源行家

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源行家

(みなもと ゆきいえ 1141-1186)

野望をもって治承・寿永の乱を駆け抜けた頼朝の叔父

『平家物語絵巻』の源行家(中央)。

『平家物語絵巻』の源行家(中央)。

源頼朝の祖父源為義の末子(十男)

源為義の十男。源頼朝の父 義朝とは兄弟ですから、源頼朝の叔父ということになります。以仁王とともに挙兵した源頼政の命により、以仁王の令旨を諸国の源氏に伝え、平氏打倒の決起を促しました。

これに各地の源氏が呼応し治承・寿永の乱に突入。河内源氏の源頼朝、甲斐源氏の武田信義、信濃源氏の源(木曽)義仲が武家の棟梁格であり、これに奥州藤原氏が加わり有力な勢力となっていました。ここに割り込み、野望を抱き策略をもって挑んだのが、源行家でした。かつての平清盛のような立場を得ようとしたのではないかと想像します。

以仁王、源頼政による平氏打倒の挙兵に召され、令旨を全国に伝える

1180年(治承4年)4月9日、平氏打倒をすすめる源頼政が以仁王に挙兵を呼びかけます。そして在京していた源行家に全国の源氏へ令旨を伝えることを命じます。源頼政は清和源氏の極位が正四位下とされていた源氏冷遇の時代に従三位にのぼった異例の人物です。鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』にはその時の様子がこのように描かれています。

1180年(治承4年)4月9日
「入道源三位頼政卿(源頼政)は、平相国禅門清盛(平清盛)を討滅すべきとして日々準備をしていた。しかし自分の計略だけでは宿意を遂げることは難しいと、今日、夜になり子息、伊豆守仲綱等を伴って、密かに一院第二宮にある三条高倉の御所に参った。前右兵衛佐頼朝をはじめとする源氏等に呼びかけて平氏一族を討ち、天下をお執りになっていただきたいと申し述べた。以仁王は散位宗信に命じて令旨を下された。しかるに陸奥十郎義盛(廷尉(源)為義末子)が折しも在京していたため、この令旨を持って東国に向かった。先ず前右兵衛佐頼朝に伝えた後、その他の源氏等に伝えるようにとの趣を仰せ含められた。義盛は八条院の蔵人に任じられた(名を行家と改めた)。」

行家は同母姉の鳥居禅尼が熊野三山の新宮別当家嫡流であり、後に熊野別当となる行範の妻となったことから、熊野新宮に住んでいたため新宮十郎などとも呼ばれます。

源頼朝に挙兵を伝えるも傘下には入らず

以仁王と源頼政の挙兵は失敗に終わるものの甥にあたる源頼朝が決起、石橋山の戦いに敗れた後、房総において再起し鎌倉に入ります。頼朝に決起を促した叔父の行家でしたが、その傘下には入らず独立した勢力として行動しました。源頼朝、木曽義仲などと同等、もしくはそれ以上の立場を求めたためでした。頼朝に令旨を伝えた様子は『吾妻鏡』にこう記されています。

1180年(治承4年)4月27日
高倉宮(以仁王)の令旨、今日、前武衛将軍(源頼朝)の伊豆国北条館に到着した。八条院蔵人行家が持ってきたものである。武衛(頼朝)は水干装束となり、先ず男山(京都にある河内源氏の氏神、岩清水八幡宮のある山)の方を遥拝した後、謹んで令旨を開かれた。侍中(行家)は、甲斐・信濃両国の源氏等に伝えるため、出発した。武衛(頼朝)は前右衛門督(藤原)信頼(平治の乱)が縁坐として、去る永暦元年3月11日、当国(伊豆国)に配流されて後、嘆きながら20年の歳月を送り、愁えて四十八余の星霜(せいそう=歲月)を積むなり。(32歳余となっていた)この間に平相国禅門(清盛)は天下を勝手に管領していた。院近臣を刑罰し仙洞(上皇)を鳥羽離宮に幽閉し奉った。上皇の御憤りは頻りに叡慮を悩ませ御うものであった。このような時に、令旨は到来した。そして(頼朝は)義兵を挙げんと欲す。まさにこれ天の与うるを取り、時至りて行うの謂れか。上野介平直方朝臣より5代の孫、北条四郎時政は当国(伊豆国)の豪傑なり。武衛(頼朝)を婿君とし、もっぱら無二の忠節を示していた。これによって、頼朝は時政をまっ先に呼び令旨を開いてみせた。

