頼朝上洛
鎌倉にどっしりと構え「鎌倉」という武威を着々と創りあげる頼朝。木曾義仲、平氏一門、甲斐源氏の武田信義、源義経・行家と次々と内乱の諸勢力を屈服させ、必要とあらば後白河法皇を一喝して守護・地頭の設置を認めさせたり、疾風のように奥州出陣を強行してこれを平定する。頼朝という時空ロードを歩いてみると、これぞまさに風林火山と言わざるを得ません。後白河法皇や朝廷にとって遠い鎌倉にいる頼朝は、これまでその権威で日本中の武家を右往左往させてきた京男たちが初めて経験する恐怖の鬼武者であったことでしょう。
背後にある脅威、奥州藤原氏への警戒から後白河法皇による再三の上洛要請に応じられなかった頼朝は、奥州征伐を終えた翌年の1190年(建久元年)10月3日、恐らく史上最大最強の上洛軍を率いて鎌倉を出発します。注目の的であった先陣は畠山重忠、後陣は千葉常胤が務め、先陣が懐島(現 神奈川県茅ケ崎市)に着いても後陣は未だ鎌倉を出ていなかったと『吾妻鏡』に書かれています。鎌倉の鶴岡八幡宮から茅ケ崎までは約15km。壮大な上洛軍であったことがわかります。じっくり時間をかけて上洛した頼朝は11月7日京都に到着、後白河法皇を始めとする朝廷関係者から一般市民に至るまで多くの見物人が賀茂川の河原に押し掛けたといわれています。
上洛中の頼朝は8度に渡り後白河法皇と会見します。平清盛、木曽義仲、藤原泰衝といった並みいる強者たちと渡り合い、力関係の中を巧みに泳ぎ最後は必ず勝者とともにあった後白河法皇は頼朝にとっても最大の難敵であり同時に頼朝の「鎌倉」創造において最も必要な存在でした。後白河法皇としても坂東の鎌倉にこれまでにない強大な武威の王国を築く頼朝との関係は最大の重要事項だったでしょう。
「天皇制」というのは唯一無二の制度であり「朝廷」であれ「鎌倉」であれ、皇室ですらこれを守りつつ最大限に利用すべき「制度」であり「現在進行中の神話」であることを頼朝は知悉していました。対抗勢力をすべて平らげた頼朝は、天皇制内での発言力を高めていくため上洛中は徹底的に勤王の志士であり優れた朝臣として振る舞います。二人の巨頭がどのような話をしたのかは定かではありませんが、慈円の書いた『愚管抄』にはこのようなことが記録されています。「私は自分以上に皇室を尊重しています。上総介広常は挙兵以来の功臣ですが、皇室のことを気にしすぎなくとも坂東にいれば皇室は指一本ふれらないのだというように皇室を軽んじる謀反心の持ち主でした。こういう家臣がいると神仏の後加護も得られまいと思い、広常を殺しました。これこそ私が皇室を尊重している証なのです」。
この前後「天下が治まったいま、何事も法皇様の仰せに従います」と頼朝が手紙を出せば、法皇もまた「頼朝の勲功は例のないほど大きい。何か国でも知行すればよい」といったようにこれまでの峻険とした緊迫関係は一見して穏やかなやりとりに代わります。両者の胸中にはまだまだ様々な思惑があったことと想像しますが基本路線としては一致を見たのでしょう。1127年(大治2年)生まれの法皇はすでに63歳、1147年(久安3年)生まれの頼朝は43歳、法皇には機嫌よく残り少ない治世を過ごしてもらえればよいと頼朝は考えたのかもしれません。11月7日に京都に到着した頼朝は1か月余りを過ごし12月14日鎌倉に向けて出発、各地に逗留しながら12月29日鎌倉に到着しました。
明けて1月28日には由比浦(由比ケ浜)にて海水を浴び浄衣に着替え、二所詣に向かいます。頼朝はこれに限らず大変信心深い人物でした。伊豆配流時代には法華経の読誦を欠かさず、鎌倉入りしてまず最初に鶴岡若宮を移し、東大寺大仏殿の修復には大檀那として活躍した他、全国各地の寺社に対して手厚い気遣いを見せています。同年9月、大蔵観音堂(現 杉本寺)に参詣した頼朝は、風雨に晒され荒れ果てていた姿を哀れに思い准布200段を奉加しています。この年は3月に小町大路付近を火元とする鎌倉大火があり幕府御所、鶴岡若宮、北条義時邸など多くの家屋が焼失しました。