頼朝死去
8月、頼朝はいち早く挙兵に呼応し命を捧げた三浦義明のために自ら建立した満昌寺に参拝し「義明は忠功無二の旧臣であり、今日墓前に立つと生前の姿を思い出す。御霊明神として敬うように」と命じた。今日の我々が想像する「武士」は江戸時代につくられたものであり、当時の武士は職能人としての存在が強くドライな感覚を持っていました。だからこそ三浦義明や畠山重忠のように源氏累代の家臣として厚い忠義と武勇をあわせもつ者に対して頼朝は特に深い信頼を寄せています。
義明の満昌寺を参拝した年の年末、頼朝は相模河の橋供養において落馬し病となります。明けて1199年(建久10年)1月13日、源頼朝は死去します。死因は落馬とも糖尿病とも言われています。遺言はこのようだったと伝えられています。「頼朝の命運はすでにつきた。千万をいとおしみ、大名・高家に惑わされず畠山重忠をもって日本国を鎮護すべし」。