下(下命)す 東海・東山・北陸三道諸国の源氏並びに群兵等の所に。
早く清盛法師並びに従類等、叛逆の輩を追討すべき事。
右、前伊豆守正五位下源朝臣仲綱が宣べる(のべ=命じる)。最勝親王(以仁王)の勅命を奉り承った。清盛法師並びに宗盛等、威勢を以て帝王を蔑ろにし、凶徒により国家を滅ぼし、百官万民を悩ませ乱し、五畿七道を虜掠(りょりゃく=人をとらえ、財物を掠奪すること)す。皇院(上皇)を幽閉し、公臣を流罪にし命を断ったりその身を流し、淵に沈めたり幽閉するなどした。財を盗み国を領し、官職を奪い、勝手に功のないものに賞を与え、罪なき者を罰している。あるいは、諸寺の高僧を召し誡(いまし)め(罰を与え)、学僧を禁獄す。あるいは叡岳(比叡山)に絹や米を下し、謀反の粮米(兵糧米)にしている。百皇の跡を断ち(継承を断ち)、抑(そもそ)も一人の頭、帝皇(天皇、上皇)に逆らい、仏法を破滅する。その振る舞いを見るに誠に古代を絶する者なり(前代未聞である)。そのため天地は悉(ことごと)く悲しみ、臣民は皆憂えている。仍(よ)って吾は一院第二の皇子(後白河の第二皇子)たり。天武皇帝(天皇)の旧儀を尋ね、王位を奪おうとするものを追討し、上宮太子(聖徳太子)の古跡を訪い(先例に習い)、仏法破滅の類を討ち滅ぼさん。ただ人力の構えを憑(たの)むに非ず、ひたすらに天道の扶(たす)けを仰ぐ所なり。これに因って、帝王三宝と神明の冥感(みょうかん=冥応。知らないうちに神仏が感応して利益を授けること)有るが如し。であれば四岳(全国)の合力を得れれぬことがあろうか。しかれば即ち源氏の者、藤氏(藤原氏)の者、兼ねて三道諸国に勇士といわれた者達は、同じく力を興し、清盛法師並びに従う者等を追討すべし。もし同心せざるに於いては、配流追禁(追討・死罪・拘禁など)の罪過となるであろう。もし特に功績あるに於いては、まずは諸国の使節に預かり(預けて)、御即位の後に必ず乞いに従い観賞(褒賞)を与える。諸国よろしく承知すべし。命に従いこれを行うべし。
治承四年四月九日 前伊豆守正五位下源朝臣(仲綱)

独立勢力として活動。平氏に敗北

源行家は頼朝に以仁王の令旨を持参した後、その傘下に入らずに独立して活動していたようです。1181年(養和元年)3月10日には墨俣川において平氏の軍勢と合戦に及び、敗北しています。さらに三河国矢作川の戦いでも破れています。『吾妻鏡』における関連の記述は以下の様です。

1181年(養和元年)3月10日「墨俣川の戦い」
十郎蔵人行家(武衛叔父=源行家)、子息蔵人太郎光家、同次郎、僧義円(卿公と号す。源義朝八男、源義経の同母弟)、泉太郎重光等は、尾張・参河(三河)両国の勇士を引き連れ、墨俣河の辺りに陣を張った。平氏の大将軍は頭亮(とうのすけ)(平)重衡朝臣、左少将(平)維盛朝臣、越前守(平)通盛朝臣、薩摩守(平)忠度朝臣、参河守(平)知度、讃岐守左衛門尉盛綱(高田と号す)、左衛門尉盛久等が、また墨俣河西岸に陣を張った。晩になり侍中(源行家)計を廻らし、密かに平家を襲おうとしたが、重衡朝臣の舎人金石丸が馬を洗おうとして墨俣河に来て、東方(源氏方)の形勢を見て奔り帰りそのことを告げた。仍(よ)って侍中(源行家)が未だ出陣する前に、頭亮(平重衡)の随兵は源氏を襲った。虚をつかれた行家の軍勢は混乱し、戦ったものの勝利することはできなかった。義円禅師は盛綱に討ち取られた。蔵人次郎は忠度に生け捕られた。泉太郎と弟の次郎は盛久に討ち取られた。この他の軍兵、あるいは河に入って溺れ死に、あるいは傷を被り命を落とした。その数およそ六百九十余人という。

このように大敗を喫したものの、その後も尾張に勢力を張っていたようです。大敗の8か月後、『吾妻鏡』11月5日の条にそのことが記されています。

1181年(養和元年)11月5日
足利冠者義兼、(源)九郎義経、土肥次郎実平、土屋三郎宗遠、和田小太郎義盛等、(平)維盛朝臣の軍勢を防御せんが為、遠江国に出発しようとしたところ、佐々木源三秀義申していわく、件(くだん)の羽林(平維盛)の軍勢はいま、近江国にあり下向の時期はわかりません。十郎蔵人(源行家)が尾張国に陣を張っており、まずはここで支える(食い止める)でしょう。各々が慌てて忽ちに進発せずとも問題ないでしょうと。そこで出陣は延期されたという。

さらに翌年春には三河国から平氏追討のため上洛を計り、その祈念を依頼しています。行家からの告文が1182年(寿永元年)5月19日、その返状が5月29日です。以下、その内容。

1182(寿永元年)5月19日
十郎蔵人(源)行家は三河国に在り。平氏を追討する為、上洛しようと内々に考えていた。先ず祈願の為、当国の目代、大中臣蔵人以通と語らい、密かに告文を書き、幣物等を相添え、二所太神宮に奉納した。
送り奉る 御幣物
美紙十帖 八丈絹二疋
右送り奉ること件の如し
治承五年五月十九日 三河御目代大中臣以通
蔵人殿(源行家)の仰せに依って、申せしめ候所なり。(伊勢)太神宮の御事、もとより内心祈念していた上、夢のお告げがありました。仍って思し召すところを記した告文、御幣物、送文等これを献上します。この趣を以て御祈念ください。仰せの旨はこの通りです。謹言。
五月十九日 大中臣以通奉(うけた)まわる
内外宮政所大夫殿

