延命寺(逗子)

(えんめいじ)

行基、空海ゆかりの古刹

鎌倉・逗子に多くある行基菩薩ゆかりの古刹の一つ。一見すると都会の寺院ですが、知るほどに深い、1200年の古刹です。

エリア逗子・葉山
住 所逗子市逗子3-1-17
宗 派真言宗
本 尊大日如来(金剛界)
開 山行基
創 建天平年間(729-749年)
アクセスJR「逗子駅」下車、徒歩5分、もしくは京急「新逗子駅」北口下車、徒歩2分

“延命寺境内。”

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いろいろと想像が膨らむ寺院です。

駅近、現代的外観、平地ということから、古刹の雰囲気だけを楽しむ方には少々物足りないかもしれませんが、知性で「鎌倉」を味わおうという方にはなかなか見所多い寺院です。キーワードは、行基、空海、三浦、逗子、郡衙、東海道といったところでしょうか。

鎌倉・逗子地域に残る行基が開いた寺社

延命寺(逗子)は天平年間(729-749年)、行基(668-749)が自ら造った延命地蔵尊を安置したことに始まると伝わります。

当時、僧侶は朝廷により定められた者であり(僧侶令)、民衆への布教活動は禁止されていました(反政府的な民衆煽動という主旨でしょう)。行基は、この禁を破り民衆への布教や社会事業を行ったため、度々国家権力により糾弾され弾圧を受けていました。

しかし、行基は民衆からの圧倒的な支持を受けて糾弾を跳ね返し、当時仏教界の最高位である大僧正という位を日本で最初に贈られています。

行基の活動主体は生地でもある機内周辺でしたが、行基図といわれる日本地図を作る程日本全国を行脚したため、各地に行基を始まりとする寺院や社会事業の足跡が残ります。

鎌倉、逗子にある行基が開いたといわれる寺社は以下の様です。

満福寺(744年・天平16年)
甘縄神明神社(710年・和銅3年)
星の井寺(729-749年・天平年間)
杉本寺(734年・天平6年)
長善寺(724~729年・神亀年間)※寺は現存せず、辻の薬師に本尊が残る。
岩殿寺(721年・養老5年)
神武寺(724年・神亀元年)
延命寺(逗子、729-749年・天平年間)※鎌倉の延命寺は北条時頼夫人の創建。

行基が仏像を刻んで安置したとか、井戸に虚空蔵菩薩をみたということに始まっていることが多く、それを大事に受け継いできた結果、1200年以上経った現在にまで残っているわけですから、いかに行基菩薩が民衆に崇敬されていたかということを感ぜすにはいられません。

行基の足跡と旧東海道

鎌倉(御成小学校)と逗子(逗子小学校)には当時の役所である郡衙が置かれており、役所があるということは旧東海道もそこを通っていたといいます。延命寺をきっかけに旧東海道と行基行脚の足跡を想像するのも「鎌倉」の醍醐味です。

当時の東海道は、645年の律令制によって地方行政区分された「五幾七道(ごきしちどう)」によっています(771年に五幾七道制再編される)。都から常陸国(茨城県)までが東海道に区分され、腰越付近から極楽寺坂を越えて鎌倉に入ります。東京(武蔵国)は東山道に区分されています。

その後は六浦に出るルートと、鎌倉から海岸線もしくは名越を越えて逗子、葉山経由で横須賀市走水に至るルートがあったと考えられているそうです。いずれもその後は海路を千葉へと向かいます。上記にあげた行基菩薩開基と伝わる寺社はいずれもこのルート上にあります。

平安時代、鎌倉郡は沼浜、鎌倉、埼立、荏草、梶原、尺度、大島の7郷からなっており、現在の鎌倉市、藤沢市、大和市、綾瀬市、横浜市栄区あたりを指しています。鎌倉郷の郡衙は上記のように、鎌倉市役所となりにある現・御成小学校の地にありました(今小路西遺跡)。

この沼浜郷が現在の逗子市全域を指しているとされています。逗子小学校の地に郡衙があったことから、旧東海道を始めすべての道はそこを通り、沼浜郷では最も賑やかな場所だったことでしょう。そして、延命寺は道をはさんで逗子小学校のすぐ向かい側にありますから、沼浜郷の中心にある古刹として重要な役割を果たしていたことが想像できます。

源頼朝も遊んだ田越川

延命寺はまた、田越川沿いにあります。田越川は多古江川という表記で鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』にも登場します。源頼朝が「多古江川に遊ぶ」という記述もありますから、頼朝も今日の我々と同じように延命寺を見て、時には参拝したことでしょう。多古江川は鎌倉辺境の川という位置にありますから、由比ヶ浜や材木座と同じように処刑場としても使われたでしょうし、それを弔う役目も延命寺は担っていたことが想像できます。

ちなみに、平安後期に活躍した源頼朝の父義朝の屋敷は現在の逗子市沼間にある法勝寺付近とされており、当時の役所があったという逗子小学校から3km程下ったところです。源頼朝だけでなく、父義朝もまた神武寺とともに時には延命寺に参拝したのではないでしょうか。

