目 次

執権政治の黄金時代

北条義時が死に泰時が執権に就任。寛喜の大飢饉を乗り越え、和賀江嶋の開港、御成敗式目制定などを経て執権は時頼へ。有力御家人三浦氏をも滅ぼし執権政治は盤石なものとなります。

北条泰時執権となる

和暦 西暦 天皇/将軍/執権 日付 鎌倉の動向
元仁元年 1224年 後堀河/泰時 6月13日 北条義時死去(63歳)。泰時が後をついだ。
6月28日 政子により北条泰時が新執権に指名された。
閏7月29日 北条義時の後妻伊賀氏が女婿一条実雅を将軍に、実子政村を執権に立てようと策略したが発覚し捕らえられた。
元仁2年 1225年 後堀河/泰時 7月11日 北条政子死去(69歳)。
10月4日 北条泰時、時房は新しい御所の候補地を視察した。
12月20日 北条義時邸の南にあった仮御所から宇都宮辻子の将軍御所への移転が行われた。
12月21日 評定衆による初の評議が行われた。将軍御所西侍の勤番を復活させた(鎌倉番役)。

寛喜の大飢饉(1229年〜1232年)と火災

和暦 西暦 天皇/将軍/執権 日付 鎌倉の動向
寛喜2年 1230年 後堀河/泰時 7月16日 ほとんど冬のような気候となり霜が降ったという。
8月6日 晩になり洪水が起き、河辺の民家が流失して多くの溺死者を出した。古老が未だこのような例は見た事がないといったという。
8月8日 大雨大風。草木の葉は枯れ冬のような気候となり穀物は損亡した。
寛喜3年 1231年 後堀河/藤原頼経/泰時 1月14日 火災。大倉観音堂(杉本寺)の西から出火し二階堂大路の人家が焼失した。
2月11日 足利義氏邸が焼失。放火の疑いあり。
3月19日 世は飢饉となり、百姓の多くが餓死した。泰時は伊豆・駿河両国の出挙米を施し飢えを救うよう命じた。
10月25日 火災により公文所が焼失。火は東は勝長寿院の橋、西は永福寺総門の内門に及んだ。源頼朝、北条義時の法華堂は本尊とともに灰となり人畜の焼死は数えきれず。放火の疑いありという。

和賀江嶋開港

和暦 西暦 天皇/将軍/執権 日付 鎌倉の動向
貞永元年 1232年 後堀河/藤原頼経/泰時 7月12日 勧請上人往阿弥陀仏は材木座に港を築くことを幕府に申請。泰時は喜び和賀江嶋の築港に協力することになった。
8月9日 和賀江嶋が開港した。

御成敗式目制定

和暦 西暦 天皇/将軍/執権 日付 鎌倉の動向
貞永元年 1232年 後堀河/藤原頼経/泰時 8月10日 50箇条からなる御成敗式目の編纂が終わった。今日以後、訴訟の是非は固くこの法を守り裁許するよう定められた。
文暦2年 1235年 四条/藤原頼経/泰時 1月27日 鎌倉中の僧徒の武装を禁止した。
嘉禎2年 1236年 四条/藤原頼経/泰時 8月4日 御所移転。宇津宮辻子御所から新造された若宮大路御所(現鎌倉市雪の下)に移った。
12月19日 泰時が新造した邸に移った。若宮大路御所の隣にあった。鶴岡八幡宮三ノ鳥居の正面付近にあったといわれている。
延応元年 1239年 四条/藤原頼経/泰時 12月5日 三浦義村死去。
仁治元年 1240年 四条/藤原頼経/泰時 1月24日 承久の乱において泰時とともに大将軍を務めた北条時政の子、北条時房が死去(66歳)。
10月10日 山内(現鎌倉市山ノ内)と鶴岡八幡宮を結ぶ道路の建設が決まる(巨福呂坂)。
11月30日 要港六浦港と鎌倉の中心街を結ぶ六浦道の建設が決定される。
仁治2年 1241年 四条/藤原頼経/泰時 4月5日 地の神にさわりがあるとして延期されていた六浦道の建設が始まる。泰時自ら現場を監督すると人が集まり土石を運んだという。
仁治3年 1242年 四条/藤原頼経/泰時 6月15日 北条泰時死去(60歳)。泰時の孫、経時が執権職を継ぐ。
寛元元年 1243年 後嵯峨/藤原頼経/経時 6月16日 深沢の地に八丈余の阿弥陀仏を安じた。勧請上人は浄光房。現在の鎌倉大仏とは異なり木製のものであった。
寛元2年 1244年 後嵯峨/藤原頼嗣/経時 4月21日 将軍藤原頼経の子頼嗣が元服し将軍職が譲位された。頼経は鎌倉に残った。
寛元3年 1245年 後嵯峨/藤原頼嗣/経時 4月22日 鎌倉において奉行に断りなき以下の事を禁じた。道を作る、軒先を路に出す、町家を作り路を狭める、小屋を溝上に造る、夜行する。
7月26日 頼嗣の御台所に経時の妹が迎えられた。