1182年(寿永元年)5月29日
十郎蔵人(源行家)は去る十九日に告文等を伊勢太神宮に奉った。彼の禰宜等の返事が今日、三河国に到着した。
今月十九日の告文並びに御消息(手紙)は同二十二日に到着し子細を拝見しました。抑(そもそ)も去年の冬頃より関東静かならず。特に祈るべき旨、頻りに綸言(りんげん=天子・天皇のことば。みことのり)が下されるに依って、各々丹精を込めて祈っているところに、はからずも神主・禰宜等が朝廷に背き源氏に同意し、源氏のために祈っているとの讒言があり、度々院宣が下され真偽を訪ねられたことに依って、誤ったことはしていないとの内容を記して請文を奏上しました。而(しか)るに、今告文を送られても受けることができません。この旨を以て朝廷の奏聞を経ることになります。これ後日、勅勘(ちょっかん=天皇からのとがめ)の疑いの恐れがあるからです。神宮の事、ひたすら神明を仰ぐといえども、また公家(朝廷)の裁定を蒙らなければ、祈りの沙汰をおこなわないのがこれまでの例です。また東国の中、太神宮御領はすでにその数多くあります。神戸といい御厨といい、皆厳重な勤めがあります。しかるにこの(神戸・御厨)所司・神人等、騒動に事寄せまた兵粮米の催促があると称して、所当の神税や上文等を納めようとしないに依って、先例に任せて宮使を遣わし催促を加えましたが納める者は少なく、対捍(たいかん=逆らい拒むこと)甚だ多し。これに因って様々名神事が困難になっています。各々神人は憂い嘆いています。神慮は恐れおおい。人意はとどまら事無く、いま妨げることはないと告文に載せられております。その旨は承っておきます。
治承五年五月二十九日 太神宮政所権神主
侍中(源行家)は返状を読んだ後、神慮不快の由を知り、ことに周章(しゅうしょう=あわてふためくこと)した。また山門(比叡山延暦寺)の衆徒を頼みにして牒状(ちょうじょう=まわしぶみ)を延暦寺に送った。これ平家のための祈りを忘れ、源氏に合力するようにとのことだった。

木曽義仲とともに入京

平氏に敗れた後は、頼朝の元に逃れて所領を要求して拒否されたといいます。その後、1183年(嘉永2年)2月、これも甥の木曽義仲のもとを訪れ行動を共にしています。1183年(嘉永2年)は『吾妻鏡』の記録がないため、九条兼実の日記『玉葉』などをみてみます。

1183年(嘉永2年)5月16日(『玉葉』)
去る十一日、官軍(平氏)の先鋒が越中国に入った。木曽冠者義仲・十郎蔵人(行家)及び他の源氏等が迎え戦う。官軍敗走し過半数が戦死したという。

吉田経房が記した日記『吉記』1183年(嘉永2年)7月16日によると、
「源氏十郎蔵人行家と称する者、去る十四日すでに伊賀国に入り、家継法師(平田入道と号す、貞能兄)と合戦す。また三河冠者と号する源氏、大和国に越え入ると。薩摩守忠度朝臣、丹波国に発向す。百騎ばかり引率すと。」

1183年(嘉永2年)7月2日(『玉葉』)
伝聞、頼朝忽ち出るべからず。ただ木曽冠者(義仲)、十郎(源行家)等を四方に分ち、寄すべきの由議定すと。

1183年(寿永2年)5月、越中国の倶利伽羅峠の戦いにおいて平氏の大軍を破った木曽義仲は、破竹の勢いで京を目指し7月に入京します。蓮華王院(三十三間堂)に参上した義仲と源行家は前後せずに「あえて」並んで控えたことから、二人は序列を争っていたことがわかります。その時の記述です。

1183年(嘉永2年)7月28日(『玉葉』)
今日、義仲・行家等は南北より入京したという。晩頭、左少弁光長が来たり語っていわく、義仲・行家等を蓮花王院の御所に召し、平氏追討を仰せ遣わさる。大理殿上の縁においてこれを命じた。両人は地に跪きこれを承った。御所たるに依ってなり。参入の間、両人は相並び敢えて前後しなかった。権威を争う意趣これを以て知るべし。両人退出する時、頭弁兼光京中の狼藉を停止すべきの由仰すと。

1189年(文治5年)11月8日
木曽義仲の入京により源氏は平氏を都から追い払いました。これに対して1183年(嘉永2年)7月30日に論功行賞の評議が行われ、勲功の第一は源頼朝、第二は木曽義仲、第三は源行家となりました。

8月10日には勧賞除目が行われ、義仲は従五位下・左馬頭・越後守(後に伊予守)に、行家は従五位下・備前守に除されます。これに対して行家は8月12日、義仲と差があることに不満を述べています。これは『玉葉』にこのように記されています。
「伝聞、行家厚賞に非ずと称し忿怨す。且つはこれ義仲の賞と懸隔の故なり。閉門辞退すと。」

無骨な義仲が朝廷と不和になる中、行家は朝廷と親密となっていきますが時はすでに武士の時代、朝廷との権謀術数に長けているだけでは武士の棟梁となることはできなかったのでしょう。義仲とも不仲になった行家は京から逃げ出します。この様子は以下のように記録が残っています。

