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鎌倉の歴史を読む
鎌倉は1192年(建久3年)、初めて武家政権が誕生した場所です。日本の統治構造に「鎌倉」という新たな形を創ったのは源頼朝(1147-1199)でした。以後この概念は室町、江戸と引き継がれて現在まで大きな影響を与えています。
① 頼朝前夜
710年(和銅3年)〜1179年(治承3年)
710年、行基によって甘縄神明神社が開かれます。その後、1030年に頼朝から遡ること4代の源頼義が鎌倉を領地としたことから鎌倉は河内源氏の拠点となっていきます。
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② 頼朝挙兵~鎌倉入り
1180年(治承4年)〜1182年(寿永元年)
いよいよ頼朝が平家打倒の兵を挙げます。一度は石橋山合戦で破れるものの、再度父義朝以来の関東の源氏勢力を束ね平家方を撃破。鎌倉へと入ります。鎌倉殿、頼朝の誕生です。
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③ 平家滅亡
1183年(寿永2年)〜1185年(文治元年)
頼朝の命を受けた弟たち、源範頼・義経は西国・鎮西にて兵を整える平家を攻め、壇ノ浦に滅亡させ宿願を果たすとともに、木曽義仲追討の宣旨も受けこれも討ち取ります。
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④ 鎌倉幕府の基盤整備
1185年(文治元年)〜1189年(文治5年)
鎌倉幕府の創成期です。頼朝のグランドデザインが理解できずに謀反を起こした義経や行家を追討していきます。守護・地頭の設置など朝廷とのせめぎ合いにも注目したいところです。
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⑤ 奥州合戦
1189年(文治5年)〜1190年(建久元年)
義経を棟梁に頼朝と戦えという藤原秀衝の遺言を実行できなかった子の泰衝は頼朝の圧力に負けて義経を誅殺。頼朝は謀反人義経を庇った泰衝を許さず、奥州征伐を成し遂げます。
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⑥ 頼朝上洛
1190年(建久元年)〜1191年(建久2年)
後白河法皇の要請により頼朝が大軍を率いて上洛。法皇との会談は幾度にも及びました。上洛とともに引き続き鎌倉幕府の基盤整備に尽力することとなります。
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⑦ 頼朝、征夷大将軍となる
1191年(建久2年)〜1198年(建久9年)
最後まで頼朝の征夷大将軍に反対していた後白河法皇が死去し、すぐに頼朝は征夷大将軍となります。曾我兄弟による仇討ちも歴史に名高い事件です。
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⑧ 頼朝死去
1199年(建久10年)〜1213年(健保元年)
絶対的指導者である頼朝を失った鎌倉はにわかに慌ただしくなります。頼家が失脚し、実朝の時代となっていく中、御家人同士の権力争いは続き北条一族が生き残ります。
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⑨ 執権政治の始まりと承久の乱
1213年(健保元年)〜1221年(承久3年)
頼朝後の鎌倉を支配したのは執権北条義時でした。京の後鳥羽上皇は義経追討の院宣を発し兵を挙げますが鎌倉の大軍に破れ配流されます。日本の歴史が動いた日といえるでしょう。
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⑩ 執権政治の黄金時代
1224年(元仁元年)〜1260年(文応元年)
北条義時が死に泰時が執権に就任。寛喜の大飢饉を乗り越え、和賀江嶋の開港、御成敗式目制定などを経て執権は時頼へ。有力御家人三浦氏をも滅ぼし執権政治は盤石なものとなります。
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⑪ 元寇(文永、弘安の役)
1266年(弘長元年)〜1318年(文保2年)
日本侵略を目指す蒙古は朝鮮とともに2度の襲撃を行います。よく神風で勝ったと言われますが、史実を追えば結束した御家人たちによって撃退されたことがわかります。
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⑫ 鎌倉幕府滅亡
1324年(元享4年)〜1333年(元弘3年)
承久の乱では朝廷の倒幕軍を返り討ちにした鎌倉は、後醍醐天皇による倒幕計画も二度までは防ぎましたがいよいよ最後を迎えます。新田義貞らに攻められ、東勝寺において北条一族は滅亡します。
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