは平清盛の父、平正盛(?-1121)の頃からですから、この時期はまだ源氏に対抗できる存在ではありませんでした。

源満仲の系統は鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府を開いた足利尊氏という直系の著名武家の他にも数多くの支流をうみ、日本の歴史に大きな影響を与え続けます。

鎌倉と源氏のはじまり

武威の都「鎌倉」を創成した源頼朝の源流を、祖先であり武家のはじまり源満仲にみたところで、次は源氏と鎌倉の過去を探ります。

源氏と鎌倉の関係は、源満仲の子であり河内源氏の祖、源頼信にはじまります。先ほど触れたことを含めて源頼朝までの流れを一覧すると以下のようになります。

清和天皇(850-881)
貞純親王(873-916)
源経基(894-961)
源満仲(912-997)
源頼信(968-1048/河内源氏の祖)
源頼義(998-1082)
源義家(1039-1106)
源為義(1096-1156)
源義朝(1123-1160)
源頼朝(1146-1199)

源満仲の後を継いだ源頼信の時代、鎌倉を本拠地としていたのは桓武平氏の平直方であり、関東は広い範囲にわたり桓武平氏が勢力を張っていました。

これは桓武平氏高望王流の祖である高望王が898年(昌泰元年)上総介に任じられ、国守である貴族は都にとどまることの多かった当時としては珍しく、子の国香、良兼、良将を伴い任地に赴き、定住したことによります。

その後、上総の周辺国、下総国、常陸国、相模国、武蔵国にも勢力を拡大し、武士団を形成していきます。武士団を形成したという点では、武家棟梁のはじまりと書いた源満仲と似ていますが、満仲や子の頼信が全国的な規模での棟梁であったのに対し、関東の一部に限定された地方的武士団であった点が異なります。ちなみに、新皇を名乗った平将門は高望王の孫にあたります。

後に源氏と主従関係を結び、源頼朝の鎌倉幕府創成に加わる、三浦氏、上総氏、土肥氏、畠山氏、千葉氏、梶原氏、大庭氏、秩父氏などの諸氏は坂東平氏と呼ばれます。

鎌倉は高望王の直系であり桓武平氏の当主である平直方が治め、屋敷を構えていました。直方は、平将門以来の大乱となった平忠常の乱(1028年)において討伐を命じられますが、3年に渡って忠常を討つことができず、代わって追討使となった源頼信が忠常を降伏させたことにより、坂東の桓武平氏を配下に組み入れました。後に頼朝の帰趨を左右した上総介広常(上総氏)や千葉常胤(千葉氏)は忠常の子孫にあたり、この時からの源氏累代の家人であったわけです。

追討の失敗もあったのか、平直方は源頼信の子であり、源頼朝が尊敬すべき先祖とした源頼義と娘の婚姻を進め、すでに全国的な武門の棟梁として武名を轟かせてた源氏と姻戚関係になります。

そして、直方は娘婿となった源頼義に鎌倉を譲ります。これが鎌倉が「鎌倉」となるはじまり、ということになります。

甘縄神明神社。飛鳥時代が終わり奈良時代が始まった710年(和銅3年)、関東の総追補使として鎌倉に住んだ染谷時忠が山上に神明宮を創建したことに始まる鎌倉最古の神社。<a href=源頼義はこの社に祈願して義家を授かり、義家も社殿を修復、頼朝も度々参拝しています。境内には安達盛長邸の石碑があり桜の名所でもあります。” width=”400″ height=”600″ class=”aligncenter size-full wp-image-7773″ />

甘縄神明神社。飛鳥時代が終わり奈良時代が始まった710年(和銅3年)、関東の総追補使として鎌倉に住んだ染谷時忠が山上に神明宮を創建したことに始まる鎌倉最古の神社。源頼義はこの社に祈願して義家を授かり、義家も社殿を修復、頼朝も度々参拝しています。境内には安達盛長邸の石碑があり桜の名所でもあります。

源氏山公園。前九年の役の後、奥州の覇者となっていた清原氏の内紛に介入した源義家は出陣にあたったこの地に旗を立て戦勝を祈願したことから源氏山と名付けられたといわれています。後三年の役は奥州藤原氏をうむこととなり、藤原氏は頼朝により征伐されます。源氏による3度の奥州合戦により東国武士団と源氏の主従関係は確固たるものとなります。現在源氏山には源氏山公園、葛原岡神社、化粧坂などがあり、桜と紅葉の名所として親しまれています。