1183年(寿永2年)閏10月27日(『玉葉』)
夜に入り或る者(源氏の武者。源義兼、石川判官代と号す。故義時孫(源義家の曾孫)、判官代義基子なり)来たりていわく、平氏を討たんが為、行家来月一日進発すべし。彼に伴わんが為明日河内の所領に向かうべしと。そのついでに語りて云く、義仲と行家とはすでに以て不和なり。果たして以て不快出来すか。返す返す不便と。その不和の由緒(原因)は、義仲が関東に向かう時、相伴うべきの由行家に触れる。行家がこれを辞退する時、日頃の不快からこの両三日特に以て嗷々(ごうごう=かまびすしい)す。然る間(時)、行家来月朔日(さくじつ=陰暦で毎月の第一日)必定下向す。義仲はまたその功を行家にうばわれざらんが為、相具し(ともに)下向すべきの由風聞すと。また云く、行家に於いては、頼朝に立ち合うべからざるの由、内々議せしむと。

11月には木曽義仲源頼朝が対立し、鎌倉の軍勢が上洛の途につくという状況の中、播磨国において平敦盛、重衡率いる平氏軍に敗れ、義仲を恐れて京都には戻らず和泉国に落ち延びます。その後も宮中の警護や平氏討伐に出陣し、落ちては上洛を企てるなど治承・寿永の乱渦中においてめまぐるしく活躍する様がみてとれます。

1183年(寿永2年)11月2日(『平家物語』)
十郎蔵人(源行家)、三千騎にて丹波国へかかりて、播磨国へぞ下りける。平家は門脇の中納言敦盛・本三位中将重衡を大将軍にして、其勢一万余騎、はりまの国室の津につく。十郎蔵人(行家)三千余騎の勢皆討とめられて、わづかに五十よきになりにけり。播磨の方は平家に恐る。都は木曽に恐れて、和泉国へぞ落ちにける。

1183年(寿永2年)12月2日(『玉葉』)
伝聞、義仲使を差し平氏の許(播磨の国室泊に在りと)に送り和睦を乞うと。また聞く、去る二十九日平氏と行家と合戦す。行家軍忽ち以て敗れ、家子多く以て討ち取られをはんぬ。忽ち上洛を企つと。また聞く、多田蔵人丈夫行綱城内に引き籠もる。義仲の命に従うべからず。

行家は1184年(元暦元年)になると、木曽義仲からも狙われる身となります。玉葉に以下のように記されています。

1184年(元暦元年)1月19日(『玉葉』)
昨今天下頗(すこぶ)るまた物騒す。武士等多く西方に向かう。行家を討たんが為と。或いはまた宇治に在り。田原地手を防がんが為と。義廣(三郎先生)大将軍たりと。

翌日1月20日、いよいよ源範頼義経の率いる源頼朝軍が木曽義仲討伐のため、勢多と宇治により入京します。木曽義仲は勢多と宇治に軍勢をわけた上、行家を討つための兵を差し向けたと同日の『玉葉』にも記されています。

各所で合戦が行われ、近江国粟津付近において義仲は討ち取られます。頼朝軍による京都制圧、義仲討伐から空けて翌2月3日、行家は後白河院によって召され帰京しています。源頼朝、木曽義仲とはあわなかった行家ですが、朝廷とは馬があったようです。

1184年(元暦元年)2月3日(『玉葉』)
法印来られ、今日行家入洛す。その勢僅かに七八十騎と。院の召しに依ってなり。頼朝また勘気を免ずと。

その後、和泉国・河内国を支配しながら源頼朝の平氏追討軍には加わらず、鎌倉に参向することもなく、またしても独立して行動し頼朝の反感を買っていきます。そして今度は同じく頼朝の信頼を失っていくことになる源義経に近づきます。義経は平氏追討軍として上京し、その後も在京して治安維持にあたりましたから、和泉・河内を支配しつつ在京していたであろう叔父の行家と交流があったことは想像できます。

翌3月24日、鎌倉の平氏追討軍は壇ノ浦において平氏を滅亡させます。義経はそのまま京都の守護を担います。義仲の時とは違い卒なく任務をはたしていたところから、義経は戦時の機転のみならず、行政面でも高い手腕があったと想像できます。しかし残念なことに義経は、徐々に朝廷にとりこまれてしまいます。さらにここに武家の棟梁となる野望を捨てきれなかったであろう行家が加わり、行家・義経は頼朝への反旗を翻します。

政略に長け、朝廷にも慣れた叔父の源行家、軍略とそして京の治安維持の巧みさから行政にも優れた手腕を発揮した甥の源義経。世が世であればなかなか強力な組み合わせといえます。しかし、相手は源頼朝でした。巨大なカリスマ、圧倒的な鬼武者であり名将たちを従えた頼朝は彼らをもってしても歯がたたない相手でした。

源頼朝と対立。行家追討の命が下される。

1185年(元暦2年)5月4日、源頼朝は弟である源義経を勘当します。平氏追討の功を自分にあるとか、関東に怨みのある者は自分に従えなどとの言動があり、6月13日、義経は与えられていた平氏没官領24か所を没収されます。

平氏追討軍における活躍には華々しいものがあったものの、勝手な振る舞いが目立ち、さらに朝廷にも取り込まれつつあったからでしょう。源頼朝が進める「鎌倉創成」にとって、朝廷に取り込まれないことは重要なことでした。頼朝の遺言「大名、高家に惑わされず〜(中略)〜日本国を鎮護すべし」にそれは表されています。

