目 次
鎌倉幕府の基盤整備
鎌倉幕府の創成期です。頼朝のグランドデザインが理解できずに謀反を起こした義経や行家を追討していきます。守護・地頭の設置など朝廷とのせめぎ合いにも注目したいところです。
義経・行家の反乱と討伐
和暦 | 西暦 | 天皇/将軍/執権 | 日付 | 鎌倉の動向 |
文治元年 | 1185年 | 安徳/崇徳 | 4月15日 | 関東の御家人が功績もなく頼朝の推挙なく、衛府や所司などの官職に任官していることを頼朝は憂い厳しく戒め、鎌倉に戻ることを禁じた。 |
4月21日 | 義経についていた梶原景時から合戦の経過と義経の不義を伝える書状が着く。範頼は千葉常胤や和田義盛と評議して進めたが、義経は頼朝の命を守らず我儘に動き人々の怨みを買っていた。 | |||
4月26日 | 平宗盛を始めとする捕虜が京都六条室町にある義経の弥私意に入った。後白河法皇も様子を見に出たという。 | |||
5月4日 | 頼朝、義経を勘当する。また、平氏の捕虜たちのことは最も重大な事案であるから罪名が決まるまで各人は勝手に鎌倉に帰ってはならないと命じた。 | |||
5月5日 | 義経は壇ノ浦合戦の後、九州を管轄する範頼の権限も奪い、配下の武士に対して恣意的な処罰を勝手に行い多くの人々を悩ませていた。 | |||
5月7日 | 義経の使者が義経の起請文(頼朝に異心なしという)を持って鎌倉に到着。大江広元が取り次いだ。 | |||
5月11日 | 先月27日、頼朝が従二位に叙されたことを伝える除書が鎌倉に到着した。 | |||
5月15日 | 義経から使者が着き去る7日平宗盛、清宗父子を護送して京を出、この日酒匂駅に着き明日鎌倉に入るという。頼朝は北条時政に宗盛らを引き取らせ義経には酒匂宿で待つよう命じた。 | |||
5月16日 | 平宗盛、宗清らが鎌倉に入った。宗盛、宗清は死罪とし、神鏡を救った時忠については死罪一等を減じるよう勅許があった。 | |||
5月19日 | 京都や畿内において治安が悪化。平氏の残党や関東の御家人たちが勝手に振る舞っているとのことに厳しく処断することが決定された。 | |||
5月20日 | 平時忠らに配流の官符が下された。目録は6月2日、鎌倉に到着した。 | |||
5月21日 | 頼朝は建立中の南御堂を視察。奈良より招いた大仏師成朝がそこに参上した。 | |||
5月24日 | 不義により鎌倉入りを許されず腰越に留まっていた義経は、大江広元を通じて詫び状を提出した。頼朝の返事は「追って考えよう」であった。 | |||
6月7日 | 平宗盛、頼朝の前に召される。直接対面せず、比企能員を通してやりとりする。 | |||
6月9日 | 酒匂付近に逗留していた義経は平宗盛を連れて京都へと帰った。また、平重衝は奈良へと送られた。 | |||
6月13日 | 平氏追討を自分一人の大功であるとか、関東に怨みのある者は自分に従えなどと言った義経は、与えられた平家没官24カ所の所領を全て没収された。 | |||
6月21日 | 義経、近江篠原に到着。平宗盛、清宗を誅殺した。 | |||
6月22日 | 平重衝、東大寺へ送られ翌日奈良にて斬首される。東大寺焼き討ちの首謀者であったことから衆徒が強く申し出ていたからであった。 | |||
8月12日 | 平氏とともに頼朝に弓をひいた叔父行家は、平氏滅亡後は西国に隠れ、頼朝の叔父であることを誇示し人々を厳しく責め立て、謀反の志ももっていた。よって追討の命が下された。 | |||
8月24日 | 鎮西から下河辺行平が戻った。平氏追討に関する数々の功により播磨守にするとの内諾を頼朝より得る。 | |||