源氏山公園。前九年の役の後、奥州の覇者となっていた清原氏の内紛に介入した源義家は出陣にあたったこの地に旗を立て戦勝を祈願したことから源氏山と名付けられたといわれています。後三年の役は奥州藤原氏をうむこととなり、藤原氏は頼朝により征伐されます。源氏による3度の奥州合戦により東国武士団と源氏の主従関係は確固たるものとなります。現在源氏山には源氏山公園、葛原岡神社、化粧坂などがあり、桜と紅葉の名所として親しまれています。

源頼義、鎌倉を東国支配の拠点とする

陸奥守・鎮守府将軍となった源頼義による奥州安倍氏討伐、前九年の役(1051-1062)の頃には源氏と東国武士団の確固たる主従関係が築かれていたといわれており、鎌倉はその拠点となっていきます。頼義は由比ケ浜に河内源氏の氏神である岩清水八幡宮を勧請し鶴岡八幡宮の元となった鶴岡若宮を創建(1063年)、源義家は後三年の役(1083-1087)にあたって源氏山において戦勝祈願を行い、頼朝の父義朝は上総御曹司と呼ばれ鎌倉市亀ヶ谷(現在扇ガ谷/寿福寺となっている場所)に館を構えました。

由比若宮(元八幡)。源氏山とともに源氏と鎌倉のなれそめを現在に伝えるのが由比若宮(元八幡)です。頼朝から遡ること4代、頼朝が自らの血統の祖として崇めた源頼義によって、源氏の氏神である京都の石清水八幡宮がこの地に勧請されました。

由比若宮(元八幡)。源氏山とともに源氏と鎌倉のなれそめを現在に伝えるのが由比若宮(元八幡)です。頼朝から遡ること4代、頼朝が自らの血統の祖として崇めた源頼義によって、源氏の氏神である京都の石清水八幡宮がこの地に勧請されました。

義家の嫡子義親が反乱を起こし平正盛(清盛の祖父)によって討伐されると、義家死後の内紛も重なり源氏の勢力は減退、平氏が台頭します。内紛を経て棟梁となった為義は頼朝の父である嫡男義朝を東国に送り地盤固めを託します。房総半島、三浦半島、相模など南関東の有力武士団を固く組織し、下野・武蔵などに勢力を張る叔父の源義国とも同盟を結び、北関東をも勢力圏におさめた義朝は東国を長男の義平に託し再び京へと戻り活躍します。

源頼朝登場

そしていよいよ「鎌倉」を創った鬼武者、源頼朝の登場です。頼朝は1146年(久安3年)尾張国熱田(現在の名古屋市熱田区)に生まれました。父は清和天皇を祖とする源氏の棟梁源義朝、母は熱田神宮大宮司藤原季範の娘由良御前という武家の棟梁として申し分のない血筋。幼名は鬼武者です。父義朝は保元の乱(1156年)では崇徳上皇方についた父為義らと袂を分かち、平清盛とともに後白河天皇方として勝利し正五位下、下野守、左馬頭となります。

父義朝の活躍のなか、頼朝は熱田神宮大宮司藤原季範の娘を母としたことから三男でありながら嫡男として京で育ち1158年12歳で皇后宮権少進、1159年には上西門院蔵人、従五位下右兵衛権佐に任じられます。軍事貴族として順調な出世街道を歩んでいた頼朝にここで転機が訪れます。1160年に起こった平治の乱において父義朝は平清盛らと戦い敗死。初陣した頼朝も捕らえられ伊豆蛭ヶ小島に流罪となり、挙兵する1180年(治承4年)まで20年間という長い月日を過ごすこととなります。

源頼朝は周囲の援助を受けてこの20年を穏やかに過ごしたといわれることがありますが、すんなり納得できません。源頼朝は日本最大の武家として源満仲以来君臨してきた源氏の当主ですから、幼いころよりその幼名鬼武者のとおり、一流の弓馬の士として英才教育を受けたであろうことは容易に想像がつきます。

しかも、摂関政治から院政期への過渡期を幼少時代に過ごし、父源義朝が平氏に敗れ討たれるという経験をしています。平治の乱に敗れ父とともに敗走し、一人はぐれて捕らえられた頼朝。死を覚悟して自分を裁く平清盛の姿をみたはずです。武門の棟梁として育てられ、後に日本を覆う武威の都鎌倉を創った日本一のつわものが、敗れて流罪となり安穏と過ごしたとは考えられません。

鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』にも都の情報を逐一仕入れていたことが書かれています。九条兼実の日記『玉葉』は源頼朝をこう記しています。「凡(おおよ)そ頼朝のていたらく、威勢厳粛にして、その性は強烈、成敗分明にして理非断決たり」。そんな源頼朝の姿をも考えると、父を殺し、源氏を没落させた平氏を滅ぼし、武家を都合よく使う朝廷をも抑えつける強大な武威の都つくりあげようと考えていたに違いない、と想像してしまいます。

