目 次

鎌倉幕府の基盤整備

義経・行家の反乱

 頼朝は平氏、木曽義仲を討伐するとともに、1184年(元暦元年)10月には大江広元を別当として公文所(行政機関)を、三善康信を執事として問注所(裁判機関)を設置し頼朝を中心とした武家政権の形を整えていきます。『吾妻鏡』1185年(文治元年)4月15日の項に注目すべき記述が現れます。「功績なく、頼朝の推挙なく官職に任官していることを頼朝は憂い、厳しく戒めるとともにこれを犯した御家人は鎌倉に戻ることを禁じた」という内容です。頼朝は鎌倉を新たな武家の都とするために、終始この考えを貫きます。京都に育った頼朝は朝廷の権威という絶大な力に呑み込まれる事の怖さを熟知していたのでしょう。自らも叙目・任官する度に即座に返上し「元」となっています。征夷大将軍についてもそのようにしています。

 義仲、平氏と大きな敵対勢力を討ち取った頼朝でしたが日本全国に広がった内乱は根深く、今度は腹違いの弟義経と叔父の行家が反乱を起こします。1184年頃から『吾妻鏡』に義経の軽卒な言動に関する記述が目立つようになり、そこを権謀術数に優れた後白河法皇と朝廷につけ込まれます。頼朝が再三御家人に対して無断で叙目や任官をしてはならないと戒めたのは、鎌倉を守ることが御家人を守る事であり、そのためには400km超という実際の距離と「京都/朝廷」と「鎌倉」との概念の距離感の双方が必要だからです。

 1184年8月17日に京都の義経から頼朝に書状が届きます。「後白河院の強い要望で固辞できず頼朝に無断で左衛門少尉、検非違使に任官した」という言い訳の書状でした。これがいかに「鎌倉」にとって危険なことかを理解できなかったところに義経の“隙”がありました。さらに義経は頼朝の腹違いの兄弟ですから、その影響力の大きさからいってもは一般の御家人とは比較になりません。

 1185年(文治元年)6月、義経は平氏追討は自分一人の功であるとか関東に怨みのある者は自分に従うようになどと言動し所領を没収されます。10月には密かに後白河法皇から頼朝追討の院宣(院司が上皇または法皇の命令を受けて出す文書)を得て挙兵するもののついてくる者はほとんどいませんでした。勝長寿院の開堂供養が盛大に行われた10月24日、頼朝は義経・行家討伐のため上洛すると告げ29日には鎌倉を出発、11月1日には駿河の黄瀬川に到着し京都の情報収集のためしばらく逗留する予定でしたが義経都落ちの報を聞き、8日には鎌倉へと出発します。これに先立ち6日には義経・行家追討の院宣が下されていました。1186年(文治2年)5月には行家が和泉国において討ち取られ、1187年(文治3年)2月、義経は藤原秀衝を頼り奥州平泉へと身を寄せます。

守護・地頭の設置

 1185年11月12日、頼朝は大江広元と計り守護・地頭の設置を朝廷に申請。直後の15日には義経に加担していた院近臣高階泰経の使者が鎌倉に到着、頼朝の元を訪れ後白河法皇が頼朝追討の院宣を下したことについての言い訳を伝言すると、頼朝は「日本第一の大天狗は、決して他の者ではない」と一喝、11月29日には守護・地頭の設置が認められます。これは頼朝と「鎌倉」にとって大きな契機となります。全国に守護・地頭を設置し田地の支配や兵糧米の徴収をおこなうこととなり、これまで東海道・東山道(東国)に限られていた頼朝の軍事・警察権が全国に拡大したことになります。義経に頼朝追討の院宣を出すという失策を犯した後白河法皇は頼朝の要求を呑まざるを得なかったのです。