8月30日 | 頼朝の父義朝とその忠臣鎌田正清の首が京都から文覚上人の弟子によって届けられた。 | |||
9月2日 | 南御堂の準備のため梶原景季らが使者として上洛。義経が先に配流が命じられた平時忠の婿となり、頼朝に逆らう源行家を支援しているという情報についても確認するよう命じられた。 | |||
9月18日 | 新藤中納言経房は、頼朝にとって廉直の忠臣であって常に様々なことを相談していた。 | |||
10月6日 | 梶原景季が京都から帰参。義経は病を装い行家追討の日を遅らせてきた。 | |||
10月9日 | 義経討伐について評議があり、土佐坊昌俊を遣わすことになった。皆が辞退した中、進んで引き受け頼朝からお褒めの言葉があった。 | |||
10月13日 | 義経は密かに後白河法皇に参り、頼朝追討の院宣を要求した。 | |||
10月17日 | 頼朝の命を受けた土佐坊昌俊が義経の六条室町亭を襲撃。義経と後方から加わった行家らの反撃に遭い退散した。 | |||
10月18日 | 義経は後白河法皇より頼朝追討の院宣を得て、頼朝に対して兵を挙げるがほとんど誰もついてこなかった。 | |||
10月19日 | 紛失していた後白河法皇のお護りの御剣を大江公朝が探し出して献上したという。これは源義朝が献上したもので、吠丸という源氏累代の名剣である。 | |||
10月21日 | 南御堂(勝長寿院)に本尊を納めた。総金色の阿弥陀仏で仏師成朝の作。 | |||
10月24日 | 勝長寿院の開堂供養。数多くの御家人が参加しすべてに美を尽くした供養となった。この日、頼朝は「明日、上洛する」と告げ出発できるものの名簿を求めた。 | |||
10月25日 | 義経・行家追討の第一陣を派遣。 | |||
10月26日 | 土佐坊昌俊らが鞍馬山山中にて義経方に見つかり六条河原にて梟首された。 | |||
10月29日 | 義経・行家追討のため頼朝が鎌倉を出発。東国の御家人から鎌倉から御供し、東山道、北陸道の武士たちは東山道を経由して近江・美濃等で合流するようにとの命であった。 | |||
11月1日 | 頼朝、駿河国黄瀬川に着く。京都の情報収集のためしばらく同地に逗留するとの頼朝の命があった。 | |||
11月3日 | 義経、行家は鎌倉の追跡を逃れるために甲冑姿で鎮西へと出発した。従うものはわずかに200騎ばかりだった。 | |||
11月5日 | 河尻(現兵庫県尼崎市)において多田行綱が義経らを発見し、交戦。義経は陣を破って逃亡。 | |||
11月6日 | 義経、行家は大物浜(現尼崎市大物町)から船出するも暴風により渡航できず。配下は四散し義経に従うものは伊豆有綱、堀景光、武蔵坊弁慶、静という妾の4人のみであった。 | |||
11月6日 | 行家、義経を捕らえよという院宣が諸国に下された。義経らはこの日天王寺辺りに宿泊しその後姿をくらました。 | |||
11月7日 | 義経は伊予守・検非違使の官職を解かれた。 | |||
11月8日 | 黄瀬川に逗留中の頼朝は、藤原重弘、一品房昌寛を使節として京に派遣した。義経らがの都落ちを聞いた頼朝は上洛を中止し、鎌倉へと戻ることとした。 | |||
11月10日 | 頼朝鎌倉到着。 | |||
11月12日 | 頼朝は守護・地頭の設置を朝廷に申請することを決めた。世が乱れているこの末世を平静とするため義経追討に際して行われた。大江広元の献策による。 | |||
11月15日 | 高階泰経の使者が鎌倉に到着した。頼朝追討の院宣を下したことの言い訳をしたので頼朝に「日本第一の大天狗は、決して他の者ではない」と一喝される。 | |||
11月17日 | 義経の妾、静が吉野山で捕らえられる。 | |||