『平治物語絵巻』。平治の乱に敗走する源義朝一行。一番上が義朝、右の子供は頼朝。

『平治物語絵巻』。平治の乱に敗走する源義朝一行。一番上が義朝、右の子供は頼朝。

平治の乱を制して源氏を抑えた平氏は平清盛を棟梁として勢力を拡大。清盛は武士として初めて太政大臣となりました。日宋貿易による莫大な富を背景に頼朝挙兵の数年前には「日本秋津島は僅かに66か国、平家知行国は30余か国、すでに半国に及べり」と平家物語に詠われる状態となります。後に挙兵する後白河法皇の第3皇子、以仁王も平氏により所領を没収されています。頼朝が挙兵する1180年(治承4年)には清盛の娘徳子の産んだ安徳天皇(2歳)が即位し、譲位した高倉天皇による院政が始まります。完全なる平氏の傀儡政権であり清盛を棟梁とする伊勢平氏一族は権力の絶頂に上り詰めます。そしてその専横から多くの反平氏勢力を結集してしまうことにもなります。

頼朝挙兵、鎌倉入り

以仁王と源頼政は専横を極める平氏に対して平氏追討の令旨を発し兵を挙げ、全国的な内乱となる治承・寿永の乱(1180-1185)へと発展します。1180年(治承4年)5月、以仁王と源頼政は敗死するものの平氏追討の令旨は源行家により全国に伝わり、8月になり頼朝が挙兵。伊豆国目代山木兼隆を滅ぼしますがその後石橋山の戦いに敗れ、頼朝は真鶴から海路を安房国へと逃れます。体制を立て直し上総介広常千葉常胤畠山重忠を加え大勢力となった頼朝軍は10月7日、源氏累代の地、鎌倉へと入ります。

鎌倉入りした頼朝は、頼義が勧請した鶴岡若宮(現 由比若宮)に参拝、義朝の館があった亀ヶ谷(現 寿福寺)を訪れます。10月12日に鶴岡若宮を現在の地に移し鎌倉の中心に据えると16日には平氏の大軍を迎え撃つため鎌倉を出発、20日、富士川において平氏と合戦となりこれを打ち破ります(富士川の合戦)。鎌倉に戻った頼朝はすぐさま常陸の佐竹秀義攻略に出陣、11月4日には秀義の本城金砂城を攻め落とします。これによって常陸国奥六郡を手中にした頼朝の元には叔父の志田義広、源行家や上野の新田義重など態度を保留していた源氏の諸将が集まります。富士川の合戦の勝利によって駿河、遠江を、佐竹攻略によって北関東を抑えた頼朝の鎌倉政権は最大のライバルであった木曾義仲を凌駕していきます。

同1180年(治承4年)12月には大倉の御所が完成、頼朝は311人もの御家人を従え御所に入ります。頼朝が鎌倉殿となった象徴的な日といってもよいでしょう。明けて1181年(養和元年)7月には現在の地に移された鶴岡若宮の社殿上棟式、1182年(養和2年)3月には鶴岡若宮の参道、段葛を造成するなど頼朝による鎌倉の基盤整備は進み、8月には嫡男頼家が誕生します。

『源平合戦図屏風』。室町時代から戦国時代に描かれたといわれています。いくつかの合戦が描かれ、中央は福原御所、右に生田の森の戦い、上に一ノ谷の合戦、左は須磨ノ浦の合戦です。狩野元信作と伝わります。

『源平合戦図屏風』。室町時代から戦国時代に描かれたといわれています。いくつかの合戦が描かれ、中央は福原御所、右に生田の森の戦い、上に一ノ谷の合戦、左は須磨ノ浦の合戦です。狩野元信作と伝わります。

平氏滅亡、義経謀反

木曽義仲は1183年(寿永2年)7月、京都を制圧し平氏は安徳天皇と三種の神器を奉じて都落ちします。義仲は皇位継承問題への介入や京都の治安維持の失敗などから次第に立場を悪化。対して頼朝は、平家横領の院宮領及び寺社領の返還などを約束し朝廷を喜ばせます。頼朝は京都を操らずして鎌倉政権の創成は難しいことを熟知していました。10月には寿永2年10月宣旨が下され、東海、東山両道(東国)の支配権を得ます。