源行家もまた、頼朝のグランドデザインにそぐわない人間として対立していきます。『吾妻鏡』8月4日の項には、平氏追討においても大した功績なく、鎌倉の頼朝の元にも参向せず、その上西国において頼朝の叔父という立場を利用して人民を責め立てている。さらに、謀反を企てていることが発覚したと書かれています。そしていよいよ追討の命が佐々木定綱に下されます。

1185年(元暦2年)8月4日
前(さきの)備前守行家は二品(源頼朝)の叔父なり。而(しか)るに度々平氏追討の軍陣に差し遣わされると雖も、終にその功を顕わさざるに依って、二品(源頼朝)は賞翫(しょうかん=尊重すること)せしめ給わず。備州(源行家)また進んで参向無し。当時西国に半面し、関東の親昵を以て、在々所々に於いて人民を譴責す。のみならず、謀反の志を挿み、縡すでに発覚すと。仍って近国の御家人等を相具し、 早く行家を追討すべきの由、今日御書を佐々木太郎定綱に下さると。

源義経はさらに鎌倉の意向に背きます。前(さきの)大納言平時忠以下に配流の官符が下されていましたが、源義経が時忠の婿となり今だに在京させており、源頼朝の憤りを買っていました。その上、義経が行家を支援して頼朝に背こうとしているという噂があり、頼朝は9月2日、梶原景季等を使者として上洛させ、義経に対して行家の居所を探り当てて誅戮(ちゅうりく)するよう命じ、景季等に義経の動向を監視させます。

1185年(元暦2年)9月2日
梶原源太左衛門尉景季・義勝房成尋等、使節として上洛するなり。南御堂(勝長寿院)供養導師の御布施並びに堂の荘厳具(大略すでに京都に調え置く)奉行せんが為なり。また平家縁坐の輩未だ配所に赴かざる事、若しくは居ながら勅免を蒙る事、子細に及ばず、遂にまた下し遣わされべくんば、早く御沙汰有るべきかの由これを申さる。次いで御使と称し、伊豫(予)守(源)義経の亭に行き向かい、備前の前司(源)行家の在所を尋ね窺い、その身を誅戮すべきの由を相触れて、彼の形勢を見るべきの旨、景季に仰せ含めらると。 去る五月二十日、前の大納言時忠卿以下、配流の官符を下されをはんぬ。而るに今に在京するの間、二品(源頼朝)欝憤の処、豫州(源義経)件の亜相(時忠)の聟(むこ)として、その好を思うに依ってこれを抑留す。しかのみならず、備前の前司(源)行家を引級し、関東に背かんと擬すの由風聞するの間、斯くの如しと。

翌10月6日、頼朝の使者として上洛した梶原景季等が鎌倉へと戻ります。梶原景季等が源義経を訪れたところ、義経は病気と称して出てこなかったといいます。源行家追討の命は秘密の事であるため、使いの者には伝言せずに戻り2、3日後に再度訪問します。

義経は杖をついてあらわれ、憔悴し灸をすえた痕が数か所みられました。行家追討の命を伝えたところ、こう答えた。「病は偽りではない。たとえ強盗・窃盗の犯人であっても(頼朝の命であれば)自分が直接事にあたりたい。まして行家は自分と同じ六孫王(源経基)の後裔であり、弓馬に優れた者であるから、たやすく降伏させることはできないだろう。早く病を治し計略をめぐらしたいと頼朝に伝えてほしい」。これを聞いた頼朝は行家の謀反に同意し病を装っているのは明らかであると見抜きます。

1185年(元暦2年)10月6日
梶原源太左衛門尉景季京都より帰参す。御前に於いて申して云く、伊豫(予)守(源義経)の亭に参向し、御使の由を申すの処、違例(病)と称し対面無し。仍ってこの密事以て伝うること能わず、旅宿(六條油小路)に帰る。一両日を相隔てまた参らしむの時、脇足(松葉杖)に懸かりながら相逢われる。その躰誠に以て憔悴、灸数箇所に有り。而るに試みに行家追討の事を達するの処、報ぜられて云く、所労更に偽らず(病は偽りではない)。義経の思う所は、縦え強竊の如き犯人たりと雖も、(頼朝の命であれば)直にこれを糺し行わんと欲す。況や行家が事に於いてをや。彼は他家に非ず。同じく六孫王(源経基)の余苗(子孫)として弓馬を掌り、直なる人に准え難し。家人等ばかりを遣わしては、輙くこれを降伏し難し。然かれば早く療治を加え平癒の後、計を廻らすべきの趣披露すべきの由と。てえれば、二品(源頼朝)仰せて曰く、行家に同意するの間、虚病を構うの條、すでに以て露顕すと。景時これを承り、申して云く、初日参るの時面拝を遂げず。一両日を隔てるの後見参有り。これを以て事情を案ずるに、一日食さず一夜眠らずんば、その身必ず悴ゆ。灸は何箇所と雖も、一瞬の程にこれを加うべし。況や日数を歴るに於いてをや。然れば一両日中、然る如きの事を相構えらるるか。同心の用意これ有らんか。御疑胎に及ぶべからず(申すまでもない)と。

