元寇(文永、弘安の役)
日本侵略を目指す蒙古は朝鮮とともに2度の襲撃を行います。よく神風で勝ったと言われますが、史実を追えば結束した御家人たちによって撃退されたことがわかります。
元寇(文永の役)
| 和暦 | 西暦 | 天皇/将軍/執権 | 日付 | 鎌倉の動向 |
| 弘長元年 | 1266年 | 亀山/惟康親王/政村 | 蒙古の使節が日本を訪れ国書を持参した。 | |
| 6月20日 | 北条時宗邸において「深秘の御沙汰」が行われた。宗尊親王の妻と僧良基の密通を受けたものだった。北条時宗、北条政村、金沢実時、安達泰盛が参加した。 | |||
| 7月4日 | 宗尊親王が将軍職を廃され京都に送還され、子の惟康親王が将軍に就任することとなった。 | |||
| 文永5年 | 1268年 | 亀山/惟康親王/時宗 | 1月 | 蒙古の使節が日本を訪れ国書を持参した。 |
| 3月5日 | 北条時宗が第8代執権となる。18歳だった。前執権政村は連署となった。 | |||
| 文永6年 | 1269年 | 亀山/惟康親王/時宗 | 2月 | 蒙古の使節が日本を訪れるが幕府は入国を許さず、使節は対馬の住民を拉致して帰国した。 |
| 9月 | 拉致した対馬の住民を護送する使者が対馬を訪れる。 | |||
| 文永8年 | 1271年 | 亀山/惟康親王/時宗 | 9月12日 | 日蓮、龍ノ口法難。佐渡配流。忍性を批判した日蓮は忍性と御家人により捕縛され処刑のため龍ノ口刑場(現神奈川県藤沢市片瀬)に送られるものの奇跡により危機を脱する。 |
| 文永9年 | 1272年 | 亀山/惟康親王/時宗 | 2月11日 | 2月騒動。反得宗勢力である名越時章・教時兄弟が誅殺される。 |
| 2月15日 | 2月騒動。六波羅探題南方をつとめていた北条時宗の兄、時輔が誅殺された。前将軍宗尊親王も出家した。 | |||
| 文永11年 | 1274年 | 後宇多/惟康親王/時宗 | 10月3日 | 蒙古軍が大小900の船団を率いて出航。 |
| 10月5日 | 対馬に上陸し島民の多くを殺害。 | |||
| 10月20日 | 蒙古軍が博多湾に襲来。日本軍は少弐景資を総大将として迎え撃った。対馬、壱岐、太宰府などにおいて激戦の末、蒙古軍を撃退した。 | |||
| 建治元年 | 1275年 | 後宇多/惟康親王/時宗 | 9月7日 | 服属を求める元の使者が到着。時宗は鎌倉に連行し龍ノ口(現神奈川県藤沢市片瀬)において処刑する。また元の襲来に備え、博多湾周辺に石築地を築かせた。 |
| 11月 | 鎌倉幕府は元の襲来を防ぐ目的での朝鮮出兵、高麗遠征計画をたて金沢実政が九州に下向した。 | |||
| 建治3年 | 1277年 | 後宇多/惟康親王/時宗 | 10月 | 十六夜日記の著者、阿仏尼が訴訟のために鎌倉へ下向。月影ヶ谷に居を構えた。 |
| 弘安2年 | 1279年 | 後宇多/惟康親王/時宗 | 8月20日 | 無学祖元が来日。時宗の要請によるもので、蘭渓道隆死後の建長寺住持となる。 |
元寇(弘安の役)
| 和暦 | 西暦 | 天皇/将軍/執権 | 日付 | 鎌倉の動向 |
| 弘安4年 | 1281年 | 後宇多/惟康親王/時宗 | 5月3日 | 蒙古軍の日本侵略軍が朝鮮を出発。 |
| 5月21日 | 蒙古軍、対馬に上陸。日本軍の激しい抵抗を受ける。 | |||
| 5月26日 | 蒙古軍、壱岐に上陸。 | |||
| 6月8日 | 志賀島に上陸した蒙古軍を日本軍が攻撃し、蒙古軍は敗走。 | |||
| 6月14日 | 蒙古軍、長門襲来。 | |||