朝廷と決定的に対立した義仲は1184年(元暦元年)1月、源範頼義経を大将とする頼朝軍との宇治川、粟津の戦いに敗れ討ち取られます。頼朝軍は続いて平氏追討へと向かい、2月一ノ谷に平氏を破り京都を義経に守護させ範頼率いる大手軍を鎌倉へと戻します。8月には再び範頼を大将とする平氏追討軍が鎌倉を出発。頼朝軍は正面から義経が攻め、範頼が平氏の退路を断つように九州へと上陸、1185年(文治元年)3月24日壇ノ浦の戦いにおいて平氏を滅亡させます。4月11日、父義朝を弔うために建立していた南御堂(勝長寿院)立柱の儀を行う頼朝の手に平氏追討の知らせが届きます。それを読んだ頼朝は鶴岡若宮の方角を向き感無量のまましばらく黙って座っていたといいます。平氏を倒した頼朝は1184年(元暦元年)10月には大江広元を別当として公文所(行政機関)を、三善康信を執事として問注所(裁判機関)を設置し武家政権の形を整えていきます。

反乱の根は深く、今度は腹違いの弟義経と叔父の行家が頼朝に対して挙兵します。1184年頃から義経の軽卒な言動が目立つようになります。頼朝に無断で任官したり平家追討の功を我がものと吹聴したようです。そしてその隙を後白河法皇と朝廷につけ込まれます。1185年(文治元年)10月、頼朝に愛想を尽かされた義経は後白河法皇から頼朝追討の院宣を得て挙兵するもののついてくる者はほとんどいませんでした。逆に義経・行家追討の院宣が下され、頼朝が同月29日に義経・行家討伐のため軍を率いて鎌倉を出発すると、これを聞いた義経は早々に都から逃亡したため頼朝は鎌倉へと戻ります。1186年(文治2年)5月行家は和泉国において討ち取られ、義経は藤原秀衝を頼り奥州平泉へと身を寄せます。

守護・地頭の設置=頼朝の軍事・警察権は全国に拡大

守護・地頭の設置は「鎌倉」にとって大きな契機でした。1185年11月12日、頼朝は大江広元と計り守護・地頭の設置を朝廷に申請。直後の15日には義経に加担していた院近臣高階泰経の使者が鎌倉に到着、頼朝に「日本第一の大天狗は、決して他の者ではない」(後白河法皇である)と一喝し、29日には守護・地頭の設置が認められます。これにより東海道・東山道(東国)に限られていた頼朝の軍事・警察権が全国に拡大します。義経に頼朝追討の院宣を出すという失策を犯した後白河法皇は頼朝の要求を呑まざるを得なかったのです。さらに頼朝は義経に味方した院近臣の処罰を要求、朝廷行政を合議制とし鎌倉に近い右大臣九条兼実を中心にすえるなど院政を骨抜きにしていきます。

源義経追討と奥州征伐

奥州へと落ち延びた義経とそれを匿う奥州藤原氏は頼朝にとって唯一残る強敵でした。義経追討の院宣に逆らい義経を匿う秀衝は1187年(文治3年)に死去、「義経を大将軍として国務にあたるように」との遺言を跡取りの泰衝に遺します。1188年(文治4年)10月、義経捕縛を命じる宣旨(天皇の命を伝える文書)を携えた使者が奥州に下向。頼朝は間髪入れず加えて藤原泰衝追討の宣旨を下すよう朝廷に催促します。1189年閏4月30日、泰衝は藤原基成の衣河館に義経を襲撃、義経は妻子を手にかけた後自害しました。

さすがに後白河法皇は頼朝の創成する「武威の王国鎌倉」を恐れ、頼朝が再三に渡り藤原泰衝追討の宣旨を要求しても「弓を収めるように」と宣旨を出しません。一応の筋をとおした頼朝は義経の首が6月に鎌倉の腰越に届いた後、わずか1か月で奥州に向かって出陣。恩賞を沙汰して影響力を残したい朝廷は追認するだろうという判断は当然あったでしょう。この奥州征伐には、鎌倉を源氏の拠点とした源頼義による前九年の役を再現することに大きな意味がありました。源頼義の流れをくむ頼朝の血統こそが「鎌倉」の棟梁であるという絶対の共通認識を御家人たちが強く持つことは「鎌倉」創成の最重要事項でした。頼義の武勇と吉例にならい戦う鎌倉の大軍は9月6日、鎌倉出陣から2か月足らずで泰衝を討ち取ります。