11月22日 | 義経は雪深い吉野山を凌いで多武峰(現談山神社/奈良県桜井市南部)に着いた。 | |||
11月25日 | 義経に頼朝追討の院宣を出すなどの朝廷の行状に対して頼朝の不満を伝えるため、北条時政が上洛した。即、義経・行家ら追捕の宣旨が下された。 | |||
文治元年 | 1185年 | 安徳/崇徳 | 11月26日 | 先の高階泰経の伝奏によって頼朝が憤っていることを聞いた後白河法皇は泰経を籠居させた。 |
守護・地頭の設置
和暦 | 西暦 | 天皇/将軍/執権 | 日付 | 鎌倉の動向 |
文治元年 | 1185年 | 安徳/崇徳 | 11月29日 | 守護・地頭の設置が認められた。義経は多武峰の十字坊の手引きにより遠津河(現奈良県五条市付近)に逃れた。 |
12月6日 | 義経・行家に同意した者について詳細な報告が頼朝に届き、頼朝は処罰などについての名簿を藤原経房に遣わせた。さらに鎌倉の意を理解する藤原兼実には別途書状を送った。 | |||
文治2年 | 1186年 | 後鳥羽 | 1月2日 | 日暮れから降雪。頼朝と政子が甘縄神明宮に参拝。帰路、近くにある安達盛長邸に寄られた。 |
1月17日 | 左大臣藤原経宗は、頼朝追討の院宣を義経に与えるよう計らったという風聞により頼朝の機嫌を損ねていたため、義経・行家を京から出す為という申し開きを行い。頼朝も了解した。 | |||
1月21日 | 後白河法皇60歳を祝い頼朝から進物が送られた。また、去年より申請している平氏罪人の流刑を早く実行するよう奏上した。 | |||
1月29日 | 義経の所在いまだわからず。頼朝は尋問することがあるから静を鎌倉におくるようにと京都の北条時政に命じた。 | |||
2月6日 | 頼朝は、頼りにしていた一条能保を京都に帰した。鎌倉と京都との仲介役が不足しており急ぎ上洛させたものだった。 | |||
2月7日 | 平時実の上総配流が決定。大江広元が肥後国山本庄を与えられた。義経・行家の謀反に際して行われた処置がすべて適切であったと頼朝が感心したことによる。 | |||
2月26日 | 頼朝の男子、貞暁が誕生。母は頼朝の御所に仕えていた常陸介藤時長の娘。政子の嫉妬によって御産の儀式は省略された。 | |||
2月27日 | 頼朝追討の宣旨を計らった平氏縁故の摂政、藤原基通に変わって鎌倉に近い藤原兼実を摂政とするよう頼朝が朝廷に推挙した。先に一条能保を上洛させたため北条時政に鎌倉帰参を命じる。 | |||
3月1日 | 義朝の妾、静が母の磯禅師とともに鎌倉に到着し、安達清経邸に招き入れた。 | |||
3月13日 | 関東にある頼朝の分国について、戦乱に伴う年貢未納分については免除とするよう京都へ伝えた。また他の国についても同様にすべしと申し添えた。 | |||
3月23日 | 北条時政が後白河法皇に鎌倉帰参の報告をする。よく京都の治安を守ったため院に引き止められるも頼朝の命により帰国は決まっていた。 | |||
3月24日 | 後白河法皇より北条時政はよく務めたので帰参後を心配するとの意向があり、内々に頼朝が指示し時政の甥の時定に洛中の警備をさせることとした。 | |||
3月27日 | 北条時政が鎌倉に向けて京都を出た。 | |||
4月4日 | 以仁王の侍であった長谷部信連が奉公するため鎌倉に参上した。平氏が以仁王の御所に乱入した際に防戦し宮を三井寺に逃がすなど功があり頼朝は手厚く迎えた。 | |||
4月8日 | 静御前の舞。逃亡する義経の妾、静が鶴岡若宮にて頼朝、政子夫妻の前で舞を披露する。義経への想いを歌い頼朝の怒りを買うが許される。 | |||
4月13日 | 北条時政が鎌倉に到着。頼朝に京都の報告などを行った。 | |||