いよいよ追い詰められた源義経は、10月11日、13日の2度にわたり密かに後白河法皇を訪れ奏聞(そうもん=天皇に申し上げること)します。頼朝の近くにいる有力御家人に相談するならまだしも、密かに後白河を訪れるあたりがもう、頼朝が目指す「鎌倉」という新しい権威にそぐわないのかもしれません。

義経が後白河を密かに訪れたことを記す『吾妻鏡』の記述です。
1185年(元暦2年)10月13日
去る十一日並びに今日、伊豫(予)大夫判官(源)義経潛かに仙洞(後白河)に参り奏聞(そうもん)して云く、前備前守(源)行家関東に向背し謀叛を企つ。その故は、その身を誅すべきの趣、鎌倉の二品(源頼朝)卿命ずる所、行家の後聞(耳)に達するの間、何の過怠(過ち)を以て無罪の叔父を誅すべきやの由、欝陶を含むに依ってなり。義経頻りに制止を加うと雖も、敢えて拘わらず(一向に聞き入れません)。而るに義経また平氏の凶悪を断ち、世を静謐に属かしむ(世に静謐を取り戻しました)。これ盍(なん)ぞ大功ざらんか。然れども二品(源頼朝)曽てその酬いを存ぜず、適々計り宛てる所の所領等、悉(ことごと)く以て改変す(没収した)。剰(あまつさ)え誅滅すべきの由、結構の聞こえ有り(義経を討伐せよとの噂あり)。その難を遁れんが為、すでに行家に同意す。この上は、頼朝追討の官符を賜うべし。勅許無くんば、両人共自殺せんと欲すと。(後白河は)能く行家の鬱憤を宥(なだ)むべきの旨勅答有りと(答えたという)。

10月17日、源頼朝の命を受けた土佐坊昌俊が謀反の志ある源義経を六条室町亭に襲います。そしてこの時、行家は援軍として加わり義経と共に防戦しています。これは10月9日の鎌倉における評議において「義経を討つ者はいるか」、という頼朝の問いに唯一手を挙げたのが土佐坊昌俊だったからです。少数の手勢にて義経を襲うという計画ですから、ほぼ討死確実です。昌俊は一族のことを頼朝に託して鎌倉を出発したのでした。ちなみに、昌俊の屋敷は小町大路、宝戒寺の側にあり屋敷跡の石碑が残ります(詳しくは土佐坊昌俊屋敷跡の記事を御覧ください)。

1185年(元暦2年)10月17日
土左房昌俊、先日関東の厳命を含むに依って、水尾谷十郎已下六十余騎の軍士を相具し(連れて)、伊豫(予)大夫判官(源)義経の六条室町亭を襲う。時に豫(予)州(義経)方の壮士等、西河の辺に逍遙するの間(嵯峨野のあたりで遊覧しており)、残留する所の家人幾ばくならずと雖も、佐藤四郎兵衛尉忠信等を相具し(率いて)、自ら門戸を開き、懸け出て責め戦う(門より打って出て戦った)。行家この事を伝え聞き、後面より来たり加わり、相共に防戦す。仍(よ)って小時(しばらくして)昌俊退散す。豫(予)州の家人等、豫(予)州の命を蒙り則ち仙洞に馳参す。無為の由を奏すと。

義経が六条室町亭に襲われたことを聞き駆けつけられる場所に行家はいたということがわかります。また、何かあった時には行家に知らせるという密な連絡もとられていたのでしょう。

頼朝は土佐坊昌俊が討死を承知していたように、この計画は義経を討つというよりも、義経を追い詰めて肚を決めさせるための襲撃でした。もっと言うと、頼朝は義経をたきつけて後白河に「頼朝追討の院宣」を出させたかったのでしょう。後日、頼朝は「日本一の大天狗」と後白河の使者を叱咤し守護・地頭の設置を認めさせますが、「頼朝追討の院宣」を出したというこの失策も大きな要因となりました。

こういうことを挙げて頼朝が怜悧で計算高い冷たい男などと安易にいうことがありますが、源氏の棟梁として日本国を鎮護し、新たな「鎌倉」という日本史上かつてないアイデンティティーを創設しようとする人物ですから、義経も優れた武将であるとはいえ判官贔屓などと頼朝と義経を同列に比べる事自体に違和感を覚えます。

源行家・義経、頼朝追討の院宣を得る

そしていよいよ源行家と義経は源頼朝追討の院宣を得ることに成功します。義経から源頼朝追討の院宣を要求された朝廷は評議を開き、義経が朝廷を警護している現状から義経の乱暴を恐れてまずは宣下し、その事情を頼朝に説明して頼朝の憤懣をかわそうとします。乱世の朝廷としては致し方ないとはいえ、いかにも京の男たちという感じがします。

1185年(元暦2年)10月18日
義経言上の事(源頼朝追討の院宣)、勅許有るべきか否や。昨日仙洞(後白河御所)に於いて議定有り。而るに当時義経の外(朝廷)警衛の士無し。勅許を蒙らずんば、もし濫行に及ぶの時、何者に仰せて防禦せらるべきや。今の難を遁れんが為、[先ず宣下し、追って子細を関東(頼朝)に仰せられば、二品(頼朝)定めてその憤り無きかの由治定す。仍って]宣旨を下さる。上卿左大臣経宗と。
     文治元年十月十八日   宣旨
従二位源頼朝卿偏に武威を耀かし、すでに朝憲を忘る。宜しく前の備前の守源朝臣行家・左衛門の少尉同朝臣義経等をして彼の卿を追討せしむべし。
                    蔵人頭左大弁兼皇后宮亮藤原光雅(奉る)

