畠山重保邸跡と墓塔

目 次

畠山重保邸跡と墓塔

(はたけやましげやすていあととはか)

名将 畠山重忠の長男

由比ケ浜に近い一ノ鳥居の側に石碑と宝篋印塔があります。名将畠山重忠の長男、畠山重保の屋敷跡/墓所といわれています。讒訴により謀反の疑いをかけられ、この場所で殺されました。

エリア由比ケ浜・材木座
住 所鎌倉市由比ケ浜2-1089
アクセス「鎌倉駅」下車、徒歩10分

畠山重保邸跡と墓。一ノ鳥居の側、鎌倉駅に向かって左手の歩道にあります。石碑が1つ、石塔が2つあります。

畠山重保邸跡と墓。一ノ鳥居の側、鎌倉駅に向かって左手の歩道にあります。石碑が1つ、石塔が2つあります。

鎌倉市内有数の大型宝篋印塔

由比ケ浜大鳥居といわれ、若宮大路由比ケ浜の近くにある一ノ鳥居、鶴岡八幡宮に向かって左側の歩道に屋敷跡の石碑、墓所と刻まれた宝篋印塔があります。宝篋印塔は高さ3.4mを超え、市内でも有数の大型の宝篋印塔であり鎌倉市指定有形文化財に指定されています。

畠山六郎重保墓塔と伝えられ、塔の基礎部分には「明徳第四 発酉霜月三 日大願主 比丘道友」と刻まれています。明徳4年は室町時代の1393年、1205年(元久2年)に謀殺された重保を偲んで建てられたものといわれています。

畠山父子の人望とカリスマ性

畠山重保は源頼朝の片腕として文武を極めた名将、畠山重忠の長男です。重忠は頼朝の遺言に後を託された程の人物でした。遺言はこうです「頼朝の命運はすでにつきた。千万をいとおしみ、大名・高家に惑わされず畠山重忠をもって日本国を鎮護すべし」。

畠山父子の人望とカリスマ性に危機感を抱いたのでしょうか。直接的には、武蔵国を手にしたい北条時政と武蔵国司だった畠山重忠の対立があったとされています。

1204年(元久元年)、将軍実朝の御台所を迎えるために京に赴いた重保は、京都にいた北条時政の後妻牧ノ方の娘婿、平賀朝雅と酒席において口論となり、これを根に持った朝雅と牧ノ方によって讒訴され、ついに第3代将軍源実朝も抗しきれず父重忠は二俣川、子の重保はこの場所にあった屋敷において討ち取られました。

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