木曽義仲

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木曽義仲

(きそ よしなか 1154~1184)

平氏を都落ちさせ京を制圧

 源義賢の子。木曽の通称が有名だが本来は源義仲。頼朝の父義朝の兄弟である義賢の長男、頼朝とは従兄弟にあたる。父の義賢は義朝の長男義平に討たれており頼朝とは少なからず因縁があった。当時2歳の義仲自身にも殺害の命が下されるが、乳父の中原兼遠など周囲の計らいにより信濃国木曽谷に逃れ同地にて育つ。以仁王が挙兵すると義仲は信濃にて挙兵。1181年6月、越後から攻め込んできた城助職を破りそのまま北陸道を進撃、以仁王の遺児である北陸宮を擁し北陸に勢力を広める。頼朝と対立する志田義広や源行家を庇護したことで頼朝と対立するもののこの時は和解。1183年倶利伽羅峠の戦いにて平氏の大軍を破り篠原の戦いにも勝利。一気に京都を目指し7月には京都を制圧し平氏を都落ちさせた。褒賞の叙目を受け洛中の守護を任された義仲は、その後の皇位継承問題において天皇のふたりの皇子を飛び越えて、以仁王の遺児北陸宮の即位を強硬に推挙。これが「天皇制」への介入となり摂政九条兼実は『玉葉』に「王者の沙汰は、人臣の最にあらず」と記している。さらに京都に駐留する大軍の統制にも失敗し武士たちが略奪を働き立場は悪化。平氏討伐にも苦戦した。その間に法皇が頼朝に対して東海道、東山道の支配権を与え上洛を促したことにより頼朝の大軍が京都に向け鎌倉を出発。これに激怒した義仲は法性寺殿を襲撃し後白河法皇を幽閉し強引に朝廷の掌握を図るが、人望を失った義仲に従うものは少なく、宇治川、粟津の戦いに敗れ討たれた。

徳音寺に残る木曽義仲像。

徳音寺に残る木曽義仲像。

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