4月30日 | 京中が騒がしく収まる様子もないため頼朝は内府藤原実定を始めとする公卿らに、誠意をもって善政を施すよう伝えた。 | |||
5月14日 | 工藤祐経、梶原景茂、千葉常秀などが静の宿所に赴き酒宴を催し歌謡の技を尽くした。静の母磯禅師も芸を披露したという。 | |||
5月17日 | 大姫が南御堂(勝長寿院)に籠った。悪い気を退治するため14日間籠るという。 | |||
5月13日 | 源行家が討ち取られる。和泉国の日向権守清実の宅にいたところを北条時定らによって誅殺された。 | |||
5月25日 | 行家の首が鎌倉に到着した。 | |||
5月27日 | 大姫の命により静が南御堂(勝長寿院)において芸を披露して褒美を受けた。 | |||
6月1日 | 国力の疲弊により民衆が苦労しており、頼朝は相模国中の百姓らに米を与えた。 | |||
6月6日 | 京都一条河崎にある観音堂付近にて義経の母、常磐と妹らを捕らえる。 | |||
6月10日 | 頼朝の乳母、比企尼の娘である丹後内侍が病気になり、頼朝は少数の御供とともに見舞った。 | |||
6月16日 | 頼朝と政子は比企尼の家に渡った。ここは木陰がある納涼の地であり、御遊宴が一日中続いたという。 | |||
6月21日 | 義経・行家追討のため畿内近国に守護・地頭を設置したが、兵糧に名を借りて厳しい取り立てを行っていたため、一部の地頭らの設置を停止するとした。 | |||
6月28日 | 去る16日、北条時定が義経の婿、源有綱と合戦し敗れた有綱は自殺したとの一条能保の飛脚が着いた。 | |||
7月15日 | 勝長寿院において頼朝の両親をはじめとする霊を供養するための万灯会が行われ、頼朝と政子が渡った。 | |||
7月29日 | 静が男子を出産した。義経の子である。女子であれば母に与えられるところであったが男子であったため殺された。 | |||
8月15日 | 頼朝、鶴岡若宮参詣の際に西行と出会う。西行は平氏方に焼かれた東大寺再建費用の勧進のため奥州へと向かう途中だった。 | |||
9月7日 | 頼朝は由比や深沢(現長谷付近)を見物した。 | |||
9月16日 | 静の出産のため鎌倉に逗留していた静と母、磯禅師が頼朝に暇を賜り帰洛した。政子と大姫は憐れみ多くの貴重な宝を与えた。 | |||
9月22日 | 糟屋有季が義経の家人、堀景光を生け捕り佐藤忠信を誅殺した。 | |||
10月1日 | 藤原秀衝が陸奥国の今年の貢金450両を鎌倉に送って来た。頼朝を経て京都へと送るためである。 | |||
10月23日 | 頼朝の妾が生んだ若君(のちの貞暁)を長門景国が養育していることを知った政子は嫉妬した。景国が不興を蒙り若君を抱いて深沢の辺りに引き蘢った。 | |||
10月24日 | 頼朝は甘縄神明宮の宝殿に修理を加え、荒垣と鳥居を建てた。差配は安達盛長が行い、頼朝も自ら現場を監督した。 | |||
文治3年 | 1187年 | 後鳥羽 | 2月1日 | 隠れ住んでいる建礼門院を助けるため頼朝は没官領から2か所を与えることにした。 |
2月10日 | 京都にいられなくなった義経は伊勢、美濃を通り藤原秀衝を頼って、平泉へと身を寄せる。 | |||
2月23日 | 大姫の御願により相模国内の寺塔で読経が行われた。大姫は岩殿観音堂(現岩殿寺)に参詣した。 | |||
3月8日 | 義経と師壇の関係にあり、義経を庇護していた南都の周防得業聖弘が鎌倉に召し出され頼朝の尋問を受けた。その回答があまりに見事なことに感心され勝長寿院の供僧にすすめた。 | |||