4日後の10月22日、京都より一条能保の家人が鎌倉に入り、去る17日に源頼朝の派遣した土佐坊昌俊が源義経誅殺に失敗したこと、行家・義経が源頼朝追討の院宣を得たことを頼朝の報告します。これを聞いた頼朝は落ち着き払って、昨日本仏が納められた父義朝の菩提寺、南御堂(勝長寿院)について指示したのみといいます。

1185年(元暦2年)10月22日
左馬頭(一条)能保が家人等京都より馳参す。申して云く、去る十六日、前備前守(源)行家、 祇候人(一条能保に奉仕する人)の家屋を追捕(襲撃)し、下部等を搦め取る。結句行家北小路東洞院の御亭に移住すと。 また風聞の説に云く、去る十七日土左房(土佐坊昌俊)の合戦その功成らず。行家・義経等、二品追討の宣旨を申し下すと。二品曽て動揺せしめ給わず。御堂供養沙汰の外他に無しと。

行家・義経討伐の軍勢が鎌倉を出発

そして、こうなると源頼朝は風林火山、父義朝の菩提を弔った南御堂(勝長寿院)の供養が盛大に行われた翌々日の24日、和田義盛梶原景時を召しこう命じます。「明日、上洛する。軍士等を集めて着到(その名を帳簿に記せ)せしめよ。その内、明方にも出発できる者は別にその名を注進すること」。

翌25日、頼朝は夜明けとともに鎌倉の勇士たちを上洛の途につかせ、真っ先に行家・義経誅伐することを命じます。

1185年(元暦2年)10月25日
今暁、領状の勇士を差し京都に発遣せさる。先ず尾張・美濃に至るの時、両国の住人 に仰せ、足近・洲俣已下の渡々(渡)を固めしむべし。次いで入洛の最前に(真っ先に)、行家・義経を誅すべし。敢えて斟酌すること莫れ(源頼朝の叔父や弟であろうと遠慮するな)。もしまた両人洛中に住せざれば(洛中にいなければ)、暫く(頼朝の)御上洛を待ち奉るべし。てえれば、各々鞭を揚ぐと。

4日後の10月29日、行家・義経を討伐するためいよいよ源頼朝が上洛の途につきます。頼朝は「東国の武士たちは鎌倉から直接御供し、東山道・北陸道の武士たちは東山道を経由して近江・美濃等で合流するように」と命じられました。

11月1日、駿河国黄瀬川駅に着いた源頼朝は京都の情報を集めて作戦を練るため、しばらく黄瀬川駅に逗留するから馬や糧を用意しておくようにと命じました。急遽の出発であったためと考えられますが、頼朝出発の報を聞けば行家・義経は逃亡することも恐らく読めていたのでしょう。

1185年(元暦2年)11月1日
二品(源頼朝)駿河国黄瀬河駅に着御す。御家人等に触れ仰せられて云く、京都の事を聞き定めんが為、暫くこの所に逗留すべし。その程乗馬並びに旅粮已下の事を用意すべしと。

行家・義経が京都から逃亡

行家・義経追討軍の先発隊が鎌倉を出た10月25日から約10日後の11月3日、行家と義経は京都から西海にむけて逃亡します。当時、鎌倉ー京都間の使者は一週間〜10日程で行き来したそうですから、追討軍鎌倉出発の一報を受けて即座に逃げ出したということでしょう。それよりも驚くのが、従ったものが300騎であったということです。

平氏討伐の最大功労者たるを自ら任じてやまなかった義経と、平氏都落ち勲功第三位といわれ頼朝・義経の叔父である行家が組み、頼朝追討の院宣を受けての挙兵にしては従う者が少なすぎます。そしてまた、即座に全軍出撃を命じた源頼朝という人の器にも驚かされます。徳川家康が尊敬してやまなかったということも頷けます。

平氏追討は軍事力を駆使して平氏軍を倒せば良い。だから弟達、範頼と義経を差し向ければ良かった。しかし、この度は義経や行家を引き込んで頼朝追討の院宣を下し、そして奥州藤原氏にも粉をかけて頼朝を牽制しようとする朝廷にもぶっとい釘を差そうとしたに違いありません。

この記事の主人公である行家も、義経もハナから目じゃなかったのかもしれません。京都に巣食う朝廷に対して、「ちまちまやっても、黄瀬川まで自らが出陣すればそれで十分なんだぞ」ということを京都にわからせたかのように思えます。

1185年(元暦2年)11月3日
前備前守行家(桜威の甲)・伊豫(予)守義経(赤地錦の直垂・萌葱威の甲)等西海に赴く。先ず使者を仙洞に進し、申して云く、鎌倉の譴責(けんせき=不正をとがめること)を遁れんが為、鎮西に零落す。最期に参拝すべきと雖も、行粧異躰(物々しい風体)の間(時)、すでに以て首途すと。前の中将時實・侍従良成(義経同母弟、一條大蔵卿長成男)・伊豆右衛門尉有綱・堀彌太郎景光・佐藤四郎兵衛尉忠信・伊勢三郎能盛・片岡八郎弘綱・弁慶法師已下相従う。彼此の勢三百騎かと。