弘法大師空海と延命寺

続いて弘法大師空海(774-835)です。弘法大師ゆかりの伝説は北海道を除く日本全国各地に数千あるといわれています。鎌倉・逗子地域にもいくつかの伝説が残されており、延命寺もその一つです。行脚中の空海が行基ゆかりの延命寺に立ち寄り、行基のつくった延命地蔵菩薩の厨子(仏像・経典・位牌などを安置する仏壇や建物)を建てたそうです。空海への崇敬からこれが、現在の地名である「逗子」となったといわれています。

他にも、江ノ島における金亀山与願寺の創建今泉不動海蔵寺の十六ノ井、成就院(星ノ井寺)などに空海とのゆかりが残ります。

三浦義教(道香)自害の地

境内には北条早雲に滅ぼされた相模三浦氏一族の墓があります。

源頼朝から遡ること5代前の河内源氏の棟梁、源頼義(998-1082)以来の源氏家人であった三浦一族は、有力な勢力として源頼朝の挙兵に加わり、鎌倉幕府成立後も北条氏と並ぶ最有力御家人として活躍しました。

鎌倉幕府を代表する有力御家人としての三浦氏は1247年(宝治元年)の宝治合戦により北条氏に滅ぼされますが、家そのものは支流である佐原三浦氏の三浦盛時(生没年不詳)により往時に比べれば細々と継承され、鎌倉・室町を生き抜き、戦国時代初期、相模三浦氏という戦国大名となります。

時の当主三浦時高は鎌倉郡や三浦郡を支配し大きく勢力を伸ばしますが、次の義同の代になり、伊豆から発し勢力を拡大する北条早雲に攻められ、当時の早雲は伊勢氏を名乗っていたとはいえ、またしても北条氏に滅ぼされることになりました。

延命寺において自害した三浦義教(道香)は、当主義同の弟です。以下、境内説明板「三浦道香主従七武士之墓」にはこうあります。

「時は戦国時代、北条早雲は三浦道寸義同(みうらどうすんよしあつ)が従っていた平塚の岡崎城を襲い敗退せしめた。三浦道寸義同は、弟の三浦道香が守る小坪住吉城に退いたが時すでに遅く、永正十年(1513年)城を攻められ落城する。三浦道香主従七武士は落ち延びた末、当山にて自害するに至ったのである。

 三浦道寸義同はその後、新井城(現在の三浦氏油壺付近)へと退いたが、永正13年に三浦道寸義同とその子の義意(よしおき)と共に新井城で自害をし、三浦一族は滅亡したのである。

 この墓は、家臣であった菊池幸右衛門が三浦道香主従七武士の霊を弔うために建立したものである。」

銅造阿弥陀三尊像(逗子市指定重要文化財)

延命寺には扇型の板にはめ込まれた3体の小さな仏像があり、鎌倉時代後期のものとして逗子市指定文化財となっています。以下、境内掲示板の記述です。

「延命寺は、黄雲山(こううんざん)地藏密院と号し、行基が開創したと伝えられる真言宗の寺です。

 銅造阿弥陀三尊像は、各像とも半肉堀り(はんにくぼり)で蓮華座を一鋳にしていて、元来は懸仏として鋳造されたものとみられます。『新編相模国風土記稿』逗子村八幡宮(亀ヶ岡八幡宮)の条に「本地佛を置く、三尊彌陀の木像を銕(てつ)面に打付しものなり」と記して扇型の板に付けた三尊像の図を掲げています。木像とあるのは誤りと思われますが、もし当初からこのような形をしていたとすれば、懸仏の形式として珍しい例と言えます。

 中尊の阿彌陀如来坐像は像高10.6センチメートル。脇侍の觀音・勢至菩薩立像はそれぞれ約8.5センチメートルの大きさで、中尊は弥陀定印(上品上生印・じょうぼんじょうしょういん)を結んでいます。三像とも造形は、細部まで丁寧に仕上げられており、面部や体軀も張りがあり、衣の皺(しわ)も写実的な柔軟さを保っています。鎌倉時代後期ごろの制作と考えられ、市内にのこる貴重な作品です。

 永く木製の厨子に納められていましたが昭和48年(1973年)に『風土記稿』の記述にならって、扇型の板材に取り付けられました。 逗子市教育委員会

指定年月日 昭和48年1月26日」

様々な時代を乗り越えて現在に至る

延命寺は、相模三浦氏を滅ぼし、最盛期には相模国を始め関八州240万石といわれる版図を築いた後北条氏からも帰依を得、領主が徳川家康となり江戸時代になっても御朱印地を与えられます。1687年(貞享4年)には、伽藍を竣工し新たに大日如来尊像造立して本尊としました。

明治に入り大火災によりほぼ全焼という災難にあい、更には関東大震災もありましたが、震災直後には復興に着手し、大正時代中に復興を成し遂げたということです。1977年(昭和52年)には現在の本堂が完成し、会館や庫裡等も1984年(昭和59年)現在の建物となっています。

延命寺(逗子)フォトギャラリー

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