3月10日 | 夜須行宗と梶原景時が対決問答を行った。壇ノ浦合戦において岩国兼秀、兼末らを生け捕った褒賞についてだった。景時が讒言の罪に問われ鎌倉中の道路を整備するよう命じられた。 | |||
4月1日 | 京都に頼朝の御宿所を建てることについて審議があった。しかるべき土地がなくとりあえず山科あたりの土地を所望した。 | |||
4月14日 | 大江広元の厩に雷が落ち屋根や柱が焼けた。しかし雷を受けた般若心経の中は鮮やかなままだった。広元は喜び頼朝の御所に経を持参し、仏法の力はまだ地に落ちていないと感涙を拭った。 | |||
4月18日 | 御家人の滝口清綱は武威を振りかざし国衙の命に従わず年貢を未納し院の召使いに暴言を吐いたため、頼朝から厳しく訓戒を受け、守れぬようなら当地から立ち退けと命を受けた。 | |||
4月29日 | 駅家雑事の勤めを伊勢の地頭、御家人たちの多くが怠っていると朝廷から報告があったので、頼朝はそれらの御家人に対して勤めを果たすよう厳しく定めた。 | |||
6月13日 | 頼朝の父義朝の乳母摩摩局が頼朝と面会し、昔のことを語り合って涙した。 | |||
6月21日 | 頼朝と親しい中納言藤原経房が大納言任官を希望し、頼朝の推挙を願い出た。頼朝はすぐにでも奏達したいが上席が何人もいるだろうから京都の形勢をよく判断して奏上するよう指示した。 | |||
7月4日 | 一条能保の姫が乳母として参内することとなった。 | |||
7月27日 | 1179年(治承3年)に焼失した信濃善光寺の再興事業に特に協力するよう頼朝の命があった。 | |||
8月12日 | 京中で強盗が頻発し、貴賤を問わず戦々恐々としているため勇士を遣わして特別に警護して欲しいとの後鳥羽天皇の命があったとの消息が一条能保より届いた。 | |||
8月15日 | 鶴岡若宮の流鏑馬において珍事があった。秀郷流の名人、諏訪盛澄は関東への参上が遅れ頼朝の勘気を蒙っていたが神業ともよべる流鏑馬を披露し罪を許された。 | |||
8月19日 | 洛中の狼藉について度重なる院宣があったので、頼朝は千葉常胤と下河辺行平に上洛を命じた。 | |||
9月4日 | 藤原秀衝が義経を匿っていることによって院の下文が陸奥に下された。秀衝は異心なしと弁明したが関東から派遣の雑色によると反逆の用意があるということだった。 | |||
9月20日 | 熊野別当湛僧の使者が法印に叙された後、報告を怠っていたのは申し訳ないと頼朝に綾30端を献じたが、頼朝は神社仏事に寄進するのは仏神へのもの。そちらからの進物は受けとれないといった。 | |||
9月22日 | 義経に味方した者たちが貴海島(現鹿児島県の硫黄島)に潜んでいるという情報があり追討の命が発せられた。 | |||
10月8日 | 千葉常胤と下河辺行平が京都から帰参。頼朝は両人の上洛により京が静まったと院が感心されたことはまことに頼朝の名誉であると感心して言った。 |
藤原秀衝死去
和暦 | 西暦 | 天皇/将軍/執権 | 日付 | 鎌倉の動向 |
文治3年 | 1187年 | 後鳥羽 | 10月29日 | 藤原秀衝が死去。義経を大将軍として国務に当たることを息子の泰衝らに遺言した。常陸国の鹿島社は頼朝が特に崇敬していたため、毎月の御膳料を常陸国奥郡に充てられた。 |
11月10日 | 頼朝が協力している東大寺再建の棟木がなかなかみつからなかったが、先日周防の杣において長さ13丈(約40メートル)の巨木が見つかったと佐々木高綱から鎌倉に報告があった。 | |||
11月15日 | 畠山重忠に反逆の兆しありと梶原景時が内々に申した。小山朝光らは重忠は廉直であり道理をわきまえているから謀反を企むような者ではないと訴えた。 | |||
