平家滅亡

 1183年(寿永2年)7月、木曾義仲に攻められ平家は安徳天皇と三種の神器を奉じて都落ちします。京都を制圧した義仲でしたが、皇位継承問題への介入や京都の治安維持の失敗などから次第に立場を悪化させます。着々と鎌倉を創り上げる頼朝は、朝廷に対して平家横領の院宮領及び寺社領の返還、降伏したものは斬罪にしないなどの申状を送ります。京都の貴族社会で育った頼朝は、京都を操らずして鎌倉政権の創出は難しいことを熟知していました。

 10月にはいわゆる寿永2年10月宣旨が下されます。朝廷は東国における荘園公領の年貢納入を頼朝に保証させるかわりに、東海、東山両道(東国)の支配権を認めます。さらに平治の乱以来の頼朝の流罪は赦免され、配流前の従五位下右兵衛権佐に叙せられます。これにより、鎌倉を拠点にした頼朝の政権は東国の支配権を得、形の上では謀反人であった頼朝は軍事貴族としても復活したことになります。

 京都と鎌倉、寿永2年10月宣旨を始め頼朝が鎌倉政権をどう考えていたかについては、諸説があります。「頼朝は上洛を望んだが、従う関東の諸勢力は東国政権を望んだ」、「この宣旨によって、権利を得て立場を回復したものの朝廷に取り込まれた」などです。それぞれ歴史家の解釈には魅力があります。しかしその上で、頼朝ほどの傑物が天下を目指さなかったとは考え難いものがあります。

 頼朝は京都の朝廷に対して武威の都である「鎌倉」という新たな概念を創出していったのだと時空ロードは想像します。大化の改新(645年)から数えて約500年続く京都の朝廷を中心とする律令制度という日本の支配構造を、自分一代において「鎌倉」へと変えられるとは思っていなかったでしょう。まずは日本の武家を集権する政権基盤を確立させる。それには朝廷に呑み込まれやすい京都ではなく、源氏累代の地「鎌倉」に創出する。そして時間をかけて日本の主権をとっていくという壮大な構想であったと思うのです。

 後白河法皇との確執を深め閏10月の水島の戦いでも平家に敗れた義仲は朝廷と決定的に対立します。そして1184年(元暦元年)1月、源範頼義経を大将とする頼朝軍との宇治川、粟津の戦いに敗れ討ち取られます。頼朝軍は続いて平家追討へと向かいます。2月に一ノ谷に平家を破り京都を義経に守護させ、範頼率いる大手軍を鎌倉へと戻します。8月には再び範頼を大将とする平家追討軍が鎌倉を出発。頼朝軍は正面から義経が攻め、範頼が平家の退路を断つように九州へと上陸、1185年(文治元年)3月24日壇ノ浦の戦いにおいて平家を滅亡させます。4月11日、父義朝を弔うために建立していた南御堂(勝長寿院)立柱の儀を行う頼朝の手に、平家追討の知らせが届きます。それを読んだ頼朝は鶴岡若宮の方角を向き感無量のまましばらく黙って座っていたといいます。