北条時頼執権となる

和暦 西暦 天皇/将軍/執権 日付 鎌倉の動向
寛元4年 1246年 後深草/藤原頼嗣/時頼 3月23日 経時邸において「深秘の御沙汰」(得宗私邸での少人数極秘会議)あり。経時の病は重く、幼少の子息にかわって弟の時頼に執権職を譲ることが決められた。
閏4月1日 前執権北条経時死去(33歳)。京都に飛脚が遣わされた。行程は3日とされた。

宮騒動

和暦 西暦 天皇/将軍/執権 日付 鎌倉の動向
寛元4年 1246年 後深草/藤原頼嗣/時頼 5月25日 北条義時の孫、北条朝時の子、名越光時は、前将軍藤原頼経と計って執権北条時頼を討とうとしているとの嫌疑をかけられて出家した。
6月13日 名越光時、伊豆国に配流される。
7月11日 藤原頼経、京都に送還される。

宝治合戦

和暦 西暦 天皇/将軍/執権 日付 鎌倉の動向
寛元4年 1246年 後深草/藤原頼嗣/時頼 9月1日 北条時頼は三浦泰村に、六波羅にいる北条重時の鎌倉招請について打診され拒否する。
宝治元年 1247年 後深草/藤原頼嗣/時頼 5月21日 三浦義村、独歩の余り厳命に背くとして、近日誅罰の沙汰があるまで謹慎を命じられた。鶴岡八幡宮の鳥居の前に立札が置かれた。
6月1日 時頼は近江氏信を使者として三浦泰村の元に遣わせ内々の旨趣を伝えた。泰村は今回の件は讒訴であると言った。しかし弓、鎧が用意されていたという。
6月5日 鎌倉に軍勢が集結し緊張が走るなか、北条時頼は外祖父安達景盛とともに三浦泰村を攻撃した。敗北した泰村、光村、毛利季光以下500人は頼朝の法華堂において自害した。
7月27日 長く六波羅探題だった北条重時が鎌倉に戻り、連署に就任した。
建長元年 1249年 後深草/藤原頼嗣/時頼 12月13日 時頼は裁判の迅速化をはかるため評定衆の下に引付衆を設置する。順に3人の頭人が任じられた。一番北条政村、二番北条朝直、三番北条資時。
建長3年 1251年 後深草/藤原頼嗣/時頼 5月15日 北条時宗誕生。
12月3日 幕府は鎌倉中の商業地域(小町屋)を定めた。大町、小町、米町、亀谷辻、和賀江、大倉辻、気和飛坂山上の7か所。また牛を小路に繋ぐことを禁じ小路の清掃を定めた。
12月26日 千葉氏の近親、了行法師、近江氏信、武蔵景頼、長久連らが謀反を企てたとして生け捕られた。前将軍藤原頼経が関与していたという。将軍頼嗣は廃されることとなった。
建長4年 1252年 後深草/宗尊親王/時頼 4月1日 後嵯峨上皇の皇子、宗尊親王が鎌倉に到着。稲村ケ崎から由比ケ浜を経て時頼邸に入った。
建長5年 1253年 後深草/宗尊親王/時頼 10月11日 幕府は炭や薪、萱木、藁、糠などの雑物の高値を問題視し価格を定め、強引に法外な安値で持ち去る押買を禁止した。また、近年和賀江津の材木に不法が多く寸法を定めた。
11月25日 北条時頼によって創建された建長寺ではこの日蘭渓道隆を導師として供養が行われた。丈六の地蔵菩薩を中尊とし、千体の地蔵菩薩像を安置した。
建長6年 1254年 後深草/宗尊親王/時頼 日蓮、鎌倉にて布教を始める。
康元元年 1256年 後深草/宗尊親王/長時 11月22日 赤痢を煩っていた時頼が執権を長時に譲った。時頼の子正寿丸(後の時宗)が幼いため眼代(代理)としての就任。武蔵国の国務、侍所別当及び鎌倉の邸を預けた。
正嘉元年 1257年 後深草/宗尊親王/長時 8月23日 鎌倉大地震。崖崩れ、地割れが起こり、神社仏閣や人家はことごとく大きな被害を受けた。
正嘉2年 1258年 後深草/宗尊親王/長時 10月16日 大雨と洪水。家屋が流れ溺死者がでた。
文応元年 1260年 亀山/ 宗尊親王/長時 7月16日 日蓮が『立正安国論』を著し、権力者であった前執権北条時頼に献じた。翌月、他宗の僧らによって松葉ヶ谷の草庵が焼き討ちされた。