行家の最後

11月5日、頼朝が遣わせた御家人たちが京都に入り、頼朝の怒りを伝えます。すると翌6日、即行で行家・義経追補の院宣が諸国に下されます。行家・義経は兵庫の尼崎(大物浜)から船出しようとしますが、暴風により船を出すことができませんでした。この日の記述は暴風により一行が散り散りになり義経に従うものは妾の静を含めてもわずか4人、当夜は天王寺あたりに宿泊してから姿をくらましたとのみであり、行家のことは書かれていません。

7日、さらなる頼朝の怒りに触れた朝廷は義経に与えた伊予守・検非違使の職を解きます。8日、行家・義経が京都から逃亡したことを受けて頼朝は黄瀬川から鎌倉に戻ることとなり、京都の朝廷へ行家・義経の件についての苦情の使者をおくります。そして15日、頼朝追討の院宣を出したことなどの言い訳を伝えた使者が頼朝を訪れ、頼朝に日本一の大天狗(後白河法皇)と一喝される日本史上著名な出来事があります。

12月には、行家・義経に与した者達について公卿を含め処罰すべき内容などをしたためた書状が頼朝から朝廷に届けられます。この書状には世に有名な「守護・地頭の設置」が献策されており、一喝された朝廷はこれをのまざるを得ませんでした。

さて、行家といえばその後行方が『吾妻鏡』の記述から消えますが、翌1186年(文治2年)3月14日には行家・義経追補の宣旨が鎌倉に到着します。4月15日には行家・義経がいまだに洛中におり、比叡山の悪僧らと結託しているという噂があり、これらの悪僧を捜索するようにとの使者が頼朝から発せられました。

行家の最後は『吾妻鏡』1186年(文治2年)5月25日の条に記されています。行家が和泉・河内に潜伏しているという情報を得て捜索していた北条時定等は、5月12日、日向権守清実のもとに行家がいるとの情報により、同宅を取り囲みます。行家は山へと逃げ込みますが、捕らえられその場で斬首されました。また、翌日、行家の子息である光家も誅殺されたと記されています。本稿の主人公である行家の最期ですから、玉葉からもひろいます。

頼朝がこの事を摂政を通して後白河院に「奏聞すべきかどうか」伺いをたてたところ、後白河院は「直接関知しない」との返事があります。それに対して頼朝は摂政を「通して」報告したところ、これまた「関知しない」との後白河院からの返事があります。「あなたがかつて私(頼朝)追討を命じた行家は成敗しましたが、何か?」といったところでしょうか。「関知しない」というのもまた、報道で見聞きする政治家や官僚の「記憶にございません」と同じような感じがします。

1186年(文治2年)5月25日
(一条)能保朝臣・平六兼仗(北条)時定及び常陸房昌明等の飛脚参着す。前備前守(源)行家の首を持参す。先ず件の使者を営中に召され、事の次第を尋ね問わる。各々申して云く、備州(行家)日来(日頃)和泉・河内の辺に横行するの由風聞するの間、捜し求むの処、去る十二日、和泉国一在廰日向権守清實が許に在るの由、その告げを得て行き向かい、清實が小木郷の宅を圍む(囲む)。これより先備州(行家)逃げて後山に到り、或る民家の二階々上に入る。(北条)時定後より襲い寄す。昌明前より競い進む。備州(行家)相具する所の壮士一両輩防戦すと雖も、昌明これを搦め取る。(北条)時定その所に相加わり梟首しをはんぬ。同十三日、また備州の男(子息)大夫尉光家を誅すと。また左典厩の書状到来す。前備前守誅戮の事、左少弁定長を以て(後白河院に)奏聞するの処、知ろし食さるべからず(直接関わりなし)。摂政に申すべきの旨仰せ下さる。仍って摂政に申す。また知らざるの由(関知しないとのこと)返答するの間、これを送り献ると。この事、御感すでに常篇に絶ゆ(頼朝の満足は尋常ではなかった)。(時定、昌明への)恩賞尤もその次いでを得るものなり。
前備前守従五位下源朝臣行家、大夫尉(源)為義十男(本名義盛)
治承四年四月九日、八條院蔵人に補す(今日行家に改む)。寿永二年八月七日、備後守(勲功の賞)に任ず。同十三日、備前守に遷任す。
検非違使従五位下左衛門権少尉同朝臣光家、前備前守行家一男
寿永二年十一月九日、蔵人に補す。左衛門権少尉に任ず。使の宣旨(勲功の賞)を蒙る。元暦二年六月十六日、叙留す。

1186年(文治2年)5月16日(『玉葉』)
この日、行家の首洛に入る。これより先、(一条)能保朝臣使を送り申して云く、行家の首大路を渡し、使の廰に給うべきか如何。余云く、院に申し仰せに随うべしてえり。また云く、駿河の二郎(行家郎従)同じく搦め取りをはんぬと。今日関東より書状を光長朝臣に送りて云く、世上の事殊に計り申さるべきの由、議奏公卿の許に触れ示す所なり。その旨御存知有るべし。

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