| 6月29日 | 壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が攻撃。 | |||
| 7月2日 | 壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が再度攻撃。蒙古軍は平戸島に退却。その後鷹島へと主力を移動。 | |||
| 7月27日 | 鷹島沖に停泊していた蒙古軍船に対して日本軍が攻撃。 | |||
| 7月30日 | 台風襲来。蒙古軍の軍船が多く沈没・損壊する。 | |||
| 閏7月5日 | 蒙古軍は撤退を決定。10万以上という多くの兵を置き去りにして退却しようとするが、伊万里湾海上において日本軍の総攻撃を受け壊滅。 | |||
| 閏7月7日 | 鷹島に残された蒙古軍10万に対して日本軍は総攻撃しこれを壊滅させた。ここに弘安の役は日本軍の勝利によって終わった。 | |||
| 弘安5年 | 1282年 | 後宇多/惟康親王/時宗 | 3月1日 | 一遍が鎌倉入りを時宗に拒否され、藤沢にて布教を行う。 |
円覚寺創建
| 和暦 | 西暦 | 天皇/将軍/執権 | 日付 | 鎌倉の動向 |
| 弘安5年 | 1282年 | 後宇多/惟康親王/時宗 | 12月8日 | 元寇の戦没者供養のため時宗が円覚寺を建立。開山は無学祖元。 |
北条時宗死去
| 和暦 | 西暦 | 天皇/将軍/執権 | 日付 | 鎌倉の動向 |
| 弘安7年 | 1284年 | 後宇多/惟康親王/時宗 | 4月4日 | 北条時宗死去(34歳)。 |
| 7月7日 | 北条貞時が執権に就任。 |
霜月騒動
| 和暦 | 西暦 | 天皇/将軍/執権 | 日付 | 鎌倉の動向 |
| 弘安8年 | 1285年 | 後宇多/惟康親王/時宗 | 12月14日 | 頼朝流人時代から活躍した安達盛長の子孫であり有力御家人の安達泰盛と、北条得宗家の御内人であり内管領の平頼家が対立。安達泰盛一族が滅ぼされる。 |
| 正応2年 | 1289年 | 伏見/久明親王/貞時 | 9月14日 | 惟康親王が将軍職を廃位され、京都に送還される。粗雑な扱いによる送還に、親王は涙したという。 |
平禅門の乱
| 和暦 | 西暦 | 天皇/将軍/執権 | 日付 | 鎌倉の動向 |
| 正応6年 | 1293年 | 伏見/久明親王/貞時 | 4月22日 | 霜月騒動後に権力を握った内管領平頼綱が北条貞時の命令によって滅ぼされる。 |
| 永仁5年 | 1297年 | 伏見/久明親王/貞時 | 3月6日 | 永仁の徳政令。困窮する御家人を救済するため御家人の所領の売却・質入れを禁止し類する訴訟も取り上げないこととした。 |
| 正安3年 | 1301年 | 後二条/ 久明親王/師時 | 8月 | 北条貞時、円覚寺梵鐘を鋳造させる。鎌倉一の大鐘である。 |
| 8月22日 | 北条師時が執権に就任。 | |||
| 応長元年 | 1311年 | 花園/守邦親王/宗宣 | 10月3日 | 北条宗宣(大佛宗宣)が執権に就任。 |
| 応長2年 | 1312年 | 花園/守邦親王/宗宣 | 6月2日 | 北条煕時(大佛煕時)が執権に就任。 |
| 正和4年 | 1315年 | 花園/守邦親王/基時 | 6月2日 | 北条基時が執権に就任。 |
| 正和5年 | 1316年 | 花園/守邦親王/高時 | 7月10日 | 北条高時が執権に就任。 |
| 文保2年 | 1318年 | 後醍醐/ 守邦親王/高時 | 3月29日 | 第96代後醍醐天皇が即位。 |