11月25日 | 但馬の山口家任は義仲の後義経に仕えた。頼朝に理由を問われ源家累代の臣として源為義から所領を賜った。義経には仕えていないと訴えた。為義の下文を見た頼朝は所領を安堵した。頼朝が先祖の時代を重んじられることは、万事このようであったという。 | |||
12月1日 | 小山朝光の母、寒河尼は女性ではあるが大功があったため下野国寒川郡ならびに網戸郷を賜った。 | |||
12月16日 | 足利義兼の北方(頼朝の命で義兼と結婚した北条時政の娘)が病気で危篤となり政子が見舞った。病気は快癒した。 | |||
12月24日 | 頼朝と頼家が鶴岡若宮に参詣した。 | |||
文治4年 | 1188年 | 後鳥羽 | 1月1日 | 頼朝は通例通り鶴岡八幡宮に参詣。 |
1月6日 | 足利義兼が頼朝に垸飯を献じた。 | |||
1月18日 | 頼朝の二所(伊豆山、箱根山)参拝に備えて、甲斐、伊豆、駿河等の御家人に山中警備が命じられた。義経の逃亡先が不明であるため特に用心した。 | |||
1月20日 | 頼朝は伊豆山、箱根山、三島社に参詣。平賀義信、源範頼、源広綱、源頼兼、足利義兼、新田義兼、奈胡義行、里見義成、徳河義秀らが御供をした。300騎が従ったという。 | |||
2月2日 | 京都より所領の紛争等について縁故を頼って頼朝に多くの陳情があった。頼朝は、院より指示があれば裁決するが私的な関係を通じた場合は取り扱えない。世間に依怙贔屓といわれるだろうと伝えた。 | |||
2月21日 | 貴賀井島(鹿児島県鹿児島郡三島村硫黄島)追捕の件について、藤原兼実より停止の諫言があったので頼朝は延期とした。 | |||
3月10日 | 東大寺の重源上人から書状が届き、東大寺再建の寄進について頼朝に諸国の地頭らに沙汰を催促するよう陳情があった。 | |||
3月15日 | 鶴岡八幡宮の道場で大法会があり、頼朝が参上し武田有義(信義の3男)に道中の御剣を命ずると渋った。それにより頼朝の勘気を蒙ると逐電した。 | |||
4月3日 | 鶴岡八幡宮の臨時祭が行われ、流鏑馬が行われた。父の義常が誅殺され囚人として7年間大庭景能に預けられていた波多野有経は、特に抜群の技を披露し感心した頼朝は一村を与えた。 | |||
4月9日 | 義経捕縛を藤原泰衝に命ずる宣旨を持って奥州に下向する勅使が鎌倉に着いた。 |
貴賀井島平定
和暦 | 西暦 | 天皇/将軍/執権 | 日付 | 鎌倉の動向 |
文治4年 | 1188年 | 後鳥羽 | 4月17日 | 天野遠景らが西の果てである貴賀井島を平定。この日、頼朝が多忙の際は御教書には藤原親能の花押とすること、親能が花押を加えられないときは平盛時が行うことと定められた。 |
6月11日 | 藤原泰衝が京に納める物品を大磯において三浦義澄が差し押さえ頼朝に報告した。頼朝はたとえ義経の反逆に組していても公物の抑留はできないと伝えた。 | |||
6月19日 | 頼朝は春秋の彼岸と鶴岡八幡宮の放生会の間は東国において殺生、焼狩、毒流し(川に毒を流す漁)などは停止するよう定められた。 | |||
7月10日 | 万寿(頼家、7歳)が初めて鎧を着た。乳母夫の平賀義信、乳母兄の比企能員が助けた。 | |||
8月23日 | 波多野義景と岡崎義実が頼朝の御前にて領地に関する訴訟の対決を行い義実が負けた。頼朝は義実に対して百日間、鶴岡八幡宮と勝長寿院の宿直を命じた。 | |||
8月30日 | 頼朝の申請した殺生禁止の宣旨が鎌倉に到着した。とりわけて鳥獣や魚類を穫り尽くすような毒流しや焼狩を禁じた。先の禁令を破るものがおり再度の命であった。 | |||
9月21日 | 訴訟に負け、頼朝から鶴岡八幡宮と勝長寿院の百日間の宿直を命じられていた岡崎義実は郎従が箱根山の山賊、王藤次を捕らえたため許された。 | |||
