第5回 神仏の変遷、廃仏毀釈

(えのしま/えのしまじんじゃ)

現在は国家神道の「江島神社」となっている江ノ島の神仏。しかし、これは江ノ島霊場1450年の長い歴史の中で、1873年(明治6年)以降の約140年のみです。それまでは千年以上「金亀山与願寺」という寺院であり、神仏双方が祀られていました。

参拝客で賑わう江戸時代の江ノ島。1873年(明治6年)の廃仏毀釈や埋め立てのない、本来の霊場 江ノ島の姿。相州江之島弁財天開帳参詣群衆、歌川広重、19世紀。画像提供:東京国立博物館

参拝客で賑わう江戸時代の江ノ島。1873年(明治6年)の廃仏毀釈や埋め立てのない、本来の霊場 江ノ島の姿。相州江之島弁財天開帳参詣群衆、歌川広重、19世紀。画像提供:東京国立博物館

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第5回 江ノ島 神仏の変遷、廃仏毀釈

霊場江ノ島誕生、金亀山与願寺となる

江島縁起によれば、552年に海底より砂が吹き出し、21日間で江ノ島ができたといわれます。120年後、江ノ島に籠った修験道の開祖、役小角(えんのおづの)は飛鳥時代の672年(白鳳元年)に霊場江ノ島を開きました。平安時代となった814年(弘仁5年)弘法大師 空海が岩屋に籠り、鎮護国家を祈願、岩屋に本宮を創建。これにより江ノ島は金亀山与願寺(よがんじ)となりました。

552年に欽明天皇が神を祀ってより今日まで約1450年という江ノ島の歴史において、純粋な神社であったのは仏教が入る以前の時期を入れても、552年〜814年、1873年〜現在の400年程です。与願寺として信仰された期間は814年〜1873年までの1059年間ということになり、今日の江ノ島をつくった力としてはやはり与願寺の大なるを想像せざるを得ません。

源頼朝起源の弁財天勧請から江ノ島弁財天信仰が始まる

1182年(寿永元年)鎌倉幕府を開きつつあった源頼朝の藤原秀衡調伏のために文覚が弁財天を勧請し、これが実質的な弁財天信仰としての江ノ島の創建といわれます。源頼朝起源の弁財天とあって、歴代の鎌倉幕府将軍や執権、江戸幕府からも篤く敬われます。庶民にも大いに信仰され、江戸時代には江ノ島弁財天詣が大流行したそうです。その様子は浮世絵等にも描かれ、境内の各所にもみることができます。

源頼朝起源の弁財天について鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』には以下のような内容が記されています。
「4月5日、源頼朝は腰越付近から江ノ島に出かけた。足利義兼、北条時政、新田義重、畠山重忠、下河辺行平・政義、結城朝光、上総広常、足立遠元、土肥実平、宇佐美実政、佐々木定綱・盛綱、和田義盛、三浦義連、佐野基綱等が御供した。これは高雄の文覚上人が頼朝の祈願成就を祈るため大弁才天を江ノ島に勧請し、その供養法のため特別に臨席したものであった。鎮守府将軍藤原秀衡を調伏するための秘密の行法であった。頼朝は鳥居を建てられ、その後にお帰りになった」。
「4月26日、文覚上人が頼朝の御所に参上した。去る5日より江ノ島に参籠し、21日を経て昨日江ノ島を出たものだった。その間断食して祈願したと報告した」。

1190年(正治元年)、北条時政は江ノ島に参籠し一族の繁栄を祈願し、その際に龍神が3枚の鱗を残しこれが北条の家紋、三鱗となったと伝えられています。

源頼朝が死去した1199年(建久元年)、鶴岡八幡宮の僧(鶴岡八幡宮も明治の廃仏毀釈までは神宮寺)であった慈悲上人 良真は江ノ島千日以上も籠り、修行しました。良真は源実朝に下之宮(現 辺津宮)創建を請願し、下之宮が建てられました。

『吾妻鏡』によると1296年(永仁4年)には江ノ島が隆起し、徒歩で渡れるようになったといいます。また、日蓮宗の開祖、日蓮は四大法難のひとつ、龍ノ口法難(1272年)の際、江ノ島方面から飛び来る光により危機を脱したことから、江ノ島は日蓮の奇跡が起きた島としても信仰されました。

室町時代の1338年(宝徳2年)江ノ島は鎌倉府の御料所となり保護されます。戦国時代の後北条氏もまた江ノ島を霊場として保護します。北条早雲は江ノ島における軍勢の乱妨狼藉を禁止し、北条氏康は上之宮(現 奥津宮)、下之宮(現 辺津宮)の修造に寄進を行います。その他にも、北条綱成や氏照なども霊場として保護しています。

未だ豊臣秀吉の麾下にあった徳川家康は1600年(慶長5年)江ノ島に参拝。そのかいあってか、3年後の1603年(慶長8年)2月12日、征夷大将軍に任じられ徳川幕府を開きます。戦乱が終わり江戸時代になると、江戸から近いことから江ノ島弁財天詣が盛んとなり観光地としても発展していきます。

廃仏毀釈により仏教関連施設や史跡を破壊、あるいは排除し神社となる

明治維新後に明治政府が成立すると、1873年(明治6年)に神仏分離令が発布されます。それとともに廃仏毀釈運動が起こり、「金亀山与願寺」であった江ノ島は三重塔や八臂弁財天を安置していた楼門など貴重な仏教施設が破壊もしくは廃棄され、主祭神を宗像三女神に変更して今日ある「江島神社」の姿になりました。

僧院であった岩本院は僧侶が全員僧籍を離れて神職となったことから宿泊施設となり現在も岩本楼として続いています。さすがに弁財天は摂社に祀られ、残されました。現在、弁財天は泰安殿(弁天堂)に祀られています。永く信仰された霊場江ノ島の歴史に触れたいという方は、岩屋と泰安殿(弁天堂)の弁財天は必ずお参りされるとよいと思います。

神仏分離自体は江戸時代から藩によっては行われており、単純に「分離」するだけであればあまり問題はなく、1868年(慶応4年)の神仏分離令も仏教の破壊を意図したものではありませんでしたが、これに端を発し、日本の貴重な文化と文化財を数多く破壊した廃仏毀釈運動が起こります。

数年後の1871年(明治4年)には全体として終息したものの、その間に日本全土において仏堂、仏像、仏具などが破壊され、数多くの歴史ある寺院が廃寺に追い込まれました。

大阪住吉神社神宮寺に大伽藍はほとんどが破壊され、奈良興福寺でも食堂が破壊、千葉鋸山の五百羅漢はすべてが破壊、伊勢神宮のお膝元である三重県では100か所以上が廃寺となったといいます。

鎌倉でも、鶴岡八幡宮にあった数々の仏堂や塔頭、仏像が破壊され、源頼朝が創建し700年に渡り神仏双方が護持されてきた鶴岡八幡宮は全く違う姿になってしまいました。鎌倉に大量にあるやぐらにはよく仏像が安置されていますが、首の折られているものが多数あります。これももしかすると廃仏毀釈の行いかもしれません。様々な変遷を経て今日残っている歴史ある日本の神仏を少しでも大切にしていきたいものです。
(江ノ島/江島神社 全5回 おわり)

第1回江ノ電「江ノ島駅」~表参道~辺津宮
第2回中津宮
第3回奥津宮、山二つ
第4回稚児ケ淵、岩屋
第5回江ノ島 神仏の変遷、廃仏毀釈

江ノ島/江島神社 第5回(全5回)フォトギャラリー

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