源頼朝を助け鎌倉幕府の大勢力となった雄族・三浦氏

源頼朝による武威の王国「鎌倉」創成にとって三浦氏は大きな力となりました。三浦氏の祖、村岡(三浦)平太夫為通は源頼義に従って前九年の役を戦った功により1063年(康平6年)源頼義より三浦の地を与えらたことから三浦姓を名乗り、衣笠城を築きました。

そのため、満昌寺近辺には三浦氏に関連する史跡が点在しています。

三浦氏の代表的な人物

三浦為通(1010?-1083?)

三浦氏の祖とされます。桓武天皇の孫、高望王が平高望と平性を名乗り、その子平良文の曾孫、平忠通の子が三浦為通。上述の通り源頼義から前九年の役の功により三浦の地を与えられました。

三浦為継(生没年不明)

為通の子。源義家による後三年の役に従い功を立てた。

三浦義継(1067-1159)

相模国三浦郡を治め三浦介を称し在庁官人として活躍。その後相模介となり、相模国の東側と安房地域に大きな勢力を張りました。

三浦義明(1092-1180)

義継の嫡男。次男で後継ぎの義澄を伴い、保元・平治の乱(1156・1160)を源義朝に従って戦いました。平治の乱で源義朝方は敗れ、義明は京都から落ち延びて三浦に戻ります。以後、大番役のために上京する際に伊豆に配流となっていた源頼朝を訪ねます。頼朝が挙兵するとこれに応じますが、石橋山の合戦において頼朝が敗れると衣笠城の籠城戦を戦い、頼朝を助けよと一族を安房国に逃し一人老身を捧げました。

三浦義澄(1127-1200)

義明の次男。義明の後を継いだ。源頼朝の中心的勢力の一人として治承・寿永の乱を戦い、鎌倉武家政権成立後は宿老として重要な役割を果たします。頼朝の死後、頼家の代からは十三人の合議制の一人となって幕政を支えました。

三浦義村(?-1239)

義澄の嫡男。三浦一族の長として幕政に重きをなし、評定衆をつとめるなど活躍しました。

三浦泰村(1184-1247)

義村の次男。武勇に優れ、父義村とともに承久の乱を戦った。執権北条泰時から泰の一字をうけたのみならず、泰時の娘を娶ります。1238年からは評定衆の一人となり幕政に重要な位置を占めます。源実朝暗殺後、摂関家からまねかれ第4代将軍となった九条頼経と親密となり、弟の光村が第5代将軍九条頼嗣に近づき、北条氏に敵対視されるようになり、1247年(宝治元年)泰村は挙兵し、北条時頼、安達景盛と戦って敗れ一族とともに法華堂の地で自害しました。

三浦氏の関連史跡