江ノ島/江島神社 第3回 奥津宮、山二つ
目 次
第3回 奥津宮、山二つ
(おくつみや)
中津宮の参拝を終えて山二つへと向かいます。徐々に霊場らしい展望もみえてきます。中村屋羊羹店の銘菓、海苔羊羹と風情ある店構えをみながら奥津宮をめざします。
第3回 山二つ、奥津宮
中津宮から山二つを越えて奥津宮へ
中津宮から奥津宮(おくつみや)へと向かいます。道すがらには岩本院出身の俳人、間宮露軒の石碑などがみられます。続いてサムエル・コッキング苑があります。これは明治始め頃来日したアイルランド商人が別荘と庭園を造営しボイラーを使うなどして熱帯植物などを育てたものを、関東大震災の崩壊後藤沢市が復興して観光名所としたものです。
霊場江ノ島とは何ら関わりなく、自生していた植物を廃して生態系を崩しているのではないかと思えます。なぜ1450年の霊場(しかも土地が限られた)にわざわざ熱帯植物などの外来植物の大きな施設が必要なのか違和感があります。常夏をイメージした“南国ムード”も馴染めません。鎌倉や江ノ島は当然、秋冬かなり冷え込みます。
植物園を過ぎると、一遍上人が飲料水に窮する島民のために掘ったという「一編成就水」があります。一見何の変哲もない小さな井戸にみえますが、熱帯でもない江ノ島に外人が植えた植物をありがたがるより、はるかに歴史の逞しさを感じさせてくれる史跡です。
さらに、江の島大師、福村漁村句碑、1911年(明治44年)創業の貝細工店「貝広物産店」などがをみながら進むと「山二つ」の絶景がみえてきます。これは東西の山の接点となっている箇所であり、南側の「長磯」と名付けられた隆起海食台に圧倒されます。
長磯の景観を過ぎると、階段を下り道が細くなります。この部分に1902年(明治35年)創業の中村屋羊羹店があります。中でも大正時代にを完成した「海苔羊羹」、数々の受賞歴を持つ江の島の銘菓となりました。店舗も昔ながらの雰囲気を保つおすすめのお土産です。
木食上人の石碑も見逃せません。山二つの谷底において五穀を断って木の実のみを食して修行(木食上人・もくじきしょうにん)した場所があり、その石碑が建てられています。残念ながら谷底には危険なためいけません。江の島が霊場であった歴史を肌で感じます。
細い道を抜けると、奥津宮がみえてきます。そこにある小さな鳥居は1182年(養和2年)、源頼朝により寄進されたものを再現したものです。※詳しくは後述。源頼朝寄進の鳥居右手にはかつて鎌倉四名石といわれた「亀石」が大銀杏の根本に置かれています。
奥津宮は江ノ島霊場発祥の地である岩屋にもっとも近い場所にあります。本宮または御度所(おたびしょ)といわれ、壮麗な建物であったそうです。1841年(天保12年)に焼失し、翌1842年(天保13年)に再建されました。
拝殿上部にはどこからみても、こちらを睨んでいるようにみえることから「八方睨みの龜」が描かれています。もともとは1803年(享和3年)に画家の酒井抱一が描いたものですが、保存のため現在のものは復元画となっています。原画は泰安殿(弁天堂)にあります。現在奥津宮には多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)が祀られていますが、江ノ島に現在の宗像三女神が祀られたのは明治の廃仏毀釈後のことです。
奥津宮の右手には山田検校顕彰碑と坐像があります。山田検校は山田流琴曲の開祖であり琴曲「江ノ島曲」の作者でもあります。1917年(大正6年)幸田露伴らにより建てられました。現在の坐像は復元されたものです。
1996年(平成8年)奥津宮の近くに「恋人の丘」がつくられました。江ノ島の縁起伝説である天女と五頭龍にちなんで藤沢市がつくったものです。霊場の縁起を利用した集客イメージ戦略も悪気はないのでしょうけれど、好みではないため風光明媚な広場と思うようにしています。
(第4回「稚児ケ淵、岩屋」に続く)
第1回江ノ電「江ノ島駅」~表参道~辺津宮
第2回中津宮
第3回奥津宮、山二つ
第4回稚児ケ淵、岩屋
第5回江ノ島 神仏の変遷、廃仏毀釈