 頼朝の怒りを知った法皇は院政をやめて遁世するという手に出ます。清盛や義仲に幽閉された経験のある法皇は、しばらく遁世して時を過ごせばよいと考えたのでしょう。ここで法皇を武威によって引きずり降ろせば清盛や義仲の二の舞になる可能性があり、奥州藤原氏と義経が健在な中、新たな内乱を誘発することにもなります。ここで頼朝は朝廷人事への介入によって院政を骨抜きにする手を打ちます。義経に味方した院近臣の処罰を要求、さらに朝廷行政を合議制とし鎌倉に近い右大臣九条兼実を中心にすえます。院に近い摂政藤原基通と兼実のふたりの中心人物が並立していましたが、後に基通をおろし兼実を摂政にします。

 京都から400km以上離れた坂東の鎌倉にどっしりと構える頼朝の武威は、この頃に至り法皇を一喝し要求を呑ませる強大な力となっていました。王朝と都に権力が集中していたこれまでの日本の支配構造にはなかった「鎌倉」という新たな概念が頼朝によって創出されたのです。朝廷にとって「鎌倉」は恐ろしい存在だったはず。頼朝が京都にいればいつでも会って密談でき、王朝権力を駆使した京都得意の権謀術数を思うままにふるえたでしょうが、頼朝は遠く離れた鎌倉から睨みつけているのですから。

 伊豆に配流された罪人として、反乱軍として戦ってきた頼朝は律令制度の内部へと戻り、一見して朝廷の一機関として組み込まれたかのように見せながら、着々と武威による「鎌倉」を強大なものへと仕立てていきます。それは36年後の1221年(承久3年)、北条義時が「鎌倉」の大軍をもって京都に攻め上り後鳥羽上皇を屈服させることに至り決定的に天下を併呑することとなりました。足利尊氏は室町幕府樹立宣言である「建武式目」の冒頭でこう言っています。「なかんづく鎌倉郡は、文治、右幕下(源頼朝)はじめて武館を構え、承久、義時朝臣天下を併呑す。武家においては、尤も吉土と謂うべきか」。

 鎌倉殿頼朝の権威が強くなるにつれて、全国の御家人や寺社、貴族などからの紛争や陳情が相次ぐようになり『吾妻鏡』にも頻繁に記述がみられます。1188年(文治4年)には京都より所領紛争等について縁故を頼った陳情があまりに多いため、頼朝は院より指示のない私的な関係を通じた場合は取り扱えないと伝えています。こういった所領紛争の他にも平氏によって焼き討ちされた東大寺大仏殿の修復に大檀那として協力するなど「鎌倉」の存在は多方面に大きくなっていきます。しかし未だ奥州には奥州藤原氏という強大な勢力が残っていました。

義経誅殺

 後白河法皇から頼朝追討の院宣を得て挙兵した義経でしたが、についてくる者はほとんどおらず手のひらを返した後白河法皇に逆に義経・行家追討の院宣を出され、頼朝の大軍が鎌倉を出発したと聞くと京都から逃亡。奥州藤原氏(藤原秀衝)を頼って平泉へと落ち延びていました。院宣に逆らい義経を匿う秀衝は1187年(文治3年)に死去、「義経を大将軍として国務にあたるように」との遺言を跡取りの泰衝に遺します。1188年(文治4年)4月、天野遠景らが当時日本の西の果てであった貴賀井島を平定し「鎌倉」の力及ばぬ地は藤原氏の治める奥州のみとなっていました。10月、義経捕縛を命じる宣旨(天皇の命を伝える文書)を携えた使者が奥州に下向。泰衝は翌1189年(文治4年)3月、朝廷に対して義経を探索し捕縛する旨の返書を送り、これを受けとった法皇は重ねて速やかに対処するよう命じた。これに対して頼朝は間髪入れず藤原泰衝追討の宣旨を下すよう朝廷に催促します。1189年閏4月30日、泰衝は藤原基成の衣河館に義経を襲撃、義経は妻子を手にかけた後自害しました。

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