岩殿寺
目 次
岩殿寺
(がんでんじ)
1300年という時間
徳道上人と行基菩薩が開き、花山法皇、後白河法皇が参詣し、そしてとりわけ頼朝が篤い崇敬を寄せた観音霊場。1300年という歴史に思いを馳せることができる希有な場所、岩殿寺を訪れて何を感じるかはあなた次第です。
エリア逗子・葉山
住 所逗子市久木5-11-7
宗 派曹洞宗
本 尊十一面観音
創 建721年
開 基徳道、行基
札 所坂東三十三箇所霊場第2番
文化財爪彫地蔵
岩殿寺は現在の行政区分では逗子市にありますが、鎌倉の歴史を語る上で欠かせない存在です。今から1300年もの昔、721年に創建され、現在は曹洞宗ですが最初は真言宗のお寺でした。
990年花山法皇がこの地を訪れて法要を営み、1174年には後白河法皇が参詣されこの霊場を坂東三十三箇所霊場の第2番に定めました。
源頼朝、実朝、政子、大姫が度々訪れたことが『吾妻鏡』にも記されています。頼朝の時代、岩殿寺の山頂付近から二階堂方面へと繋がる巡礼の古道がありました。二階堂にあるこれも734年創建の古刹、坂東三十三箇所霊場第1番の杉本寺に参拝し、古道を通ってここ岩殿寺に参詣していたそうです。
現在は宅地開発により古道はなくなってしまいましたが、古道を偲ぶ石碑が岩殿寺の山頂付近に残されています。
岩殿寺の縁起はこのようになっています。
いまから約1300年という古、徳道上人(656-735)が現在の岩殿寺付近を訪れた際、色鮮やかな雲に地上からひとすじの光が突き入るのを見たそうです。その光をたどってみるとそこにはひときわ高くそびえる奇岩の峰があり、上人は「ここは清浄無塵の禅窟なり」としてそこに座して勧請された。するといずこともなく十一面観音陀羅尼を唱える声が三方の岩々にこだましつつ聞こえきました。一方の岩肌に光明がふりそそぎ、十一面観音の姿が浮かび上がります。
そのとき麓より一人の老翁が登り来て、「ここは大悲応の霊洞です。私はその姿を拝しており、ずっとその尊容をお守りして久しくなります。この地は花を祭る山です。どうか万人のためのよき霊場をつくってやってください」と語り終えると、姿を消したそうです。
数年後、行基菩薩(668-749)がこの地を訪ねたところ、やはり同じように光を見てこの峰に登り、徳道上人と同じように老翁と出会います。行基菩薩は十一面観音の尊像を岩に彫り、この地を永く青門利生の霊場とされました。
この山は近くは相模湾の海を、遠くは三浦半島、伊豆、房総の半島を一望できる絶景の地であることから、山号を海前山(現在は海雲山)と名付けられました。
990年3月17日には花山法皇が来山し、自身が導師となり法要を営んだ。また、1174年(承安4年)4月18日には後白河法皇が来山し、坂東三十三箇所霊場第2番と定めました。
源頼朝は岩殿寺を篤く信仰し何度も参詣する他、朱印地を寄進しました。鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』には幾度も岩殿観音堂の名で登場し、頼朝後、北条執権時代となってもその信仰は変わりませんでした。江戸時代には徳川家康が境内の整備などを行っています。明治の廃仏毀釈によって衰退するものの、霊場としての姿を現在まで止めており、ぜひ一度は訪れたい古刹です。
明治時代にはあの文豪、泉鏡花が逗子滞在中に幾度も訪れ『春昼』『春昼後刻』は岩殿寺を題材に描かれています。あの泉鏡花独自の世界がここを舞台にしたのかと思うと感慨もひとしおです。また、観音堂右にある池は鏡花の寄進によるものです。
由緒に違わず峻険な山を霊場としており、霊場としての逞しい姿を満喫することができます。参堂から徐々に登り山門を入ると左手にする本堂と朱印所があり、その後まず最初の急な登りを経ると観音堂や、行基菩薩が岩に十一面観音を彫ったという奥の院、熊野神社などがあります。
観音堂の背後の山をさらに登るとかつて二階堂方面へと繋がっていたという古道を偲ぶ石碑があります。坂東三十三箇所霊場の第1番杉本寺、第2番岩殿寺を繋ぐこの古道は多くの参拝者が利用したようです。頼朝や実朝もこの古道を通ったのかと想像します(現在はこの古道はありません)。
寺院担当者様
私は神奈川県立海洋科学高等学校専攻科の者と申します。
この度は下記の墓に関するお問い合わせをさせて頂きます。以下になります。
逗子の無縁仏についてなのですが供養方法は何かありますでしょうか?
また、修行について、何か一般人が出来ることはありますでしょうか?
後日お伺いさせて頂いた聞いてもよろしいでしょうか?
以上となります。ご回答のほどよろしくお願い致します。
お問い合わせありがとうございます。本ブログはあくまで個人のブログです。
岩殿寺さんの公式なものではありませんので、お問い合わせの件は、岩殿寺さんに直接お問い合わせ下さいますよう、よろしくお願いします。