大町釈迦堂口遺跡

目 次

大町釈迦堂口遺跡

おおまちしゃかどうぐちいせき

かつての大寺院跡か?

昔は北条時政邸跡といわれました。宅地造成等により貴重な史跡が失われることも多い鎌倉にあって、ほぼ自然に残っている貴重な遺跡です。

大町釈迦堂口遺跡にある切通し。永い年月と風雨が造った縞模様が見事です。

大町釈迦堂口遺跡にある切通し。永い年月と風雨が造った縞模様が見事です。

エリア大町・小町
住 所鎌倉市大町6丁目
アクセス衣張山登山道、山頂平場の石塔脇を入る
関連HPhttps://www.city.kamakura.kanagawa.jp/treasury/documents/maibun13.pdf

北条時政山荘跡ではなかった

大町にある釈迦堂口切通し周辺には数多く鎌倉時代の遺跡があり、昔は北条時政山荘跡(名越邸跡)といわれました。鎌倉で育った筆者もそのように教えられていました。

しかし、鎌倉市教育委員会による「平成20年度大町釈迦堂口遺跡発掘調査」により新たな事実が判明し、平成22年3月にその調査結果概要が公開されました。この原稿も「平成20年度大町釈迦堂口遺跡発掘調査の概要」を元に書かれています。上記「関連HP」の項に原本リンクを貼りました。

多彩な中世の遺構・遺物が出土(13世紀後半〜15世紀以降)

調査は平成20年7月末から12月初旬までの約4か月間行われました。調査により多数の遺構・遺物が発見され、その年代は13世紀後半〜15世紀以降のものであることがわかっています。

北条時政は保延4年(1138年)に生まれ、建保3年(1215年)に没していますから、北条時政山荘跡ではなかったということが判明しました。そのため、現在では「大町釈迦堂口遺跡」と呼ばれるようになっています。

大町釈迦堂口遺跡のある谷は名越ヶ谷といいます。名越というのは現在も鎌倉に残る地名ですが、鎌倉時代は現在の大町から材木座に至るかなり広い範囲を指していたそうです。そして、名越ヶ谷の谷内には名越山王堂跡、慈恩寺、木束寺、西門寺など多くの寺院等があったそうです。

平場には13世紀後半〜14世紀前半の建物跡(1間✕2間以上)や、地中に納められた常滑の壺やかわらけなどがみつかっています。建物の近くには玉石を敷いていた跡があり、庶民の住居というよりはより格式の高い建物であった可能性が指摘されています。火葬の跡や、周囲を取り巻くやぐら群から推測すると、「寺社等の施設であったと考えるのが妥当」と報告書では述べられています。

14世紀中頃〜14世紀後半には、東側に盛土造成が行われ平場が平坦化されました。また、土が掘ってあった場所からは骨の破片などが出土して火葬が行われていたことがわかっています。北西には数軒の建物跡がみつかりました。

15世紀以降にも平場の拡張と造成は行われていたようですが、13世紀後半〜14世紀後半にみられた平場中央の建物や火葬跡はなく、新たなやぐらも造られていません。人の生活の痕跡はあることから、それまでとは違う土地利用の可能性が指摘されています。

やぐら群

大町釈迦堂口遺跡には、昔から有名な日月やぐら唐糸やぐらなどがあり、この調査で新たに29基が発見され、総数は64基となりました。やぐらに設置された石塔のうち、地蔵やぐらのものが最も古く、14世紀前半のものです。報告書ではやぐら群について次のようなわかりやすい説明があります。
「おそらくこの場所では、14世紀前半から地蔵やぐらや唐糸やぐら日月やぐらがつくられ始め、14世紀中頃から後半にかけて築造の最盛期となったのでしょう。調査区西側の丘陵に存在する多くのやぐらはそのときつくられたと考えられます。」

鎌倉の宅地造成は進んでおり、西武グループによるハイランドなどのように大規模な史跡破壊も多いようです(ハイランドにお住いの方々には全く罪はありません)。そんな中、ほとんど自然に残された大町釈迦堂口遺跡は大変貴重な史跡ですから、大切に守ってもらいたいと思います。

行政には今回の大町釈迦堂口遺跡のように、北条時政名越邸の場所も調査を進めてもらえるとありがたいです。鎌倉の魅力はそういうところにあるのですから。

売却・造成の危機もあった

大町釈迦堂口遺跡のある場所は私有地であったことから、平成19年(2007年)不動産開発業者に売却され、宅地造成の計画が持ち上がりました。鎌倉市民の努力により市が上記のような調査を行ない、平成22年(2010年)に国の史跡に指定されました。市民の毅然たる行動に拍手です。

遺跡内には「私有地につき紙クズ、空カン等は、各自お持ち帰りください。国際自動車株式会社」という貼紙があり、東屋、灰皿などが整備されています。ハイキングコースの一部として、所有していた国際自動車さんが公開していたようです。

詳細はわかりませんが同社がすぐに売らず、こうして一定期間維持してくれたから、すばらしい状態で貴重な史跡が残ったのではないかと想像します。もし、昭和40年代に西武グループのような企業に売却されていたら、即座に宅地造成などが施され、あっという間に破壊されていたのではないかと思います。

現在は裏道利用しか訪れる方法はありません

現在、表側からは入れないようになっています。これは、市による調査や史跡としての整備を待っている状態なのだと思います。少しでも早く、整備・公開されるよう期待しています。新しいお店や整備したての史跡より、寂れた遺構ははるかに魅力的ではありますが、指令され、整備されていないと、またぞろ宅地造成などの危機がまた訪れることになってしまいます。

整備中ということで正面からは入れません。しかし、裏道といいますか、衣張山ハイキングコースの途中、獣道のような道を通っていくことができます。

ただ、道が悪いためお薦めとはいえません(立ち入ってよいのかどうかの判断もある?)獣道については、写真にて案内させていだだきます。もしいかれる場合にはご自身の責任において入られてください。数年前にその獣道を確認のため訪れた際には、立ち入り禁止の表示はありませんでした。

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