9月22日 | 信濃国伴野庄の年貢を滞納している小笠原長清に対して幾度も朝廷から問い合わせがあり、頼朝は今後は特段の処罰を審議すると伝えると長清は年貢を納めた。 | |||
10月10日 | 勝長寿院に参詣した窟堂の聖阿弥陀仏房が路上にて急死した(84歳)。めずらしいことであった。この頃庶民が多く急死したという。 | |||
10月17日 | 謀反人義経を助けた比叡山の悪僧俊章はさらに謀反を企てているとの報があり、頼朝はその身柄を捕らえるよう在京の御家人に命じた。 | |||
10月25日 | 義経追討の宣旨の案文が鎌倉に到着した。正文は奥州に向かっているという。 | |||
11月9日 | 頼朝の母の弟である藤原祐範の子、僧・任憲が鎌倉に参上した。任憲の父祐範は頼朝伊豆配流の際にも郎従を遣わして送り、その後も毎月使者を送った。その功を思い頼朝は大変喜んだという。 | |||
11月18日 | 西風激しく降雪があった。明け方、大庭景能邸の庭に狐が死んでいた。景能は怪異として閉門したという。 | |||
11月27日 | 大庭景能の父景宗の墳墓が盗賊に暴かれ納めてあった宝物が盗まれた。ことの起こりは景能の庭に狐が死んでいた日であったという。 | |||
12月12日 | 大江広元の使者が京都から着いた。頼朝による閑院や六条殿の修理や造営に対して特に感心という後白河法皇の言葉を伝えた。また、三条局が広元の所領を望んでいると先に頼朝に伝えてきた。 | |||
文治5年 | 1189年 | 後鳥羽 | 1月22日 | 義経に関する処置等について頼朝は朝廷に使者を送った。朝廷の処置が寛容であるため、さらなる悪事を専らとすることになるでしょう。速やかに処置願います」という内容だった。 |
1月25日 | 頼朝は泰衝の動向を探らせるため奥州に雑色を送った。 | |||
1月28日 | 見慣れぬ星があり、頼朝が寝所から出て見分した。三浦義連と小山朝光が前に、梶原景季と八田朝重が後ろに帯剣して付き添った。彼等は皆近臣であり夜間の外出の際は常にこのようだった。 | |||
3月20日 | 義経討伐の宣旨に対する奥州の朝廷への返事があり義経を探索し逮捕するという内容だった。法皇はさらに重ねて速やかに対処するよう下命した。他に頼朝の言上に対する処置もされた。 | |||
3月22日 | 頼朝は朝廷に使者を送り、藤原泰衝追討の宣旨を下すよう催促した。義経を捕縛するという泰衝の請文は信用できなず、許容の余地はないということだった。 | |||
4月18日 | 北条時政の三男時連が頼朝の御所で元服した(後の時房)。三浦義連が加冠役を務めた。 | |||
閏4月21日 | 藤原泰衝が義経をかくまっていることについて、頼朝は朝廷に対して泰衝追討の宣旨を催促。 |
義経誅殺
和暦 | 西暦 | 天皇/将軍/執権 | 日付 | 鎌倉の動向 |
文治5年 | 1189年 | 後鳥羽 | 閏4月30日 | 藤原泰衝が義経を襲撃した。義経は藤原基成の衣河館(現岩手県奥州市衣川)において泰衝の襲撃を受け妻子(22歳と4歳)を手にかけた後自害した。31歳だった。 |
5月22日 | 義経誅殺を伝える奥州からの飛脚が鎌倉に到着。首は追って進上するとのこと。頼朝は飛脚を京都に遣わしこの消息を伝えた。 | |||
6月8日 | 朝廷からの返書が到着。後白河院は義経が滅亡したからには国は平穏を取り戻すであろうから、今は弓を収めるよう頼朝に内々に伝えるよう指示があったという。 | |||
6月13日 | 藤原泰衝の使者が義経の首を鎌倉・腰越浦に持参した。和田義盛、梶原景時が腰越において検分した。 |