『天子摂関御影』の後白河法皇。

『天子摂関御影』の後白河法皇。

毛越寺に残る藤原秀衡像。

毛越寺に残る藤原秀衡像。

内乱平定、源頼朝上洛

上洛する頼朝の胸中にはどんな想いが去来していたのでしょうか。内乱を平定した頼朝率いる鎌倉上洛軍の偉容は京の人々の心中深く「鎌倉」の武威を刻みつけたに違いありません。奥州征伐を終え背後の脅威を取り除いた頼朝は翌1190年(建久元年)10月3日上洛軍を率いて鎌倉を出発します。注目の的であった先陣は畠山重忠、後陣は千葉常胤が務め、先陣が懐島(現 神奈川県茅ケ崎市)に着いても後陣は未だ鎌倉を出ずと『吾妻鏡』は伝えています。鎌倉の鶴岡八幡宮から茅ケ崎までは約15km。壮大な上洛軍であったことでしょう。

 11月7日京都に到着した頼朝は、滞在中8度に渡り後白河法皇と会います。信西、平清盛木曽義仲といった並みいる強者たちと渡り合った後白河法皇は頼朝の「鎌倉」創成にとって最大のキーマンでした。上洛中の頼朝は徹底して「天皇制」という「神話と制度」に対して恭順の姿勢を貫きます。1127年(大治2年)生まれの法皇はすでに63歳、対する頼朝は43歳、法皇には機嫌よく残り少ない治世を過ごしてもらえればよいと頼朝は考えたのかもしれません。頼朝は1か月余りを過ごし12月14日鎌倉に向けて出発します。

源頼朝、征夷大将軍となる

征夷大将軍を頼朝に与えることを後白河法皇は最後まで拒んだといいます。1192年(建久3年)3月に後白河法皇が崩御すると7月に頼朝は征夷大将軍に任ぜられ、10年に渡り続いた内乱の世もようやく落ち着きを取り戻します。この年、後の第3代将軍実朝が生まれ、内乱の戦没者を弔う大寺院永福寺が西御門に創建されます。鎌倉の落ち着きを感じるようなエピソードも多く残されています。夏には「海辺に涼風あり、頼朝は小坪の辺りに出て御家人たちとともに釣りや弓に終日遊び黄昏に帰った」、「頼朝が一条高能を連れて勝長寿院永福寺などに参り多古江河(現 逗子市田越川)の辺りを気ままに散策した」といった調子です。

富士の巻狩り

1193年(建久4年)5月には曾我兄弟の仇討ちで有名な富士の巻狩が大規模に催されます。この巻狩において頼朝の嫡男頼家が鹿を仕留め、喜んだ頼朝は政子に使者を送りますが政子は「武将の子なら当然のこと。軽々しく使者をだすべきではない」と冷めた対応をして使者は面目を失ったといわれています。源氏の血筋は源頼義、義家、義朝、為朝など「騎弓は神の如し」といわれる傑物たちのカリスマ的技能と武威こそが繁栄の礎であり、頼朝もまた豪腕の持ち主であったと言われています。後に尼将軍と呼ばれた北条政子とはいえやはり女性、命がけの戦場に赴くことなく他力に頼った政子には切実な理解は難しかったのでしょう。「御曹司は若干12歳で鹿を射止められた。さすが源氏のお血筋は違う」と言われることが重要なのです。

二度目の上洛、頼朝死去

天下創成を成し遂げた頼朝は1195年(建久6年)2月、東大寺供養のため2度目の上洛を行います。東大寺の再建についてはかねてから大檀那として助成を惜しみませんでした。東大寺供養という国家的事業に唯一無二の役割を果たし、鎌倉の大軍を率いその武威を改めて示したこの上洛は頼朝が新しい「鎌倉」という天下を創成したことを人々に印象づけたことでしょう。鎌倉に戻った頼朝はいち早く挙兵に呼応し命を捧げた三浦義明のために自ら建立した満昌寺に参拝し「義明は忠功無二の旧臣であり、今日墓前に立つと生前の姿を思い出す。御霊明神として敬うように」と命じました。義明の満昌寺を参拝した年の年末、相模河の橋供養において落馬し病となった頼朝は明けて1199年(建久10年)1月13日に死去します(享年53歳)。死因は落馬とも糖尿病とも言われ、遺言はこう伝えられています。「頼朝の命運はすでにつきた。千万をいとおしみ、大名・高家に惑わされず畠山重忠をもって日本国を鎮護すべし」。

満昌寺。三浦氏の居城であった衣笠城の近くにあります。源頼朝が三浦義明の菩提を弔うために建立したのが始まりです。三浦義明の首塚や国の重要文化財となっている三浦大介義明坐像などがあります。

満昌寺。三浦氏の居城であった衣笠城の近くにあります。源頼朝が三浦義明の菩提を弔うために建立したのが始まりです。三浦義明の首塚や国の重要文化財となっている三浦大介義明坐像などがあります。

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